帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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泥のなかの宝石

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「イリカ様、お加減はいかがでございますか?」
「あまり良くない」
 ぶっきらぼうに寝台のイリカは返事した。
 微熱がひかないのだ。全身がだるく、食欲も今まで以上にすくなくなり、この二日ばかりは飲み物しか口にしていないイリカを、さすがにタキトゥスも「皇帝に献上するときあまり痩せていては困る」などと言い医者を呼び、薬湯など飲ませたりしたが、熱はひかなかった。 
 それでもパリアナの見舞いはわずかにイリカの心をなごませてくれたようで、彼女の淹れた茶はのこさず飲みほした。
「夢を見た」
「どのような夢でございますか?」
 イリカの唐突な語り方にもパリアナはまったくとまどったり返す言葉をにごらせたりはしない。馬が合うというのか、こうして一緒にいると、もう何年も彼に仕えてきたような気がするのだ。パリアナはイリカに対して、自分たちは出会うべくして出会ったのだという、ほとんど運命、宿命のようなものを感じていた。
 それはけっして恋愛感情ではなく、また友情でもなく、あくまでもしもべとしての、仕える者、尽くす者としての愛である。彼女はイリカに対して自分ができるかぎりの献身と忠誠をささげようと心に誓っていた。
「初めて神殿に上がったときのことだ」
「それは、お幾つのころでございますか?」
「六歳になったかどうかというころだ」
 ぼんやりと壁にかけられた獅子の刺繍がほどこされた布幕を見つめるイリカの瞳は、過去をさまよっているようだ。 
「六歳で神殿に入るなど……お寂しかったでしょう?」
「後宮の母に別れを告げたときは、自分の身の上がよく理解できていなかった。夕餉の時刻までに帰ってこられるのだろうと思いこんでいた」
 彼の想いは、はるか遠いイカラスの石造りの後宮や神殿へと飛ぶ。
 女たちが心をこめて織った七色なないろの布にかざられた豪奢な室内、綺羅をまとった後宮のあまた寵妃美姫たちのなかでとりわけ美しかった若き日の母。黒い瞳に涙をうかべて自分を見送ったとき、はたして母はどのような心もちだったのだろう、とイリカはその二年後に亡くなった実母の心情をしのんでため息をつく。その吐息の意味をさとってパリアナは無言に徹した。
 神に仕えるはずの身が、いかに祖国が崩壊し国王の命令とはいえ敵兵の手に落ち、このような醜態をさらしている。母の早い死はイリカにとってはむしろ救いだった。
 部屋にたれこめた憂いの風を、いきなり少年の悲鳴が切りさいた。
「ね、姉さん、助けてっ!」
 布幕を破らんばかりのいきおいで入ってきたパリアヌスを見てパリアナは目をまるくし、イリカは背をこわばらせた。
 いったい何事なの?」
「おやおや、これは思いもよらぬ人がいらした」
 のそのそと肥満体をゆらして入ってきたドノヌスが、ふたりを舐めまわすようにほそい目で見ている。どす黒い欲望がしたたってきそうなその目は、ふたりを怖気あがらせるに充分だった。
「あ、あなたは?」
 イリカが寝台から下りてパリアナをかばうようにして立った。パリアヌスは見栄もわすれて床の敷物のうえをころがるようにして、猛犬に追われた小兎のようにパリアナの後ろにさらに身をひそめた。
「ドノヌス=ディルニア。タキトゥスの法律上の叔父となる。そなたは、たしかイリカ、といったかのう? あの凱旋の日は、喜ばせてもろうたぞ。あれは眼福じゃった」
 ぐひひひ、と世にも下卑た笑い声をひびかせドノヌスがイリカににじりよる。
 凱旋の日に受けた屈辱を思い出してイリカの頬がはりつめたが、それよりもドノヌスのかもしだす妖気に押されて怯えきってしまっているパリアナやパリアヌスを守ってやらねば、というかすかな気概がイリカを強気にさせた。
「ここへは何の用で?」
「その少年を追いかけてきたのじゃ。これ、その方、こちらへ参れ。わしはあの子が気に入った。もらい受けるとタキトゥスに伝えておけ」
 すでにパリアヌスを手に入れたかのようなドノヌスの口調は、イリカの背後のパリアナをいっそうふるえあがらせた。
「パリアヌスはディトスのものだ」
「そんな話は聞いておらんぞ。そやつらは帝国のものであるはずじゃ。それをディトスが勝手に所有しておるなら、帝国法を破ったかどで罰せられるべきじゃ。だが、わしはやさしいからのう」
 そこでまたドノヌスは聞く者の鼓膜を腐らせるような笑い声をたてた。
「タキトゥスの友人ゆえにゆるそう。今回だけは大目に見るゆえ、参れ。おまえが素直にしたがったらディトスに累はおよばぬ」
「ディトス様に罪はございません! わたくしが強引にたのんでパリアヌスともども、ひきとってもらったのでございます」
 おびえきっていたはずのパリアナが、衣の裾をひるがえさんばかりのいきおいでイリカのまえに出て必死に抗弁した。
「どうしてもとおっしゃるのなら、わたくしをお召しください!」
「ほう?」
 ドノヌスのほそい目が一瞬、べつの欲望にたぎったが、すぐに消えた。
「残念ながらわしはおなごにはそれほど興味がないのでな。まぁ、弟の方に飽きたらそのうち声をかけてやろうに。今日は弟をもらっていくぞ。これ、パリアヌスとやら、はよう来い」
「い、いやです! おゆるしを」
 ドノヌスの脂ぎった顔や、身体全体からただよってくるような腐臭に、異常なものを感じとったのだろう。
 もし彼につれていかれれば、これは大変おぞましい目に合わされると、ほとんど本能でさとったパリアヌスは、死にものぐるいであらがった。それぐらいドノヌスという男からは得体の知れぬ不気味な瘴気しょうきのようなものがかもしだされているのだ。
「どうしても嫌じゃというのなら、どうかな? イリカとやら、その方が相手をしてくれるか? それならばゆるそう」
 太い指がイリカの胸にのび、胸元の紐を、じらすようにひっぱっり、かすかにあらわになったなめらかな褐色の肌をつつく。あまりの気持ち悪さにイリカは怒りよりも恐怖を感じた。
「皇帝への貢ぎ物じゃゆえに、わしの屋敷に来いとは言わんが、どうじゃ? ここで一戦というのは? どうせタキトゥスにたっぷり可愛がられとる身体じゃろう?」
「わ、私は今現在タキトゥスの捕虜となっているはずだ。いくらタキトゥスの叔父とはいえ、ここは彼の屋敷だ。出ていかれるがよい」
「ほほう!」
 ドノヌスは愛玩動物が言葉を発するのを見て、めずらしさのあまり驚いた、というふうに素っ頓狂な声をあげた。イリカの精一杯の拒絶と、それでも隠しようのない怖れをおもしろがっていることがイリカ自身にもわかり、悔しさに唇を噛んだが、ここでは無力な身の上である。哀願するしかなかった。
「本日は、ひきとられたい」
「ほほう? わしに帰れと?」
 脂ぎった指が、白絹の衣を割ってイリカの胸に直接ふれてきた。イリカはおぞましさにひるみそうになるのをこらえた。
 指は、ねっとりと蛭のように皮膚の上を這い、ちいさな木の実のような突起物をつまむ。じん……と腰がしびれているのを相手にさとられぬようイリカは舌を噛んだ。
 タキトゥスやアレイガ、ミルニアスたちに触れられたときのことが思い出されて、いたたまれない。苦痛と屈辱と甘美を同時にあたえる彼らの責めは、イリカの肌や肉を無垢だったころとはちがうべつの物体に変えてしまった。巨大な蟇蛙ひきがえるのような醜い男の指であっても、ゆっくりと触られると腰骨がとろけてくるような錯覚をひきおこすのだ。
 イリカは自分の身体をこんなふうに変えてしまった三人を呪った。
「出ていかれよ!」
 みずからを叱咤する想いで叫んだ。
「おや? これは気の強い囚人じゃ。知っておるか? 最近、陛下は〝人犬〟というものに興味があられてな、おまえのように美しい異国の王族の姫が今一番のお気に入りの犬となっておる」
 ドノヌスは舌なめずりした。
「宮廷では裸で四つんばいにされ、謁見のあいだも玉座のわきにひかえさられ、昨日も行きかう者の目にさらされ半泣きになっておったわ。じゃが陛下はそれではご満足でないらしく、手足が余分に長いとおっしゃるのじゃ。そのうちあれの両手両足を切り落として、宴の夜には皆のまえで犬と交わらせたいなどとおっしゃっておられた」
 気を失いそうになってよろめくイリカを見て、ドノヌスは地獄の底からひびいてくるような笑い声をあげた。
 彼は正真正銘の加虐趣味の変態だった。
 タキトゥスはゼノビアス帝を狂気の人と見なしているが、実際には皇帝がそういうふうに行動するようドノヌスがそうしたのだ。
 遠い背徳の国の闇の市場に存在したという、四肢を切り落とされ、舌を抜かれ目をつぶされ、残酷な貴族たちの愛玩動物とされた〝人犬〟や、同様の目に合わされたうえ、それこそ史上もっとも恐ろしい罰と語りつがれる〝人豚の刑〟にされて畜舎につながれ汚物にまみれ見世物にされた哀れな犠牲者の話など、語るも聞くも恐ろしい伝説を伝え、狂った統治者の頭に黒い知識をあたえてきたのだ。つまりドノヌスは時間をかけてゼノビアス皇帝を狂わせていったのである。
 一番狂っているのはドノヌスであり、ゼノビアス皇帝は彼のあやつり人形であり、ドノヌスが夢に描く地獄絵図――彼にとっては理想郷の具現者として利用されているに過ぎない。今のところ、その事実に気づいているのはディトスのようなごくわずかなけいがんの人物だけだろう。
「は、はなせ」
「おやおや、はなせ、とな? はなしてください、ではなく、はなせ、と?」
 ねっとりといたぶるようにしつこく言葉をつなげ、ドノヌスは糸のような目から怪しい魔光をはなつ。
「よしよし、今日は帰るとしようか。じゃが、土産が欲しいのう。そなたの、な?」
 舌なめずりをすると、彼にとっての責め道具のひとつである新たな言葉をはいた。その異常な形相にパリアナは言葉もなく真っ青になってふるえている。
「指を、一本もらおうかのう?」
 言った刹那、室に不気味な音がひびいた。
「きゃー!」
 悲鳴をあげたのはパリアナであり、パリアヌスは目を見張った。イリカが苦痛に前かがみになっている。
 ドノヌスはその体躯からは信じられぬ敏捷さでイリカの左手の人差し指を折ったのである。
「ほほほほ、どうじゃ? 痛いか? ひとつでは足らぬのう。もう一本もらおうかな?」
「や、やめて、やめて!」
 パリアナは誰か屋敷の人間が来てくれないものかと扉の方を見たが、そこにひかえていたのはドノヌスの家臣らしい、たくましく冷酷そうな兵士だけだ。
「どうじゃ? その小姓をさしだすか? それならゆるしてやるぞ」
「くぅっ!」
 別の指をにぎったまま、もてあそぶように撫でまわしながらドノヌスがさらに脅した。
 イリカは痛みのあまりかがめた腰を必死におこし、しっかりと相手をにらみつけると黒曜石の瞳をまっすぐに相手にむけた。
「も、もう一本、指を折るといい」
 ドノヌスはもちろん、パリアナもパリアヌスも一瞬ひるみ、あらためてイリカを見た。
 これがつい先ほどまで廃人寸前の人間のように生きる希望をなくしていたイリカだろうか。敵のなぐさみ者として嬌声をもらしていたイリカだろうか。
 ドノヌスは本当に犬が口を聞いたのを見るように驚愕の目でイリカを見た。
「叔父上、もうそれぐらいでいいだろう」


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