ほどけた靴紐、結べない約束

小谷野 天

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6章

氷の雪

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 この前冬休みが始まったと思うと、あっという間に学校生活が終わりを迎えた。
 ここに留まっていたいという思いが、反対側で待っている新しい生活に手を引っ張られ、何度も振り返りながらまだ寒い春に向かっていく。

 也は同じ町の大学ではなく、この町からずっと離れた別の町の大学に行く事になった。
 希望していた大学の受験に失敗した也は、凪が通う大学とは反対側の町に新設された大学に進学する事が決まった。
 遥は両親から説得されて、結局、地元の大学に通う事に決めた。いくつかの大学に合格したと言っても、一人っ子の遥を遠くへ送り出す勇気が、両親にはなかった。
 唯一、凪と同じ町の大学に通うと思われた雅紀は、大学の移転により、凪の住む町の隣りで暮らすことになった。
 一緒にいられると思った一瞬の喜びは、凍りついた寂しさに変わっていく。
 4人の間では、何度も小さな衝突が起こり、自分の力ではどうにもならない現実に、いつしか疲れて、話す言葉がなくなっていった。そして、卒業式を迎える頃には、何もかもが苦い思い出で、顔を合わせる事が辛くなった。

「凪、ごめん。」
 卒業式の次の日。也から電話がきた。
「なんで謝るの?」
「一緒にいれないなら、付き合っている意味がないよ。」
「也、私は嫌いになんかならないよ。いつかまた、」
「綺麗事なんて言うなよ。新しい環境に行ったら、また新しい人と出会うんだ。」
 凪の話しを遮って也から出た言葉は、都合のいい言い訳に聞こえる。
「也、このまま気持ちを留めておくのって、そんなに難しい事なの?」
「難しいよ。気持ちなんかすぐに変わる。」
「そっか。」
 凪の目で待機していた涙が、一斉にスタート地点から走り出す。誰もいなくなった空間には、本当の寂しさが煙の様に漂っている。

「凪、ご飯できたよ。」
 夕方、母が部屋に籠もる凪を呼びに来た。
「ぜんぜん、引っ越しの準備してないじゃない!」
 開いたままの引き出しや、出しっぱなしの服を見て母がため息をついている。
「これから、やるから。」
 凪はそう言って、足元の段ボールを軽く蹴った。
「後でもう少し段ボール持ってこようか?」
「そうだね、うん。」
「そう言えば、昨日あの人からお金が振り込まれてると思うから。」
「なんで?」
「なんでって、凪の引っ越し代。」
「そんなのお母さんの所に振り込めばいいのに。」
「あの人はよっぽどお母さんが嫌いなのね。」
「ねぇ、なんでお父さんと別れないの?」
「なんでだろうね。お母さんが意地っ張りなのかな。」
「だって、悪い事をしたのはお父さんでしょう。たくさんお金をもらって別れる事だってできるのに。」
「これはね、お金じゃないのよ。」
 母はそう言って部屋を出ていった。
 母が父から奪いたいのは、父の持つ自由なのかもしれない。もし、自分から別れを切り出してしまったのなら、父はどんなにお金を払ってでも、きれいさっぱりと新しい家族の元で暮していく。
 会社ではある程度の立場になり、たとえ愛人がいると言っても母が騒ぎ立てなければ、男としての信頼を保っていられる。もしかしたら、それもひとつの地位のある男の甲斐性なのか。母が失ったこれまでの時間は、父からどんなものを手に入れても、同じ価値にはならないんだ。
 父と一緒に暮らすあの女性とあの男の子は、これからも母の冷たい視線を感じながら、一生縛り付けられて、後ろめたい気持ちで暮していけばいいんだ。それが母からの仕返しなのだから。凪はそう思った。

「これ以上、俺を縛り付けるなよ。」
 也の言葉を思い出す。
 也もまた新しい恋に落ちて、自分の事なんてあっという間に忘れていくんだろう。それをさせないと必死でしがみついている自分は、母と同じ様に也の自由を奪おうとしているのかもしれない。縛り付けているつもりなんてなかったのに、也と一緒にいた時間は、そんなに辛く感じていたんだ。
 
 3月の終わり。
 住み慣れた家も人手に渡り、母は職場の近くの小さなアパートに引っ越した。
 引っ越しにもこなかった父とは、本当にお金だけが行き来をする関係になった。
 両親は相変わらず離婚の事でモメている。裁判という話しも出てきたが、相手の女性にもその償いをしてもらいたいと母が言い出すと、父からの連絡はほとんどこなくなった。

「凪、引っ越しにはついていけないけど、入学式には必ずいくから。」
 引っ越しを終え、夕食の支度をしている母が言った。
「大丈夫だよ。ゆっくり片付けるから。」
「ごめんね、その日はどうしても抜けられない会議があってね。」
「入学式だって、1人でも平気だよ。お母さんの仕事は忙しいんだから。」
「凪がいなくなって、寂しくなるわね。」
「私も、これからのご飯、どうしようかと思ってる。」
「ちゃんと自炊するのよ。コンビニやファーストフードばっかりなら、あっという間に体を壊すんだから。」
「でもね、お母さん。自分で作ったものって、あまり美味しくないんだけどな。仕方なくとる餌って感じがするの。」
「まぁ、そうね。それでも食べなきゃ死んじゃうから。」
「ねぇ、お母さん。」
「何?」
「お父さんって、何が好きだったの?」
「おかずの事?」
「そう。」
「うーん、お刺身かな。ほら、海の近くで育ったから、魚が好きだったみたいよ。そのまま焼いて食べるとか、お刺身が良かったみたいなんだけど、子供が小さいうちは、そんなに魚料理は出せないからね。そのせいかな、お父さんはよく仲間と飲んで帰ってきてた。」
「わがままなんだね。おばあちゃんもお父さんにベタベタしていたし。」
「母親にとって息子はずっとかわいいものよ。」
「ふ~ん。」
 祖母は私達を不幸にしている父の事を、それでも許しているのだろう。
 少し前、父が帰って来なくなったのは、母が父にきついからだと、祖母が家にきてヒステリックに叫んだ事があった。父が浮気をしている事を母のせいにして、嫁としての恥だと罵った。
「違うよ、おばあちゃん。」
 凪が口を挟むと、
「お前も、この女と同じか。」
 そう言って祖母は、凪の髪を引っ張った。
「だって、おばあちゃん!」
 言い返そうとする凪を自分の部屋に向かわせた母は、それならしばらく祖母を言い合いを続けていた。 
 悪い事をしたのは父なのに。
 約束も守れないくせに結婚なんてして、それでも仕方ないと開き直ってる、父をそんな性格に育てたのは、祖母なのに。
 私や母は、失うものが怖くて、そこにある新しいものに手を伸ばせない、臆病な人間なんかじゃない。抱えていた幸せなんて、とっくに寂しさの塊に変わっているのに、それでも新しいものに手を伸ばそうとしない気持ちは、ただの強がりなんかじゃくて、もっともっと根深いものなの。  
 あの時。 
 自分の中で壊れてしまった何かは、もしかしたら、何度も捻れて、ひねくれた心に変わってしまったのかもしれない。
 くだらない。
 凪は心の中で呟くと、祖母が勢いよく玄関を出ていく音を聞いた。

 3月の最後の木曜日。
「凪。」
 駅で汽車を待っていると、ホームのベンチに座っていた也が声を掛けてきた。
「今日、むこうへ行くのか?」
「うん。」
 凪の隣りに立った也は、いつもの同じ笑顔だった。
「今日は変な本を読んでないのか。」
「うん。」
 凪が素っ気ない返事をすると、
「怒ってるのか?」
 也が言った。
 凪が目の前に着いた汽車に乗り込むと、也は汽車には乗らず、凪に手を振った。
 悲しくて寂しくて、それをうまく言えなくて…。
 恋の海に少しだけ足を入れて溺れた自分は、本当に哀れだ。凪は手を振る也を一瞬見ると、手を振り返す事なく、也からは見えない反対側の席に座った。 
 今はただ、この町で抱えた冷たい思い出の塊から、少しでも離れてしまいたい気持ちでいっぱいだった。わずかに残っていたと思った忘れたくない出来事も、そのうち同じような冷たい氷の塊に変わっていく。
 新しい町で人の波に流されて暮らす自分は、なんの感情なんか持たずに、風に逆らわず生きていこうと決めた。 
 
 止まる事のない風車を回しているのは、そんな無力の風。皆、初めから首から上なんてなかったんだよね。

〝またいつか
 2人で会う事があって
 お互い自由でいたら
 その時は
 また好きだって、俺から言うよ〟

 也からのラインに、凪は返信はしなかった。
 もう、誰かを好きになんかならないよ。
 1人で生きていくという強さは、どんな鎧よりも自分を守ってくれるんだから。

 
 
 
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