帝国秘話―落ちた花ー

文月 沙織

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告白

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 そこに、もの言う蝶が舞いおりてきたのをタキトゥスは見た。
 突き出し屋根の影からひびく声は今もかわらず美しくタキトゥスは幻聴を聞いている気がしたが、一瞬の高揚感がさると、真正面から傷ついた顔を見られる羞恥にとまどった。
 イリカは髪こそ以前にくらべるとまだ短いが、イカラス風の片方の肩をあらわにした藍色の長衣と、肩をまもるためにはおっている狭霧さぎりを編んだような白絹のうすものが神秘的なほど似合っている。
 また両耳をかざる紫水晶アメジストの耳飾りが常夏とこなつの島の光を受けてきらめき、彼の美貌をいっそう幻想的に見せ、柱に手をよせて身をかくすようにしているさまは男にあるまじきほどの優艶さで、タキトゥスの胸はたかならずにいられない。同時に自分が全裸だったことを思い出してまた羞じいった。
「そ、そっちへ行くから、すこし待ってくれ。今なにも着ていないのだ」
「あ、ああ。すまない」
 イリカは廊下の木の柱に身をかくした。
 ディトスが今の彼らの様子を見ると大笑いしたろう。これがつい数ヶ月前にはひとつ寝床で痴態を演じたふたりとは誰が思うだろうか。
「待たせたな」
「……あの、パリアヌスのことなのだが。あの子、そなたに何か言わなかったか?」
 あの子、というまるで保護者のような言い方にタキトゥスは内心反発を感じたが、
「いや、べつに何も。ただ剣の稽古をつけてほしいと言われたから相手をしてやっているのだが」
 イリカのため息が、蓮の花が咲ききそい、空から鳥の鳴き声がふってくる小さな楽園にひびき、あたりに一瞬、紫の霧をはなった。
「こんなことを、そなたに言っていいものかどうか迷うのだが……今イカラスでは独立運動が起きているそうなのだ」
 タキトゥスの背に緊張がはしった。政治的な立場など今のタキトゥスにはなにもないが、戦士として戦の気配には血がさわぐ。
「今のところ貴族や政治家は関与しておらず、帝国の威がそれほど浸透していない北の部族で庶民たちが騒いでいるようなのだが、どうもパリアヌスはその運動に加担しているらしい。ディトスが案じていた」
「……俺は、もう帝国とは関わりがない」
 それは嘘偽りないタキトゥスの心情だった。むしろタキトゥスは帝国政府にたいしては憎しみすら感じている。
「タキトゥス、パリアヌスが危ないことに足をふみ入れるまえに止めてくれないか?」
 ふたたびもとの名前を口にしていることにイリカは気づかず、漆黒の瞳に憂いを光らせタキトゥスを廊下から見下ろした。
 不思議な光景がそこにあった。
 世界は、陽光きらめく庭と光のさえぎられた屋敷とに分けられ、黄金の太陽と深緑しんりょく色の海底がせめぎ合い、そこに傷ついた獅子とやはりきずをつけられた蝶が存在し、祖国に見捨てられた将軍と神の恩寵をうしなった神官長が、切っても切れない憎しみと痛みと恥辱の絆でむすばれてしまい、運命にもてあそばれながら、必死に救いをもとめて対峙していた。
 イリカのしっとり濡れた瞳を見せつけられたタキトゥスは、奇跡を信じたいような心持になっていた。
(俺は……、ああ、俺は)
 もはや認めないわけにはいかない。
 タキトゥスは、イリカに強烈に惹かれていることをあらためて自覚した。一目見たときから彼を愛していた事実に気づいた。
 だが、あの状況で敵同士としてまみえた彼は、イリカを踏み躙らずにはいられなかったのだ。
 幼いころ経験した両親の悲惨な死のために半分魂が壊れていた彼には、人を愛する準備ができていなかったのだ。
 異常なほどの興味の対象に対して、ああいう形でしか関われなかった。あのままだったらまちがいなくタキトゥスはドノヌスやゼノビアス皇帝が迷いこんでしまった魔道に足をふみいれていたろう。そうなったら、もう永遠に光の世界にはもどってくることはできず、癒えぬ傷をかかえて未来永劫、闇の底を這いずりまわるしかない。
 タキトゥスは一瞬この夏だけの王国で背に寒気を感じ、悪寒が去った刹那、胸にはげしい熱を感じた。
(俺は、間にあった……かもしれない)
 タキトゥスはこの運命を受け入れられる気がしてきた。つい数刻まえは恥であった傷が誇らしくなった。それは贖罪の証しに思えたのだ。自分だとて罰を受けたのだから、という甘えにも似た気持ちに勇を得てタキトゥスは一歩すすんだ。
「逃げないでくれ!」
 タキトゥスは敏捷な動きで手すりを越え、イリカの側に立った。
「なにをする!」
「たのむ、俺の話を聞いてくれ」
 抱きしめたほそい身体からは麝香の妖しい美香がほのかにかおる。
「あれから……、あれから俺も大変だった」
 ふるえるイリカの身体を抱きしめながら、タキトゥスは己の口下手を恨みながらも必死に言葉をつなごうとした。
「あれから……俺は反逆者としてとらえられ、皇帝とドノヌスから手痛い拷問を受けた」
 さすがに拷問の内容は語れない。
「財産も地位もうばわれ汚名を着せられ奴隷として都じゅうを縄と鎖につながれ歩かされ、石切り場では牛馬のようにあつかわれた」
 イリカは驚いたように黒い瞳を見ひらき、長い眉を痛ましげにゆがませた。
「運命を呪ったが、どこかで納得できた。これはすべて……俺がおまえ……いや、あなたにしたことの報いなのかもしれないと。天は公平だったのだ」
「……」
 しばらくの沈黙が恐ろしく目をつぶったタキトゥスの頬に、やわらかいものが触れてきた。
 無言のイリカが繊細な指でタキトゥスのひらかぬ右目のうえの傷を愛しむようになぞったのだ。 タキトゥスは照れたようにかすかに首をふって、ふりほどいた相手の指を己の両手でおそるおそるつつみこむと、うやうやしく、そっと口づけした。
 今までに抱いた娼婦や男娼はもちろん、たわむれの恋を語った貴族の未亡人や遊び好きな姫君たちにもこんなことはしたことがない。自分自身、不思議な気持ちで清らかなものに触れるようにしてイリカの左手をいつくしんだ。
「……ひとつだけ教えてくれ。あなたは……ドノヌスと通じていたのか? 怒らないから本当のことを言ってくれ。たとえそうだとしても、俺がした仕打ちを思い出せば文句は言えないと思っている」
 イリカは切なげに唇を噛んで首をふった。
「あの夜、まだ熱が完全に下がっていなかった私は水が欲しくなってたまらなくなり、廊下を歩いていてあの老僕……そなたが幼いころから仕えていたという男とかちあった。そして、すべて聞いたのだ」

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