帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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 だが長かった黒髪は、今は田舎女のように肩のあたりで切りそろえられている。
 月下になつかしい黒曜石の瞳のきらめきを見た瞬間、タキトゥスは胸内に憎しみの熾火がはじけたのを感じた。
 哀れな姿を見られた羞恥と屈辱、裏切られたことへの怒りと恨み、変わりはてた今の自分にくらべて、以前とすこしも遜色ない美貌の人への嫉みと、そして、そして、言いあらわせぬ想いへのいらだち。
「おまえ、なぜここに? ドノヌスのところに行ったのではなかったのか?」
 恨んではいても、どこかでその身を案じる想いもあった。ドノヌスやゼノビアスたちによって酷い目に合わされてはいないかという恐怖にも似た心配に眠れぬ夜もあった。タキトゥスの苦難に打たれてなお筋肉を失わぬたくましい胸のなかでは、ありとあらゆる感情が炸裂していた。
「私はドノヌスのもとになど行かぬ」
 声はあいかわらず至上の楽器がつくりだした玉音のように美しい。
「おまえは、あやつと通じておったのではなかったのか?」
 タキトゥスの声は詰問調になっていた。月に、イリカの黒目が悲しく光る。
「しっ、しずかに。話はあとだ。一応、船の許可証は用意しておるが、万が一にも海境の警備兵に疑いをもたれたらことだ。イリカは私の妻、パリアヌスとパリアナは召使、おまえは船漕ぎの奴隷ということにしておるのだ。ほら、櫂をもて」
 またも屈辱を感じながらも文句を言える立場でもなくタキトゥスはしたがった。また自分の身体から出る匂いを意識すると、イリカとはなれている方が安心できた。
 パリアヌスも片方の櫂を持ち、船足ははやくなった。
「イカラスには一応家を用意した。そこで皆で住もう。落ちついたらこれからの事を話しあえばよい」
 タキトゥスは唸りかけた。
 まったくディトスはすべてに関して手際良くぬかりなく行動がはやい。帝国一の名将ともてはやされていた自分だが、軍も武器もなくせば、ひとりの人間としての非力さを思い知らされずにはおれない。
 本当に強い男というのは、ディトスのように知恵も実用性もそなえた人間のことを言うのだろう。
 思えばディトスはタキトゥスがイリカの肉に溺れているあいだに帝国の政情を見きわめ、はやばやと母国に愛想をつかして新たな生き方を準備していたのだ。恐るべきほどの先見の明と行動力といえる。タキトゥスは失ったものより、自分が持たなかったものの多さを思い知った。
 
 その後、一行の船はなんとかイカラス島にたどりついた。海境警備兵に一度だけ尋問を受けたが、かれらは渡航許可証に疑いをもつことなくすんなり通してくれた。
 ディトスが用意した家は王宮からもそう遠くない島の高台に位置する瀟洒な屋敷だった。
 イカラスが陥落して以来、利権を得るために島に押しかけてきた帝国の下級役人や商人たちが大勢おり、彼らはたいてい高級地となるその一帯に居をかまえていたので、特に周囲から不審がられることもなく地域にとけこんだ。
 また便利なことにディトスは医学の知識もあったので、ディズモナという仮名で医者として働き、移住者たちのあいだで重宝された。帝国の人間はイカラスの医療などほとんど当てにしておらず、まだ不穏な気配がのこる敵地の医者に身をゆだねるのは気がすすまないのだ。
「ディズモナ先生はいらっしゃいますか?」
 今日も彼を呼びに来る声を屋敷の裏庭で聞きながら、タキトゥスは鍬をふるってわずかな土地をたがやした。
 まったく、自分のやっていることが信じられない。
「これは良い薬草の種なのだそうでございます」
 パリアナがどこかたのしそうに種をまいていく。
 住めば都とは真実で、帝国より激しい太陽の日差しにも慣れたが、さすがに日が高くなるとタキトゥスは涼をとるため南の島特有の大きな葉の植物がつくる木陰で石椅子に腰かけ、パリアナがくんできてくれた井戸水を紺瑠璃の杯で飲みほした。
 瑠璃杯が陽光を受けて神秘的な光をはなち、その光線がタキトゥスののこった左の瞳に真実の光をしめしているようだ。侵略軍として来島したときにはまったく気づかなかったが、イカラスの文明が思っていたよりはるかに優れていることに感心した。
(俺の今までの人生は、いったいなんだったのだろう?)
 母を殺された怒りゆえに異国人を憎み帝国の富国強兵に身をささげ、人の心を失くしてしまうほどに峻烈な生をあえて望み、弱者をおとしめ蔑み、武力と名声におごって放恣ほうしにふけり、その報いとして、尽くしたはずの主君に裏切られ、民衆からはいともあっさり見捨てられた。この転変は無敗を誇って生きてきた傲慢な青年に生まれてはじめての内省をうながした。
「タキトゥス様、いえタルティス様、疲れました? 今日はもうやめましょうか?」
 タルティスとはこの地での彼の仮名だ。
「これぐらいで疲れはしない。……パリアナ、おまえはどうしてそんなに俺にやさしい? 俺はおまえの……おまえたちの仇だぞ」
 パリアナは、恥ずかしそうに日よけの薄布で顔をおおう。
「わたくしは、ただディトス様のご恩に報いたいだけでございます。あなた様はディトス様の親友でございますもの」
「その縁で親切にしてくれるのか?」
 こまったように唇を噛むとパリアナはゆっくりと言葉をつむいだ。
「祖国をふみにじられた恨みがまったく無いとは言えませぬ。けれど、最近しみじみ思うのでございます。あなた様もまた己の運命にふりまわされて生きなければならないお気の毒な人なのだと」
 以前のタキトゥスなら、お気の毒な人などと言われれば目をつりあげていたろうが、今は素直にパリアナの言葉を鼓膜にしみこませた。まったく、自分は気の毒なほど愚かで弱い男だったのだ、と自嘲の笑みがこぼれる。 
「人は、それぞれ担うべき運命がある。天にもどるまでその運命を背負いつづけねばならぬと、昨夜もイリカ様に教えられました」
 この娘は夜にイリカと会っているのかと思うとタキトゥスはつい唇を噛んだ。 

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