帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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死の淵で

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 扉ちかくの兵士を家主の威風でしりぞけ、布を割ってタキトゥスが室に入ってくると、さすがにドノヌスはばつが悪そうに口のはしをさげた。
「いや、これは、その」
 今のところイリカはタキトゥスに属することになっており、帝国の法律では、他人の奴隷の肉体をその持ち主に断りなく損傷した場合、賠償金を請求されても仕方ないことになっている。ましてここはタキトゥスの屋敷であり、主人の許可を得ずに入ったことで分はあきらかにドノヌスが悪かった。
「急におまえの顔が見とうなってな。屋敷の近くまできてみると、驚いたことに、この小姓を目にしてな」
 これも見かけによらずドノヌスの舌ははやい。
「これはイカラスよりつれてきた奴隷であろう? それならば法にのっとって市で競りにかけられるのでは?」
 タキトゥスは苦笑した。
 ドノヌスが今までに散々、裏から手をまわして帝国に属するはずの奴隷を手に入れ嬲りものにしたり、高く値をつけて金満家に売りさばいたりしてきたことは都では知らぬ者はないはずなのに、それを棚にあげて平然と人を責めてくるのだ。
 言い返してやりたいが、今は腰をかがめて痛めつけられた指を抱くようにしてうずくまっているイリカの方が気になる。
「その話はまた後日にしてもらえぬかな、叔父上? 私は叔父上が傷つけた私の奴隷の手当てをしてやりたいのでな。その奴隷は陛下に捧げられることになっているので」
「安心しろ。陛下のそばには、すでにお気に入りの愛犬がはべっておる。当分は浅黒い肌の奴隷なんぞ興味ももたれぬ。……じゃ、じゃが今日のところはひきあげよう」
 タキトゥスは自分でも怒りに血がひいたのを自覚した。全身からたちのぼる怒気と強烈な眼光には、さしもの奸物ドノヌスですら退きさがらざるを得ないすごみがあった。
「で、では、またな、甥よ」
「いずれまた。親愛なる叔父上」
 血のつながりではなく、悪縁によってしばられた甥と叔父は、すれちがいざま、たがいに憎悪と敵意を交換しあい、たがいに相手への呪いが己の胸のなかで燃えていることと、それを相手が充分知っていることを確信しあった。
「だいじょうぶか?」
 ドノヌスが供とともに去っていくのを見送ると、タキトゥスは急いでイリカの様子をうかがった。額には脂汗がにじんでいる。
「医者を呼んで来い!」
 しばらくして町の医者と、パリアナが事態を知らせて心配したディトスが駆けつけてきた。
「私がパリアナたちを引き取ったことで、おまえに迷惑をかけてしまったな」
 太く濃い眉をしかめて心底すまなそうな様子のディトスは、熊がしょんぼりしているようで、どことなく滑稽で、タキトゥスは笑って首をふった。
「べつにおまえのせいじゃない。ドノヌスはとにかく俺に難癖をつけたくて仕方ないのさ。俺が養父の名前と財産を受けつぐのがゆるせんのだろう」 
「あいつは、まさしくこのアルゲリアス帝国の病巣そのものだな。あの変態が皇帝をそそのかして悪行をかさねさせているのだ」
 ディトスはパリアナやパリアヌスのまえで平然と吐き捨てるように言った。  
「イリカの様子は?」
「まぁ、とにかく今は寝かせておくしかないだろう。今日のところは帰ってくれるか?」
「うむ。なにかあったら連絡をくれ」
 ディトスにつれられパリアナとパリアヌスはその場を去ったが、パリアヌスは室をさるとき、うかない顔を寝台に横たわるイリカにむけた。
 イリカは少年の視線に気づくこともなく、医師の処方した薬湯が効いたのか、まどろんでいるようだ。
「パリアヌスどうした? 帰るぞ」
「あの、イリカ様のお加減が良くなれば、また来てもいいでしょうか?」
 ディトスはあやふやな微笑をうかべてみせた。
「タキトゥスがゆるせばな」

「勝手なことをするなよ」
 イリカの首すじを撫でながらタキトゥスは低い声で寝台の麗人につぶやく。蝋燭に照らされたイリカの横顔は亡霊のように青白い。
「おまえは俺の奴隷なのだぞ。あんな、異国の餓鬼のために身体を傷つけるな。おまえを傷つけていいのは俺だけだ」
「あ」
 手当てをした布をまいた細長い指先を、タキトゥスは小鳥をつつよくように人差し指で軽くつく。
「ふたりは?」
「帰ったよ。ディトスといっしょにな。……腹は、すかんか?」
 イリカかが息をはいた。
「眠りたい。ひとりにさせてくれ」
 食事よりもひとりの時間をくれ、という意味をさとってタキトゥスは寝台からはなれた。
 蝋燭が吹きけされ、室に闇がおりてきた。

 翌日も翌々日もイリカは臥したままだった。
 熱が下がらず食事などほとんどとれない状態で、通ってきたパリアナが青銅の水差しを口もとにあてがい、なんとか蜂蜜をまぜた山羊の乳を飲ませたが病状は思わしくなく、それが四日もつづくと、老医者は苦い薬を飲んだようにむずかしい顔をした。
「これは、もはや助からぬかもしれませぬな」
「おまえ、医師だろう、なんとかできぬのか?」
 タキトゥスがいらだたしげに怒鳴ると、医師は白い髭を撫でて同情の目を患者にむけた。
「本人が助かろう、生きようと思うておられぬように見受けられまする。患者がそう思ってしまい生きる力をなくしてしまうと、どれほどの名医であろうとももはや術はござりませぬ」   
 癖なのか医師はふたたび髭をなでて、おなじく白い眉のしたの青い目を痛ましげにゆがめて、悲しい絵でも見るようにイリカの生気のすっかり失せた顔を見下ろした。
 寝息もたてないその様子は、まるで腐ることのない骸のようで、どことなく見る者の背筋をこわばらせるものがあり、パリアナはすっかり睫を濡らしている。タキトゥスはいらだつ獅子のように寝台のまわりを歩いた。
 こうなってしまうと言葉で脅すことも身体を責めることもできず、イリカを病の神の手にさらわれてしまった歯がゆさに地団駄ふみたい気分だ。時がたてば今度は死に神がイリカを永遠に彼の手のとどかぬところへさらっていってしまうことは確実だ。その焦りをあおるように医師が小声でつぶやく。
「このまま熱が下がらねば、覚悟しておいてくだされ」
 そう言いのこして医師は去っていった。

「もしかしたら、そういう形でイリカは死にたいのかもしれんな」
「そんな……」
 パリアナとともにふたたび見舞いにやってきたディトスは、あわただしげに廊下を走る使用人たちに嫌な予感をおぼえた。
「おい、どうした? まさか……」
 ディトスは不吉なことを想像して声をとぎらせたが、召使の答えは思いもよらぬものだった。
「旦那様のご命令で氷を買ってまいりまして。都じゅうの商人から氷を買いあつめてきたのでございます。ご覧くださいまし」
「氷?」
 言われて目をむけると、廊下に置かれてある大きな銅の容器に冷気をはなつ氷の塊が盛られている。ディトスは目をまるめた。
 この季節ではこれほどの氷塊を入手するのは困難だろう。夏に涼をたのしんだり飲みものを冷やすために氷室ひむろから氷をとりよせることがあるが当然高くつくため、夏の氷は貴族や金持ちしか見ることがない。しかも今は盛夏にはまだすこし早い時期なので商人も用意をしていないはずで、取りよせるには余分な費用がかかったはずだ。つまり目のまえの氷は非常な貴重品ということになる。
「熱をさますために氷をつかうのでしょうか?」
 南島育ちのパリアナがめずらしそうに氷を見つめ、そっと指でふれてみたりしている。その仕草はがんぜない子どものようでディトスはこんなときだがつい微笑してしまった。
「しかし、これは多いな」
「ご主人様が氷風呂をご所望でして」
 中年の召使が説明した。
「氷風呂!」
 ディトスはびっくりして召使を見た。
「来い、パリアナ」
 ディトスがあわてて廊下をぬけてイリカの室に入ると、そこには青銅の浴槽がおかれてあり、近寄ってよく見ると、貴婦人用のものらしく薔薇の模様が彫られたなかなか高価なものだと知れた。
「亡くなった養母が使っていたものだ」
 来たのか、というふうにちらっとふたりを見ると、タキトゥスは召使たちに水をそそぐよう命じた。
「氷風呂など効くかどうかわからんぞ」
 ディトスは浴槽を凝視しながら首をふった。
 氷風呂は熱病患者の治療に行われた民間療法で、高熱の患者を文字どおり氷を入れた桶や浴槽に入れ熱をさまさせるのだが、実際に熱がさがることもあるが、極度の冷えで症状が悪化したり、ときには死ぬこともあり、効果にははなはだ疑問がある。そのため、よっぽど熱のため命が危なく、みすみす命を失うよりかはすこしでも可能性があれば、という絶望的な症状にのみ使われた。
 今、タキトゥスはそれをイリカに使おうとしているようだ。
 薄布をはりめぐらした寝台のむこうに、今もイリカが虫の息で横たわっているのだろう。ディトスは医学の知識もあるので氷風呂には懐疑的だが、このままむざむざ死なせるよりかは賭けてみた方がいいかと考えなおした。
「手伝うことがあるか?」
「いや。パリアナといったか? おまえ、見たくなければ下がっていいぞ」
 言うや否や、タキトゥスは平然と着ている衣を床に投げおとしていった。
「おいおい」
 パリアナが真っ赤になってディトスのうしろにかくれた。呆然としているディトスの見ているまえでタキトゥスは青白い冷気をあげている氷風呂に水しぶきをあげて身体をしずめた。
「うわっ」
 ディトスの方が悲鳴をあげた。
「つ、冷たくないのか?」
「冷たくないわけがないだろう」
 苦笑しながら浴槽の縁を両手でつかみ、タキトゥスはおそらく肌を切るような冷たさと戦うようにたくましい胸をふるわせつつ、歯を食いしばり肩まで身体を氷水につける。
 ディトスはやっとタキトゥスのしようとしていることがわかってきて、驚きあきれた。 
「あがるぞ」
 パリアナはあわてて室を出ていった。相変わらずあきれているディトスを尻目にタキトゥスは布でかるく身体の水滴をふきとると、そのまま寝台にむかった。
「ふうむ……」
 思案げなうねり声を出したディトスは首をふりながらパリアナの後を追うように布の扉へとむかい、その場を去った。

「ん……」
 寝台に入るとイリカはかすかに声をだしたが、あらがうことはしなかった。
 手探りしながらイリカのまとっているうすものをはぎとると、タキトゥスは自分の冷えきった身体をそっと腕のなかの眠れる麗人に押しつけ、あらためて相手の身体の熱さを意識した。     
「あ……」
 朦朧とした意識でもイリカはタキトゥスの存在を感じたらしく、かすかに首をふるが、彼の身体の冷たさが心地良かったのか、それ以上はさからわない。さからうほどの気力も体力ものこっていなかったのだろう。
 やがて身の内にこもる熱の責めから逃れるように、イリカはタキトゥスの冷たい身体に我が身をすりよせた。
(いいぞ、もっと俺にしがみつけ。おまえの熱を俺にぶつけろ。そして俺の冷えを肌にしみこませろ)
 タキトゥスの意思が通じたようにイリカは夢見心地の様子でタキトゥスに身をよせる。
 褥のなか、ふたりはまるで仲むつまじい兄弟のように寄り添いあい、抱擁しあった。
 タキトゥスはイリカの熱がなつかしく、イリカはタキトゥスの冷えが恋しかった。
 それはイリカにとって不思議な時間だった。
 歴史の語りぐさになるほどの淫虐な責めを受けた身体が、今必死に、我が身にあのような残虐卑劣な行為をほどこした当の相手であるタキトゥスをもとめているのだ。生死の境をさまよっているとき、人はいかなる罪をもゆるせる天の境界に浮かぶ心持になれるのかもしれない。
「う……ん」
 無意識でか、イリカは太ももを相手の太ももにすりよせ、足をからませてきた。身体の奥も冷えをもとめているのかもしれない。
 タキトゥスは無心なイリカの表情を見ていると、たまらない気持ちになってくる。
 すぐそばにある彼の唇に自分の唇をつけずにはいられなくなる。 
 おそるおそる、唇をかさねてみる。
 強引に力づくで唇をうばったときとは、まったくちがう感慨が彼をおそい、彼自身驚いた。アレイガやミルニアスにもこんな気持ちは感じたことはない。金で買ったり、戯れで寝たどんな男女とも、こんなふうに慎重に、そっと唇をかさねたことはない。いきなり、タキトゥスは笑い出したくなった。
(俺は……、とんでもない大馬鹿だ)
 しばらくしてイリカの熱を吸って自分の身体がぬるくなったと感じたタキトゥスは、召使に命じてもう一度浴槽に氷を足させ、あらためて己の身体を冷やし、ふたたびイリカを抱きしめた。
 さらに夜が更けるとまたおなじ事をくりかえし、朝までイリカを抱きしめつづけた。
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