マジメ御曹司を腐の沼に引き摺り込んだつもりが恋に堕ちていました

田沢みん

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33、腹を切る前に斬られてしまったのデス

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「ヨーコさん、大丈夫?」
「ううっ、実は……」

 1時間の昼休み、ヨーコはランチボックスを持って社長室に来ていた。

 今朝の秘書課ミーティングの後で、雛子が「お昼に社長室に来て。一緒に食べましょう」と耳打ちして来たのだ。

 きっと朝哉から透と父親の電話バトルのことを聞いたに違いない。そして朝哉に連絡してきたのは、黒瀬時宗、その人なのだろう。


 あの電話から1週間。表面上はいつもと変わりなく生活し、出勤している。

 透は「ふざけるな!」と電話をガチャ切りし、「今聞いた通りだ。俺は絶対にヨーコと別れる気は無いから」とキツく抱き締めてくれた。

 いずれ日本に行ってちゃんと話をしなくてはいけないだろうけど……と前置きした上で、

「俺を日本に呼び戻すつもりかも知れないが、今、病院の心臓外科医と共同で進めているカテーテル開発については俺がいないと話にならない。無茶な動きは出来ないはずだ」

 だから心配しないで、信じていて欲しい……と、真剣な瞳で訴えた。

 その場では頷いたものの、心配にならないわけがない。
『信じる』ことと『心配』することは別物なのだ。

 透の気持ちをこれっぽっちも疑ってはいないけれど、その事によって引き起こされる透への負担……家族関係や仕事への影響、精神的プレッシャーを考えれば、このままで良いわけがないと、ヨーコにだって分かる。


 そんな事を考えながら悶々と過ごしていたところに雛子からの誘い。
 一も二もなく飛び付いた。

 雛子の方が5歳も年下ではあるけれど、恋愛経験値においては断然彼女の方が上回っている。
 なんと言っても人妻なのだ。
 そしてあの難攻不落の朝哉を虜にし、気難しいはずの会長や社長まで手懐けた女性。

ーーそう考えると、ヒナコは凄腕の猛獣使いなのデスヨネ。 これは是非ともアドバイスをもらわなくては!


 そして今、ヨーコは広々とした『社長室 前室』で雛子と向かい合っている。

ーーおおっ、何度来ても立派デスネ~。

 ここは『社長室』では無く『前室』。秘書が訪問客を社長に会わせる前にワンクッション置く場所。つまり雛子の部屋のようなものだ。

 部屋の隅に置かれた秘書用デスクは雛子専用。
 楕円形のオークのミーティング用デスクは8人掛け。内輪のミーティングは会議室を使わずここで済ませるのだろう。
 もちろん来客用の応接セットも置かれている。

 雛子の机の近くにあるドアは給湯室に続いていて、もう一つの、突き当たりにどんと構えている重厚なドアが、社長室に繋がっている。

 今、その社長室に社長は不在中で、誰もいない……らしい。

「朝哉は研究開発センターに行ってるの」
「えっ?!」

 研究開発センターは透がいる所だ。社長自らがわざわざ訪問するということは……。

「トオルに会いに行ったのデスカ?」

「午前中に日本から電話が掛かって来てね。 朝哉が凄い剣幕で怒鳴っていて、その後で『やられた!』って慌てて竹千代さんを呼んで、車で……」

ーーヤラレタ?!

「急いでたから詳しくは聞けなかったけど、どうやら日本から赤城さんが来てるみたいなの」
「赤城さんデスカ?!」

 全身から血の気が引いた。

 赤城はクインパス会長である定治の個人秘書を務めている男だが、クインパスの裏の仕事も一手に引き受けている参謀中の参謀。
 
 透と朝哉も幼い頃から世話になっていて、2人どころか社長である時宗でさえ一目置いている、数少ない人物の1人である。

 その赤城が会長の元を離れてわざわざニューヨークに飛んで来た……。

ーーこれはどう考えても尋常じゃないデスヨ。


 ヨーコは雛子に1週間前の電話の内容、そしてその後で透が語った事を改めて全部話して聞かせた。

「お義父とう様がそんな酷いことを?!」

 雛子が目を見開き、手のひらで口を覆った。

「そんな……仕事には厳しい方だけど、自分の行為を反省してちゃんと頭を下げてくださる方なのに……」

 雛子と朝哉を引き離した時だって、後で『申し訳なかった』と謝ってくれたのだ。

「私のせいなのデス。 一般家庭の出で28歳の年増でクインパスの社員で、おまけに腐の世界の住人なのデスカラ」

 病院長の御息女でも無ければ大会社の御令嬢でも無い。
 クインパスグループの御曹司の妻として認められるわけが無い。

「私はトモヤにプロポーズされて、これからの困難に切腹覚悟で立ち向かうと約束しまシタ。 ですが、自分で腹を切る前にバッサリ斬られてしまったのデス……」

 項垂れていると、雛子がバンッ!とテーブルを叩いて立ち上がった。
 いつかのデジャブだ。

「ヨーコさん、何を弱気になってるの、 あなたらしくも無い!」
「ヒナコ?」

「ヨーコさんは突拍子も無いことをしてこそヨーコさんじゃないの! あなたの行動のおかげで私や朝哉がどれだけ救われたか……。なのにどうして自分の事となると弱気になっちゃうの?!」

「恋する乙女は弱気になるものなのデス……」
「違うわ!」

 雛子がテーブルを回り込んで来てヨーコの両手をギュッと握る。

「ヨーコさん、恋する乙女は強くなるのよ」
「ヒナコ……」


 その時バンッ! と勢い良くドアが開き、朝哉が部屋に飛び込んで来た。 後から来た竹千代も、額に汗をかき、肩を大きく上下させている。

「ヨーコ、ここにいたか!」
「トモヤ……」

「朝哉、どうしたの? 透さんは?」

 朝哉が雛子を見て、「くそっ、やられた」と吐き捨てるように言い、ヨーコに視線を移す。

「ヨーコ、今すぐ空港に行け。 いや、日本に行くんだ!」
「えっ」

「兄さんが赤城に連れて行かれた。行き先は日本だ」
「えっ?!」

ーートオルが……日本に?!
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