29 / 35
つかの間
しおりを挟む
だが長かった黒髪は、今は田舎女のように肩のあたりで切りそろえられている。
月下になつかしい黒曜石の瞳のきらめきを見た瞬間、タキトゥスは胸内に憎しみの熾火がはじけたのを感じた。
哀れな姿を見られた羞恥と屈辱、裏切られたことへの怒りと恨み、変わりはてた今の自分にくらべて、以前とすこしも遜色ない美貌の人への嫉みと、そして、そして、言いあらわせぬ想いへのいらだち。
「おまえ、なぜここに? ドノヌスのところに行ったのではなかったのか?」
恨んではいても、どこかでその身を案じる想いもあった。ドノヌスやゼノビアスたちによって酷い目に合わされてはいないかという恐怖にも似た心配に眠れぬ夜もあった。タキトゥスの苦難に打たれてなお筋肉を失わぬたくましい胸のなかでは、ありとあらゆる感情が炸裂していた。
「私はドノヌスのもとになど行かぬ」
声はあいかわらず至上の楽器がつくりだした玉音のように美しい。
「おまえは、あやつと通じておったのではなかったのか?」
タキトゥスの声は詰問調になっていた。月に、イリカの黒目が悲しく光る。
「しっ、しずかに。話はあとだ。一応、船の許可証は用意しておるが、万が一にも海境の警備兵に疑いをもたれたらことだ。イリカは私の妻、パリアヌスとパリアナは召使、おまえは船漕ぎの奴隷ということにしておるのだ。ほら、櫂をもて」
またも屈辱を感じながらも文句を言える立場でもなくタキトゥスはしたがった。また自分の身体から出る匂いを意識すると、イリカとはなれている方が安心できた。
パリアヌスも片方の櫂を持ち、船足ははやくなった。
「イカラスには一応家を用意した。そこで皆で住もう。落ちついたらこれからの事を話しあえばよい」
タキトゥスは唸りかけた。
まったくディトスはすべてに関して手際良くぬかりなく行動がはやい。帝国一の名将ともてはやされていた自分だが、軍も武器もなくせば、ひとりの人間としての非力さを思い知らされずにはおれない。
本当に強い男というのは、ディトスのように知恵も実用性もそなえた人間のことを言うのだろう。
思えばディトスはタキトゥスがイリカの肉に溺れているあいだに帝国の政情を見きわめ、はやばやと母国に愛想をつかして新たな生き方を準備していたのだ。恐るべきほどの先見の明と行動力といえる。タキトゥスは失ったものより、自分が持たなかったものの多さを思い知った。
その後、一行の船はなんとかイカラス島にたどりついた。海境警備兵に一度だけ尋問を受けたが、かれらは渡航許可証に疑いをもつことなくすんなり通してくれた。
ディトスが用意した家は王宮からもそう遠くない島の高台に位置する瀟洒な屋敷だった。
イカラスが陥落して以来、利権を得るために島に押しかけてきた帝国の下級役人や商人たちが大勢おり、彼らはたいてい高級地となるその一帯に居をかまえていたので、特に周囲から不審がられることもなく地域にとけこんだ。
また便利なことにディトスは医学の知識もあったので、ディズモナという仮名で医者として働き、移住者たちのあいだで重宝された。帝国の人間はイカラスの医療などほとんど当てにしておらず、まだ不穏な気配がのこる敵地の医者に身をゆだねるのは気がすすまないのだ。
「ディズモナ先生はいらっしゃいますか?」
今日も彼を呼びに来る声を屋敷の裏庭で聞きながら、タキトゥスは鍬をふるってわずかな土地をたがやした。
まったく、自分のやっていることが信じられない。
「これは良い薬草の種なのだそうでございます」
パリアナがどこかたのしそうに種をまいていく。
住めば都とは真実で、帝国より激しい太陽の日差しにも慣れたが、さすがに日が高くなるとタキトゥスは涼をとるため南の島特有の大きな葉の植物がつくる木陰で石椅子に腰かけ、パリアナがくんできてくれた井戸水を紺瑠璃の杯で飲みほした。
瑠璃杯が陽光を受けて神秘的な光をはなち、その光線がタキトゥスののこった左の瞳に真実の光をしめしているようだ。侵略軍として来島したときにはまったく気づかなかったが、イカラスの文明が思っていたよりはるかに優れていることに感心した。
(俺の今までの人生は、いったいなんだったのだろう?)
母を殺された怒りゆえに異国人を憎み帝国の富国強兵に身をささげ、人の心を失くしてしまうほどに峻烈な生をあえて望み、弱者をおとしめ蔑み、武力と名声におごって放恣にふけり、その報いとして、尽くしたはずの主君に裏切られ、民衆からはいともあっさり見捨てられた。この転変は無敗を誇って生きてきた傲慢な青年に生まれてはじめての内省をうながした。
「タキトゥス様、いえタルティス様、疲れました? 今日はもうやめましょうか?」
タルティスとはこの地での彼の仮名だ。
「これぐらいで疲れはしない。……パリアナ、おまえはどうしてそんなに俺にやさしい? 俺はおまえの……おまえたちの仇だぞ」
パリアナは、恥ずかしそうに日よけの薄布で顔をおおう。
「わたくしは、ただディトス様のご恩に報いたいだけでございます。あなた様はディトス様の親友でございますもの」
「その縁で親切にしてくれるのか?」
こまったように唇を噛むとパリアナはゆっくりと言葉をつむいだ。
「祖国をふみにじられた恨みがまったく無いとは言えませぬ。けれど、最近しみじみ思うのでございます。あなた様もまた己の運命にふりまわされて生きなければならないお気の毒な人なのだと」
以前のタキトゥスなら、お気の毒な人などと言われれば目をつりあげていたろうが、今は素直にパリアナの言葉を鼓膜にしみこませた。まったく、自分は気の毒なほど愚かで弱い男だったのだ、と自嘲の笑みがこぼれる。
「人は、それぞれ担うべき運命がある。天にもどるまでその運命を背負いつづけねばならぬと、昨夜もイリカ様に教えられました」
この娘は夜にイリカと会っているのかと思うとタキトゥスはつい唇を噛んだ。
月下になつかしい黒曜石の瞳のきらめきを見た瞬間、タキトゥスは胸内に憎しみの熾火がはじけたのを感じた。
哀れな姿を見られた羞恥と屈辱、裏切られたことへの怒りと恨み、変わりはてた今の自分にくらべて、以前とすこしも遜色ない美貌の人への嫉みと、そして、そして、言いあらわせぬ想いへのいらだち。
「おまえ、なぜここに? ドノヌスのところに行ったのではなかったのか?」
恨んではいても、どこかでその身を案じる想いもあった。ドノヌスやゼノビアスたちによって酷い目に合わされてはいないかという恐怖にも似た心配に眠れぬ夜もあった。タキトゥスの苦難に打たれてなお筋肉を失わぬたくましい胸のなかでは、ありとあらゆる感情が炸裂していた。
「私はドノヌスのもとになど行かぬ」
声はあいかわらず至上の楽器がつくりだした玉音のように美しい。
「おまえは、あやつと通じておったのではなかったのか?」
タキトゥスの声は詰問調になっていた。月に、イリカの黒目が悲しく光る。
「しっ、しずかに。話はあとだ。一応、船の許可証は用意しておるが、万が一にも海境の警備兵に疑いをもたれたらことだ。イリカは私の妻、パリアヌスとパリアナは召使、おまえは船漕ぎの奴隷ということにしておるのだ。ほら、櫂をもて」
またも屈辱を感じながらも文句を言える立場でもなくタキトゥスはしたがった。また自分の身体から出る匂いを意識すると、イリカとはなれている方が安心できた。
パリアヌスも片方の櫂を持ち、船足ははやくなった。
「イカラスには一応家を用意した。そこで皆で住もう。落ちついたらこれからの事を話しあえばよい」
タキトゥスは唸りかけた。
まったくディトスはすべてに関して手際良くぬかりなく行動がはやい。帝国一の名将ともてはやされていた自分だが、軍も武器もなくせば、ひとりの人間としての非力さを思い知らされずにはおれない。
本当に強い男というのは、ディトスのように知恵も実用性もそなえた人間のことを言うのだろう。
思えばディトスはタキトゥスがイリカの肉に溺れているあいだに帝国の政情を見きわめ、はやばやと母国に愛想をつかして新たな生き方を準備していたのだ。恐るべきほどの先見の明と行動力といえる。タキトゥスは失ったものより、自分が持たなかったものの多さを思い知った。
その後、一行の船はなんとかイカラス島にたどりついた。海境警備兵に一度だけ尋問を受けたが、かれらは渡航許可証に疑いをもつことなくすんなり通してくれた。
ディトスが用意した家は王宮からもそう遠くない島の高台に位置する瀟洒な屋敷だった。
イカラスが陥落して以来、利権を得るために島に押しかけてきた帝国の下級役人や商人たちが大勢おり、彼らはたいてい高級地となるその一帯に居をかまえていたので、特に周囲から不審がられることもなく地域にとけこんだ。
また便利なことにディトスは医学の知識もあったので、ディズモナという仮名で医者として働き、移住者たちのあいだで重宝された。帝国の人間はイカラスの医療などほとんど当てにしておらず、まだ不穏な気配がのこる敵地の医者に身をゆだねるのは気がすすまないのだ。
「ディズモナ先生はいらっしゃいますか?」
今日も彼を呼びに来る声を屋敷の裏庭で聞きながら、タキトゥスは鍬をふるってわずかな土地をたがやした。
まったく、自分のやっていることが信じられない。
「これは良い薬草の種なのだそうでございます」
パリアナがどこかたのしそうに種をまいていく。
住めば都とは真実で、帝国より激しい太陽の日差しにも慣れたが、さすがに日が高くなるとタキトゥスは涼をとるため南の島特有の大きな葉の植物がつくる木陰で石椅子に腰かけ、パリアナがくんできてくれた井戸水を紺瑠璃の杯で飲みほした。
瑠璃杯が陽光を受けて神秘的な光をはなち、その光線がタキトゥスののこった左の瞳に真実の光をしめしているようだ。侵略軍として来島したときにはまったく気づかなかったが、イカラスの文明が思っていたよりはるかに優れていることに感心した。
(俺の今までの人生は、いったいなんだったのだろう?)
母を殺された怒りゆえに異国人を憎み帝国の富国強兵に身をささげ、人の心を失くしてしまうほどに峻烈な生をあえて望み、弱者をおとしめ蔑み、武力と名声におごって放恣にふけり、その報いとして、尽くしたはずの主君に裏切られ、民衆からはいともあっさり見捨てられた。この転変は無敗を誇って生きてきた傲慢な青年に生まれてはじめての内省をうながした。
「タキトゥス様、いえタルティス様、疲れました? 今日はもうやめましょうか?」
タルティスとはこの地での彼の仮名だ。
「これぐらいで疲れはしない。……パリアナ、おまえはどうしてそんなに俺にやさしい? 俺はおまえの……おまえたちの仇だぞ」
パリアナは、恥ずかしそうに日よけの薄布で顔をおおう。
「わたくしは、ただディトス様のご恩に報いたいだけでございます。あなた様はディトス様の親友でございますもの」
「その縁で親切にしてくれるのか?」
こまったように唇を噛むとパリアナはゆっくりと言葉をつむいだ。
「祖国をふみにじられた恨みがまったく無いとは言えませぬ。けれど、最近しみじみ思うのでございます。あなた様もまた己の運命にふりまわされて生きなければならないお気の毒な人なのだと」
以前のタキトゥスなら、お気の毒な人などと言われれば目をつりあげていたろうが、今は素直にパリアナの言葉を鼓膜にしみこませた。まったく、自分は気の毒なほど愚かで弱い男だったのだ、と自嘲の笑みがこぼれる。
「人は、それぞれ担うべき運命がある。天にもどるまでその運命を背負いつづけねばならぬと、昨夜もイリカ様に教えられました」
この娘は夜にイリカと会っているのかと思うとタキトゥスはつい唇を噛んだ。
1
あなたにおすすめの小説
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
被虐趣味のオメガはドSなアルファ様にいじめられたい。
かとらり。
BL
セシリオ・ド・ジューンはこの国で一番尊いとされる公爵家の末っ子だ。
オメガなのもあり、蝶よ花よと育てられ、何不自由なく育ったセシリオには悩みがあった。
それは……重度の被虐趣味だ。
虐げられたい、手ひどく抱かれたい…そう思うのに、自分の身分が高いのといつのまにかついてしまった高潔なイメージのせいで、被虐心を満たすことができない。
だれか、だれか僕を虐げてくれるドSはいないの…?
そう悩んでいたある日、セシリオは学舎の隅で見つけてしまった。
ご主人様と呼ぶべき、最高のドSを…
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
オメガ修道院〜破戒の繁殖城〜
トマトふぁ之助
BL
某国の最北端に位置する陸の孤島、エゼキエラ修道院。
そこは迫害を受けやすいオメガ性を持つ修道士を保護するための施設であった。修道士たちは互いに助け合いながら厳しい冬越えを行っていたが、ある夜の訪問者によってその平穏な生活は終焉を迎える。
聖なる家で嬲られる哀れな修道士たち。アルファ性の兵士のみで構成された王家の私設部隊が逃げ場のない極寒の城を蹂躙し尽くしていく。その裏に棲まうものの正体とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる