1 / 11
1章
曇り空
しおりを挟む
空が低く感じる日は、心が落ち着く。
日曜日。
起きてカーテンを開けた真中美里《マナカミサト》は、また布団に入ると、枕元に置いてある本を開いた。
時計を見ると、午後2時を過ぎている。
昨夜は明け方まで映画を見ていたせいか、少し本を開いただけでまた眠気が襲ってくる。
美里が見て映画は、ヒーローもヒロインも出てこない、古い日本の戦争映画。
有名な俳優が出ている新作を見ていた時もあったが、主人公が幸せになる話しを見た後は、なんとなくだけど、居心地が悪い。
父を早くに亡くし、母と姉の3人で暮らしてきた美里。
5つ違いの姉は、母と同じ看護師になり、結婚して2人の子供がいる。
少しだけ父の記憶がある姉と、いつも忙しい母が父の話しをする時は、美里は2人の邪魔をしないように、近くでニコニコと笑っていた。
母の仕事の迷惑になってはいけない。
熱が出た日も、布団の中で一人、本を読んでいた。母がお昼に食べなさいと作ってくれたおにぎりは、全部食べる事ができない。
仕事から帰ってきた母が、残ったおにぎりを黙って見ていると、美里はごめんなさいと謝った。母はやっぱり梅干し嫌いだった? とそれを笑って食べる。
「美里、晩ごはんは何が食べたいの?」
「なんでも。」
自分の中にいるもう一人の誰かが、甘えることは、恥ずかしくて、情けない事。幸せな時間なんかそう長くは続かない。そう言っている。
いつの頃からか、悲しみや淋しさの中にいる方が、心地いい。
夢なんか見なくても、与えられた時間を静かに生きて行きていけば、時々笑う事ができるはず。
理不尽な話しの映画を見て、眠れない夜を過ごす夜。
嫌な感情を吸い取って膨らんでいる細胞は、美里の中でイキイキとしていた。
週末が近づく木曜日。
美里は、レンタルショップでは貸出中の札がほとんどかからない映画が並ぶ棚から、2本ずつ借りてきては、金曜日の夜と土曜日の夜に、それを見て夜更かしをしていた。
今の時代、映画はネットで容易に見る事ができたけれど、見たいものを自分で選ぶネットよりも、レンタルショップで並んだものを順番通りに借りてくるほうが、何も考えずに済んだ。
仕事と家の往復ばかりの美里にとっては、レンタルショップに寄る木曜日だけが、ほんの少しの寄り道。別に見たくて借りてきているわけではないけれど、そうでもしなければ、生きている時間がとても長い。
夜中に映画を見て、朝方眠る。それからお昼過ぎまで寝ていると、週末はなんとなく過ぎていった。
笑う事も話す事も泣く事もなく過ごす時間は、それはそれで誰にも迷惑はかからない。
今日の様な曇天の空で過ごす休日は、罪悪感を感じる事なく、堂々と時間を潰す事ができた。
少し前までは、好きだった野球チームの応援もしていたけれど、近くでそんな話しをする人がいなくなってからは、テレビすらつける事がなくなった。
携帯電話はいつもカバンに入れっぱなし。SNSなんかほとんど見ることもない。家にいる時間のほとんどが、ベッドの上でダラダラと過ごしている。
休日、おかしな時間に寝たり起きたりしているせいか、この頃は平日の生活にも影響が出てきた。どんなに残業して遅く帰ってきても、なかなか寝付く事ができない日が続き、仕事中に眠気が襲い、お昼を過ぎるとパソコンの文字が二重に見える。やっと、生活のリズムが整っていた頃に、まただらしない週末を迎える。
美里が好きだった人、澤崎渉《サワザキワタル》は、同じ職場の5つ上の先輩だった。
美里が一方的に想いを寄せていた澤崎は、普段はおちゃらけているのに、上司との間もうまく繋いでくれる頼れる男性。
美里とは席も近く、冗談を言って笑わせているように見えても、仕事のフォローもさりげなくしてくれた。
新人歓迎の席で、澤崎には園田亜沙美《そのだあさみ》という彼女がいて、澤崎の猛アプローチの末に、2人は付き合ったという話しを同期から聞いた。
穏やかなでキレイにな亜沙美が彼女だとわかると、理想の二人だね、そう言いながらも、美里の恋はあっという間に終わってしまった。
「この数字間違ってるよ。」
「すみません。すぐに直します。」
「真中、よく数字間違えるよね。打ち込めば計算できるようになっているのに。もしかして、自分で計算して打ち込んでるとか?」
澤崎が美里のマウスに手をやる。
「ほら、ここ、計算式がなくなってる。」
「あれ?」
「総務なんか裏方だと思ってるかもしれないけど、重要な役割なんだよ。」
「はい。」
「早く、直せよ。これが終わらないと、今日は残業になるぞ。野球、気になるんだろう?」
「野球?」
「真中くん、お茶入れてくれないか?」
課長がそう言っている。
「ほら、呼んでるぞ。残業したくなかったら、お茶入れるのは新人の仕事じゃないって、言ってやれよ。」
澤崎はそう言って笑った。
「そんな事、言えませんよ。」
「いいふりしてたら、仕事終わらないぞ。」
澤崎が立ち上がった。
「課長、俺もちょうど休憩しようと思ってたんですよ。真中さんの指導してたら、喉カラカラです。」
「真中くんはまだ入ったばかりかだからな。みんなもちょっと休憩しよう。部長からのお土産もあるし。」
課長の言葉に皆が手を止めた。
「真中、みんなの分のお茶入れろよ。」
「そんな、」
美里は給湯室にやってきた。ポットにお湯を入れていると
「美里ちゃん?」
澤崎の彼女が美里に話し掛ける。
「亜沙美さん。」
「こんな時間、お湯入れて何?」
「お茶を入れたら、お湯がなくなりました。」
「総務は美里ちゃんしか、新人が入らなかったもんね。」
「私が仕事遅いから、みんなに迷惑掛けてるんです。」
「大丈夫よ。総務は課長も穏やかだし、課の雰囲気がいいから、美里ちゃんもすぐに慣れるって。」
「亜沙美さんは、休憩ですか?」
「私はお昼よ。」
「こんな時間に?」
「仕方ないのよ。そういう部所だから。」
「大変ですね。」
「美里ちゃんは、ちゃんと食べてるの?」
「食べてますよ。」
「渉がお菓子ばっかり食べてるって言ってたよ。」
「お弁当作るのがめんどくさくて。」
「会社の裏に、お弁当屋さんが時々くるから、今度一緒に買いに行こうよ。」
「本当ですか。」
「美里ちゃんの同期の子、なんだっけ? あの子、」
「梶原くんですか?」
「そう、梶原くん。あの子もお菓子ばっかり食べてるから、一緒に行こうよ。」
給湯室を出た美里は、同期の梶原に呼び止められた。
「真中、今日、同期で飲みに行こうって話しになってるけど、仕事終わりそうか?」
「今日?」
「坂下が急に言い出したんだよ、18時。」
「終わるかな。」
「こんな時間に休憩するくらいだから、終わるだろう。」
梶原は美里の持っているポットを見た。
「総務はいいよな。うちは最悪だよ。じゃあ、18時に玄関で待ってるから。」
「梶原くん、お菓子ばっかり食べてるって、亜沙美さんが言ってたよ。」
「お菓子じゃないよ。栄養の取れるなんとかバーだよ。」
美里は笑った。
「じゃあ、あとでな。」
美里がポットを抱えて戻る
「真中さん、お茶、ありがとう。」
そう言って先輩はお菓子をくれた。
自分の席に座ると、出来上がった書類が美里の机に上がっている。
「澤崎さん、これ?」
「お湯入れるのに、優雅にイギリス辺りまで行ってたのか?」
美里は笑った。
「澤崎さん、どうも、ありがとうございます。」
「真中、ずいぶんお菓子もらってきたんだな。」
「先輩達がくれたんです。」
澤崎はそれを一つ取って食べ始めた。
「ヤクルト、今何位だった?」
「えっ?」
「真中、ヤクルトファンだろう。歓迎会の時、話してたから。」
「あっ……、そうです。今、5位かな。」
「急に強くなったり、弱くなったり忙しいチームだよな。試合開始まであと、3時間しかないから、早く仕事片付けろ。」
失恋はしたけれど、職場で澤崎と他愛もない事を話し、時々、優しい亜沙美と3人一緒に笑う日々が、美里はとても楽しかった。
朝早く出勤していた澤崎は、就業時間の前、美里よく話し掛けた。美里もそれが嬉しくて、そのうち澤崎に合せて早めに出勤するようになった。
仕事が始まる少しの間、ついつい会話が熱くなくなり、課長にもよく注意された。
そんな楽しいな毎日が、これからもきっと続いていくのだろう、と美里はそう思っていた。
澤崎が自殺したのは、2年前の夏。
総務部から企画部に人事異動になった澤崎は、5月の連休のあとから姿が見えなくなり、長期休暇を取っているという噂が広かった。
時々、彼女の亜沙美に会って話しをする事もあったが、澤崎の事は聞きづらく、亜沙美もその話題には触れないようにしているようだった。
給湯室で澤崎の事を噂をしていたので、
「澤崎さん、いつから休んでいるんですか?」
美里はそこにいた女子の一人に聞いた。
「私もよくわからないけど、休職の診断書が出たみたいよ。せっかく、企画部に異動して、これから出世コースまっしぐらかと思ってた人なのにね。」
あれだけ明るくてイキイキと仕事をしていた澤崎が、家で塞ぎ込んでいる現実が信じられなかった。そのうち、また普通に出勤して、好きな野球の話しができるだろう、美里はそう思っていた。
社員が夏季休暇を取り始めた7月の終わり。
澤崎が自分の車の中で自殺を図り亡くなったと、会社は騒然となった。死因は一酸化炭素中毒で、澤崎の実家から少し離れた所に停めた車の中で死んでいたらしい。
遺書は数枚残されていたが、どれも死ぬことを詫びるばかりで、何が澤崎の心を壊してしまったのかは、わからないままだった。
葬儀では、社長や上司達が皆、会社の中で期待の人材だったと、澤崎の両親に話していた。
亜沙美は、すっかり生気を失くしたようで、花瓶の中で下を向いている、捨てられる寸前の花のように見えた。
「亜沙美さん。」
美里は声を掛けたが、亜沙美は虚ろな目で美里を見て、頭を下げるだけたった。
澤崎がいなくなってから、亜沙美は会社を辞めた。
今、どこにいるかもわからない。
2人がいなくなっても、会社は何事もなかったように日常に戻っていった。
美里は誰かと話す事も減り、いつの間にか野球を見ることもやめてしまった。だからといって、転職をするつもりはなく、覚えている仕事を淡々とこなし、なんとなく生ぬるい空気の中で、毎日やり過ごす事にしていた。
いくつかある女子達のグループに入って、おしゃべりしたり、おしゃれをして遊びに行く気にもなれかった。
グループから離れた女子の数人が、時々美里の所に話しに来ていたが、彼女達とも、週末に一緒に出掛けるとか、仕事が終わってからお酒を飲みに行くのを断っていた。
「真中さんの歯医者、なかなか終わらないね。」
誘いを断る度に、歯医者の予約があると言っていたので、そんな事を言われるようになった。
昨年から同じ総務課に異動してきた城田真由《シロタマユ》は、時々美里とおしゃべりをする。人あたりがよくて、男性からも人気のある真由は、いくつものグループともうまくやっていた。
真由は一人でいることの多い美里を、よく飲み行こうと誘った。大勢が嫌なら、真由と二人だけで行こうと言われたが、美里はあい変わらず、歯医者があると断っていた。
美里が本当は嘘をついている事を真由は察していたが、それ以上、深入りはしなかった。あんまり自分の事を話さない美里に、週末とかは何してるの? と聞いた事があったが、美里は寝てます、笑ってそう答えるだけ。
木曜日。
いつものようにレンタルショップに来ていた美里は、この前借りていたDVDの隣りから2本借りようと棚に向う。自分が借りていた映画のタイトルは憶えていなくても、貸出中の札がかかっているのですぐにわかる。あまり借りる人がいないいつもの棚は、美里を迎えているように待っていた。
周りを見ずにDVDの棚に手を伸ばすと、同じく手を伸ばす男性と目が合う。
「ごめん、先にどうぞ。」
その男性が美里に言った。
「あっ、いえ、どうぞ。」
美里が男性にそう言うと、
「じゃあ、先に借りるから、来週の木曜日に来るといいよ。」
男性はそう言うと、ケースからDVDを取り出してレジに向った。美里は男性が借りた映画のタイトルを見ると、「黒い雨」と書いてあった。空のケースを手に取り、原爆の映画だと知ると、変わった人だな、と、まだレジにいた男性をチラッと見た。美里は男性と目が合い、棚に隠れた。
いつものルーティンを崩された美里は、その日は何も借りずに店を出た。
日曜日。
起きてカーテンを開けた真中美里《マナカミサト》は、また布団に入ると、枕元に置いてある本を開いた。
時計を見ると、午後2時を過ぎている。
昨夜は明け方まで映画を見ていたせいか、少し本を開いただけでまた眠気が襲ってくる。
美里が見て映画は、ヒーローもヒロインも出てこない、古い日本の戦争映画。
有名な俳優が出ている新作を見ていた時もあったが、主人公が幸せになる話しを見た後は、なんとなくだけど、居心地が悪い。
父を早くに亡くし、母と姉の3人で暮らしてきた美里。
5つ違いの姉は、母と同じ看護師になり、結婚して2人の子供がいる。
少しだけ父の記憶がある姉と、いつも忙しい母が父の話しをする時は、美里は2人の邪魔をしないように、近くでニコニコと笑っていた。
母の仕事の迷惑になってはいけない。
熱が出た日も、布団の中で一人、本を読んでいた。母がお昼に食べなさいと作ってくれたおにぎりは、全部食べる事ができない。
仕事から帰ってきた母が、残ったおにぎりを黙って見ていると、美里はごめんなさいと謝った。母はやっぱり梅干し嫌いだった? とそれを笑って食べる。
「美里、晩ごはんは何が食べたいの?」
「なんでも。」
自分の中にいるもう一人の誰かが、甘えることは、恥ずかしくて、情けない事。幸せな時間なんかそう長くは続かない。そう言っている。
いつの頃からか、悲しみや淋しさの中にいる方が、心地いい。
夢なんか見なくても、与えられた時間を静かに生きて行きていけば、時々笑う事ができるはず。
理不尽な話しの映画を見て、眠れない夜を過ごす夜。
嫌な感情を吸い取って膨らんでいる細胞は、美里の中でイキイキとしていた。
週末が近づく木曜日。
美里は、レンタルショップでは貸出中の札がほとんどかからない映画が並ぶ棚から、2本ずつ借りてきては、金曜日の夜と土曜日の夜に、それを見て夜更かしをしていた。
今の時代、映画はネットで容易に見る事ができたけれど、見たいものを自分で選ぶネットよりも、レンタルショップで並んだものを順番通りに借りてくるほうが、何も考えずに済んだ。
仕事と家の往復ばかりの美里にとっては、レンタルショップに寄る木曜日だけが、ほんの少しの寄り道。別に見たくて借りてきているわけではないけれど、そうでもしなければ、生きている時間がとても長い。
夜中に映画を見て、朝方眠る。それからお昼過ぎまで寝ていると、週末はなんとなく過ぎていった。
笑う事も話す事も泣く事もなく過ごす時間は、それはそれで誰にも迷惑はかからない。
今日の様な曇天の空で過ごす休日は、罪悪感を感じる事なく、堂々と時間を潰す事ができた。
少し前までは、好きだった野球チームの応援もしていたけれど、近くでそんな話しをする人がいなくなってからは、テレビすらつける事がなくなった。
携帯電話はいつもカバンに入れっぱなし。SNSなんかほとんど見ることもない。家にいる時間のほとんどが、ベッドの上でダラダラと過ごしている。
休日、おかしな時間に寝たり起きたりしているせいか、この頃は平日の生活にも影響が出てきた。どんなに残業して遅く帰ってきても、なかなか寝付く事ができない日が続き、仕事中に眠気が襲い、お昼を過ぎるとパソコンの文字が二重に見える。やっと、生活のリズムが整っていた頃に、まただらしない週末を迎える。
美里が好きだった人、澤崎渉《サワザキワタル》は、同じ職場の5つ上の先輩だった。
美里が一方的に想いを寄せていた澤崎は、普段はおちゃらけているのに、上司との間もうまく繋いでくれる頼れる男性。
美里とは席も近く、冗談を言って笑わせているように見えても、仕事のフォローもさりげなくしてくれた。
新人歓迎の席で、澤崎には園田亜沙美《そのだあさみ》という彼女がいて、澤崎の猛アプローチの末に、2人は付き合ったという話しを同期から聞いた。
穏やかなでキレイにな亜沙美が彼女だとわかると、理想の二人だね、そう言いながらも、美里の恋はあっという間に終わってしまった。
「この数字間違ってるよ。」
「すみません。すぐに直します。」
「真中、よく数字間違えるよね。打ち込めば計算できるようになっているのに。もしかして、自分で計算して打ち込んでるとか?」
澤崎が美里のマウスに手をやる。
「ほら、ここ、計算式がなくなってる。」
「あれ?」
「総務なんか裏方だと思ってるかもしれないけど、重要な役割なんだよ。」
「はい。」
「早く、直せよ。これが終わらないと、今日は残業になるぞ。野球、気になるんだろう?」
「野球?」
「真中くん、お茶入れてくれないか?」
課長がそう言っている。
「ほら、呼んでるぞ。残業したくなかったら、お茶入れるのは新人の仕事じゃないって、言ってやれよ。」
澤崎はそう言って笑った。
「そんな事、言えませんよ。」
「いいふりしてたら、仕事終わらないぞ。」
澤崎が立ち上がった。
「課長、俺もちょうど休憩しようと思ってたんですよ。真中さんの指導してたら、喉カラカラです。」
「真中くんはまだ入ったばかりかだからな。みんなもちょっと休憩しよう。部長からのお土産もあるし。」
課長の言葉に皆が手を止めた。
「真中、みんなの分のお茶入れろよ。」
「そんな、」
美里は給湯室にやってきた。ポットにお湯を入れていると
「美里ちゃん?」
澤崎の彼女が美里に話し掛ける。
「亜沙美さん。」
「こんな時間、お湯入れて何?」
「お茶を入れたら、お湯がなくなりました。」
「総務は美里ちゃんしか、新人が入らなかったもんね。」
「私が仕事遅いから、みんなに迷惑掛けてるんです。」
「大丈夫よ。総務は課長も穏やかだし、課の雰囲気がいいから、美里ちゃんもすぐに慣れるって。」
「亜沙美さんは、休憩ですか?」
「私はお昼よ。」
「こんな時間に?」
「仕方ないのよ。そういう部所だから。」
「大変ですね。」
「美里ちゃんは、ちゃんと食べてるの?」
「食べてますよ。」
「渉がお菓子ばっかり食べてるって言ってたよ。」
「お弁当作るのがめんどくさくて。」
「会社の裏に、お弁当屋さんが時々くるから、今度一緒に買いに行こうよ。」
「本当ですか。」
「美里ちゃんの同期の子、なんだっけ? あの子、」
「梶原くんですか?」
「そう、梶原くん。あの子もお菓子ばっかり食べてるから、一緒に行こうよ。」
給湯室を出た美里は、同期の梶原に呼び止められた。
「真中、今日、同期で飲みに行こうって話しになってるけど、仕事終わりそうか?」
「今日?」
「坂下が急に言い出したんだよ、18時。」
「終わるかな。」
「こんな時間に休憩するくらいだから、終わるだろう。」
梶原は美里の持っているポットを見た。
「総務はいいよな。うちは最悪だよ。じゃあ、18時に玄関で待ってるから。」
「梶原くん、お菓子ばっかり食べてるって、亜沙美さんが言ってたよ。」
「お菓子じゃないよ。栄養の取れるなんとかバーだよ。」
美里は笑った。
「じゃあ、あとでな。」
美里がポットを抱えて戻る
「真中さん、お茶、ありがとう。」
そう言って先輩はお菓子をくれた。
自分の席に座ると、出来上がった書類が美里の机に上がっている。
「澤崎さん、これ?」
「お湯入れるのに、優雅にイギリス辺りまで行ってたのか?」
美里は笑った。
「澤崎さん、どうも、ありがとうございます。」
「真中、ずいぶんお菓子もらってきたんだな。」
「先輩達がくれたんです。」
澤崎はそれを一つ取って食べ始めた。
「ヤクルト、今何位だった?」
「えっ?」
「真中、ヤクルトファンだろう。歓迎会の時、話してたから。」
「あっ……、そうです。今、5位かな。」
「急に強くなったり、弱くなったり忙しいチームだよな。試合開始まであと、3時間しかないから、早く仕事片付けろ。」
失恋はしたけれど、職場で澤崎と他愛もない事を話し、時々、優しい亜沙美と3人一緒に笑う日々が、美里はとても楽しかった。
朝早く出勤していた澤崎は、就業時間の前、美里よく話し掛けた。美里もそれが嬉しくて、そのうち澤崎に合せて早めに出勤するようになった。
仕事が始まる少しの間、ついつい会話が熱くなくなり、課長にもよく注意された。
そんな楽しいな毎日が、これからもきっと続いていくのだろう、と美里はそう思っていた。
澤崎が自殺したのは、2年前の夏。
総務部から企画部に人事異動になった澤崎は、5月の連休のあとから姿が見えなくなり、長期休暇を取っているという噂が広かった。
時々、彼女の亜沙美に会って話しをする事もあったが、澤崎の事は聞きづらく、亜沙美もその話題には触れないようにしているようだった。
給湯室で澤崎の事を噂をしていたので、
「澤崎さん、いつから休んでいるんですか?」
美里はそこにいた女子の一人に聞いた。
「私もよくわからないけど、休職の診断書が出たみたいよ。せっかく、企画部に異動して、これから出世コースまっしぐらかと思ってた人なのにね。」
あれだけ明るくてイキイキと仕事をしていた澤崎が、家で塞ぎ込んでいる現実が信じられなかった。そのうち、また普通に出勤して、好きな野球の話しができるだろう、美里はそう思っていた。
社員が夏季休暇を取り始めた7月の終わり。
澤崎が自分の車の中で自殺を図り亡くなったと、会社は騒然となった。死因は一酸化炭素中毒で、澤崎の実家から少し離れた所に停めた車の中で死んでいたらしい。
遺書は数枚残されていたが、どれも死ぬことを詫びるばかりで、何が澤崎の心を壊してしまったのかは、わからないままだった。
葬儀では、社長や上司達が皆、会社の中で期待の人材だったと、澤崎の両親に話していた。
亜沙美は、すっかり生気を失くしたようで、花瓶の中で下を向いている、捨てられる寸前の花のように見えた。
「亜沙美さん。」
美里は声を掛けたが、亜沙美は虚ろな目で美里を見て、頭を下げるだけたった。
澤崎がいなくなってから、亜沙美は会社を辞めた。
今、どこにいるかもわからない。
2人がいなくなっても、会社は何事もなかったように日常に戻っていった。
美里は誰かと話す事も減り、いつの間にか野球を見ることもやめてしまった。だからといって、転職をするつもりはなく、覚えている仕事を淡々とこなし、なんとなく生ぬるい空気の中で、毎日やり過ごす事にしていた。
いくつかある女子達のグループに入って、おしゃべりしたり、おしゃれをして遊びに行く気にもなれかった。
グループから離れた女子の数人が、時々美里の所に話しに来ていたが、彼女達とも、週末に一緒に出掛けるとか、仕事が終わってからお酒を飲みに行くのを断っていた。
「真中さんの歯医者、なかなか終わらないね。」
誘いを断る度に、歯医者の予約があると言っていたので、そんな事を言われるようになった。
昨年から同じ総務課に異動してきた城田真由《シロタマユ》は、時々美里とおしゃべりをする。人あたりがよくて、男性からも人気のある真由は、いくつものグループともうまくやっていた。
真由は一人でいることの多い美里を、よく飲み行こうと誘った。大勢が嫌なら、真由と二人だけで行こうと言われたが、美里はあい変わらず、歯医者があると断っていた。
美里が本当は嘘をついている事を真由は察していたが、それ以上、深入りはしなかった。あんまり自分の事を話さない美里に、週末とかは何してるの? と聞いた事があったが、美里は寝てます、笑ってそう答えるだけ。
木曜日。
いつものようにレンタルショップに来ていた美里は、この前借りていたDVDの隣りから2本借りようと棚に向う。自分が借りていた映画のタイトルは憶えていなくても、貸出中の札がかかっているのですぐにわかる。あまり借りる人がいないいつもの棚は、美里を迎えているように待っていた。
周りを見ずにDVDの棚に手を伸ばすと、同じく手を伸ばす男性と目が合う。
「ごめん、先にどうぞ。」
その男性が美里に言った。
「あっ、いえ、どうぞ。」
美里が男性にそう言うと、
「じゃあ、先に借りるから、来週の木曜日に来るといいよ。」
男性はそう言うと、ケースからDVDを取り出してレジに向った。美里は男性が借りた映画のタイトルを見ると、「黒い雨」と書いてあった。空のケースを手に取り、原爆の映画だと知ると、変わった人だな、と、まだレジにいた男性をチラッと見た。美里は男性と目が合い、棚に隠れた。
いつものルーティンを崩された美里は、その日は何も借りずに店を出た。
10
あなたにおすすめの小説
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】
積み上がった伏線の回収目前!!
夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。
長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。
待っていたのは、凍てつく絶望。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。
「夫は愛人と生きればいい。
今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」
それでも私は誓う――
「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」
歪で、完全な幸福――それとも、破滅。
“石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】お父様に愛されなかった私を叔父様が連れ出してくれました。~お母様からお父様への最後のラブレター~
山葵
恋愛
「エリミヤ。私の所に来るかい?」
母の弟であるバンス子爵の言葉に私は泣きながら頷いた。
愛人宅に住み屋敷に帰らない父。
生前母は、そんな父と結婚出来て幸せだったと言った。
私には母の言葉が理解出来なかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる