煉獄の歌 

文月 沙織

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「……!」
 かすかに、兄が息を飲む気配がつたわってきた。
 喉を締め付けていた手から力がぬけたのを感じたとき、いっそ敬は惜しいような心持ちになっていた。あともう数秒、兄が力をこめつづけていてくれたら、自分は至福の想いで別の世界へ行け、その世界で、成就した初恋の記憶を胸に抱いて永遠に幸せなまま過ごせるのに……という奇妙な考えが浮かんで消えた。
(兄さん……)
 去って行く兄の背はひどく寂し気で、敬は追いかけたくてたまらなかったが、ふらつく体ではそれもできない。
 はげしく咳き込み、やっと咳がおさまったときには、すでに兄の姿はなかった。
 すべては妖しい夢のなかの出来事のようだった。

「え?」
 どんな顔をして兄に会えばいいのかと思ったが、朝一番に呼ばれて勇の部屋へ行くと、あまりにも思いもよらぬことを言われて敬は瞠目どうもくした。
「兄さん、今、なんて?」
「今言ったとおりだ。敬、この家を出ていけ」
 兄は厳しい顔でそう告げた。
「な、なんでだよ……、なんでいきなり、そんな」
 一瞬、敬の頭に、不良仲間の伊藤という名の少年が浮かんだ。
 施設育ちの彼は五歳のとき里親のもとに引きとられたが、二年後に養母が別の男と駆け落ちした。その後も養父とはそれなりに普通に暮らしていたそうだが、十六歳になったとき、養父からいきなり家を出て行ってほしいと言われたそうだ。養父の再婚が決まったからだ。
 出て行けと言われても、行く場所もなく、通っていた高校も辞めざるを得なくなり、結局、彼は街のチンピラに仲間入りして、その日暮らしの生活をつづけるようになった。勿論、万引きや置き引きなどの犯罪にも手を染めている。 
 敬の生きてきた世界ではそれほど珍しい話ではない。
 いつの時代にも、そんな家のない少年少女たちが野良犬か野良猫のように都会の片隅で生きている。生きるために人の物を奪い、売春に手を出し、同じような境遇の仲間と徒党を組み、やがては地域のヤクザの世話になるようになり、チンピラ、愚連隊、半グレ集団などと呼ばれながら生きていく。当局は半年後に控えたオリンピックに備えて、そういった街の不良因子を壊滅しようとしているが、彼らもまた現在社会の、東京という街の一部であることは事実だ。だが、今は伊藤のことを考えているときではない。
「なんで、いきなり……」
 向かいあっている勇の顔が、血が通っていないように固く青く見える。敬は我知らず背筋が寒くなった。
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