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46、それは名誉ある撤退だ

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「悪かったな、楓花。同棲の話は取り消させてくれ」

 天馬はそう言ってガバッと頭を下げた。

ーーそりゃあ、そうだよね……。

 自分で同棲を拒否しておいて、いざ天馬本人から取り消されると、ショックを受けている自分に苦笑する。
 改めて楓花の現状を聞いて、天馬だってあきれたことだろう。
 だって楓花は何も持っていない。天馬に与えられるものも、誇れるものも何一つ無いのだから。

 そっと溜息をついた楓花に、天馬も同じように一つ溜息をついてから口を開く。

「ごめんな……楓花。もっとお前の気持ちを聞いてやれば良かったな。こんなんじゃ彼氏失格だ……情けないよ」

ーーそんな! 天にいが謝ることなんて何も無いのに!

「だけど……それでも俺にチャンスをくれないか? 同棲の件は忘れてくれ。そして改めて、彼氏としてお前のそばにいる事を許して欲しい」

ーーえっ……

「天にい……私に呆れたんじゃないの?」
「はぁ? どうして呆れるんだよ」

「だって、今の話を聞いて分かったでしょ?私はこんな子なんだよ?何も無いんだよ? 無価値だよ?」

「お前なぁ!」

 天馬はガタンと勢い良く立ち上がると、ローテーブルを迂回して楓花の前に立ち、バン!とカウチの手摺りに両手をついた。
 思わず仰け反る楓花を至近距離から睨み付ける。

「いくら本人でもな、俺の楓花を侮辱する事は許さないぞ。何も無いって? 無価値だって? ふざけんな!お前の価値なんてな、小さい頃からずっと近くで見て来た俺が嫌ってほど知り尽くしてんだよ! 俺にとっては金塊や宝石よりも貴重だっつーの!」

「だって……」

「それにさ……逃げることの何が悪いんだよ。お前は大事な園児のために精一杯闘って、それで傷付いてボロボロになってここに帰って来たんだろ?それは名誉の傷跡、名誉ある撤退だ。自分を誇れよ」

ーー名誉の傷跡……名誉ある撤退……。

 今までそんな風に言ってくれる人はいなかった。私のした事は間違っていなかったの?今ここにいる自分を誇りに思っていいの?

「天にい……私.…」

 胸が震えて視界が滲む。逞しい腕で抱き寄せられて、途端に深い安心感に包まれる。

「焦る必要ないんだよな……お前も俺も。俺はこれから時間を掛けて、お前にお前自身の魅力や価値を分からせてやる。お前は俺のそばで癒されながら、ゆっくり自信を取り戻せ。……いいな?」

 コクンと頷くと、指で顎をクイッと上げて、啄むようなキスをチュッチュッチュッ……と続けて3回された。

「……買い物にでも行くか? 同棲はまだでも、楓花用の食器ぐらいは揃えてもいいだろ?」
「うん……行く」
「よしっ!」

 天馬に手を引っ張り上げられ立ち上がると、もう一度見つめ合って、今度は深いキスを交わした。


 天馬がバスケットとポットを持ち、2人並んで従業員用の出入り口に向かっていると、1階の廊下で3歳くらいの男の子がパタパタ走って来て、2人の目の前でベタン!と勢い良く転んだ。

「う……うわぁ~……」

 男の子が泣き出しそうになったその時、楓花が駆け寄って男の子の目の前にしゃがみ込むと、

「ボク、どこが痛いの?膝? それじゃお姉さんが、ボクのお膝の痛いのを貰ってあげるね」

 そう言ってニッコリ笑いかけた。

「えっ?」

 男の子が驚きのあまり涙を引っ込めて見ていると、楓花はその膝を撫でながら、

「痛いの痛いの飛んで行け~、飛んで行った痛いのは、お姉さんの頭に飛んで行け~!」

 節をつけて呪文のように唱えると、膝から何かを掴むかのように手を握りしめ、次はその握りこぶしを自分の頭の上でパッと開いて、

「イタタタタ!頭が痛い!」
 と大袈裟に痛がってみせる。

「おっ、おねえさん、だいじょうぶ?イタイの?」

 心配している男の子の前で頭に手をやって、何かを掴んで遠くに投げるジェスチャーをして見せた。

「えいっ!……痛いのは遠くに投げちゃったから、もう大丈夫。でもボク、痛いのは嫌でしょ?もう廊下は走らないでね?」
「うん、わかった」

 楓花は男の子とバイバイと手を振り合ってから、2人の様子を見守っていた天馬の元に戻って来た。

「ふっ……流石に子供の扱いが上手いな」
「そりゃあ……一応はプロでしたから」

「でした……って、過去形にするなよ。立派な資格を持ってるんだから」
「……うん」



 そんな会話を交わしながら歩いて行く2人の後ろ姿を、廊下の曲がり角から辻医師がコッソリ眺めていると、その肩を華奢な白い手がポンと叩いた。

「辻くん、何してるの? 思いっきり怪しいわよ」

 辻はビクッとして振り返ると、声の主を見てホッとしたように笑顔を向ける。

「水瀬先生! 今から帰るところですか? 今、凄く貴重なシーンを見ちゃったんですよ!」
「えっ?」

 椿が曲がり角から身を乗り出して、そして表情を強張らせる。

「天馬と……隣の子は?」
「俺の予想では、たぶん彼女が天馬先生の『紫の上』ですよ」
「紫の……上?」

「彼女、向かいの『かぜはな』で最近働いてる子ですよ。若いっスよね。大学生くらいかなぁ?」

 ニコニコしながら語り続ける辻を無視して、椿は天馬と楓花の後ろ姿を見つめていた。
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