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憂悶
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「爺か? ……まさか、爺が?」
「あの男に孫がいることを知っているか?」
タキトゥスは黙りこんだ。知らなかった。忘れていたのではなく、最初から知りもしなかった。召使の家族についてなどまったく興味がなかったのだ。
「孫娘が病気で治療のために大金がいるらしい。娘夫婦ははやり病で何年かまえに亡くなっており、彼にはその孫娘がゆいいつの肉親だったそうだ。悪魔に魂を売ってでも助けてやりたかったのだろう。ドノヌスにつけこまれ、そそのかされたそうだ。彼は私に同情してくれていて逃げろと言ってくれたが、そこへ敵がやってきて……。あの騒ぎのとき、彼は殺された」
「……孫娘は?」
「ドノヌスに託したそうだが。愚かなことだ、あの人面獣心にそんなことをたのむなど」
イリカは悔しそうに唇をかみしめた。
「……バイランに売られていた。世のなかには病弱な娘に興味をもつ男がいるのだそうだ。どのみち……長くは生きられなかっただろう」
黒珠の瞳がふっくらともりあがって銀色のしずくに変じる。
タキトゥスはイリカを抱きしめた。裏切り者の老僕にはひとかけらの憎しみも恨みもわかず、むしろ彼によって禊をほどこされた気さえする。人はここまで変われるものなのだ。
「あの後……ドノヌスと通じている娼館につれていかれた。……あそこは地獄だった」
イリカはタキトゥスの胸に顔をうずめてふるえた。
「あそこには人であって人でない者たちがいた。……もしディトスと彼の手下たちが来てくれなかったら……。かつてあの屋敷を命からがら逃げ出した少年がいて……彼はドノヌスがそなたを陥れようとしている計画を盗み聞きしていたそうで。ディトスは事が起こるよりまえからいろいろ調べていたらしい。彼の手引きでディトスが助けに来てくれて……もし手遅れだったら、私は」
よっぽど恐ろしいものを見たのだろう。イリカは恐怖からのがれるようにタキトゥスにしがみついてきた。
イリカの恐怖心が伝染して、汗ばむほどの熱気のなか、タキトゥスは自分の身体もまた冷えてきたのを感じた。
涙をこらえるようにすすりあげると、イリカは一言一言、苦しげに言葉をつないだ。
「恐ろしい所だったが、ああいう状況でも不思議と強く生きれる人もいるのだと教えられた」
イリカの黒瞳は、そこにはいない何かを偲んでいるようだ。
タキトゥスは腕のなかの愛しい人の黒髪から薫る香に恍惚とした気持ちになった。
「イリカ……俺をゆるしてくれ。あなたを疑った俺を……。あなたを辱めことを、あなたを傷つけたことを……。許してくれるならどんな償いでもする。……なにも求めない。あなたが嫌だと言うなら触れはしない。ただ側にいさせてくれ。これからは、俺をあたなの護衛兵士だと思ってくれればいい」
イリカはまるで予想もしなかったことを言われてとまどっているのか、顔ふせたまままた無言になった。沈黙にタキトゥスは気まずさと羞ずかしさを感じて頬を熱くした。
「わ、わたしは……」
イリカの瞳は暗かった。
言わなければ良かった、という後悔にタキトゥスは身をこわばらせ、生まれて初めての真摯な恋の告白を悔やんだ。
(やっぱり、俺には無理だったのだ。人を愛する資格などないのだ)
相手の沈黙に耐えきれず、身体をはなそうとした瞬間、タキトゥスは背後でなにかが動くのを感じとった。
「誰だっ!」
一瞬にして戦士の勘をとりもどしたタキトゥスは、かすかな音がした方角へ威嚇の一喝をくれた。
「す、すみませぬ。こちらにお医者様がいらっしゃると聞いて」
粗末な衣をまとった農民らしき男がひざまずく。
「あ、ああ、ディズモナなら今は出かけている。夕方には戻るはずだから、悪いが出なおしてくれ」
イリカは肩の羅で顔をかくすようにして男に命じると、彼が帰っていくのを見届けてから小声でささやいた。
「いつどこで人目につくかわからない。タキトゥス、……なにも言わないで。私はしずかに暮らしたい」
告白への拒絶ともとれれば保留ともとれる言葉をのこして、イリカはタキトゥスが入っていくことをゆるされない屋敷の奥に去っていく。タキトゥスは恨めしげにつれない想い人の背を見送り、彼の残り香につつまれ、しばらくぼんやりと庭に立ちつくした。
月星はタキトゥスから眠りをうばった。
あてがわれた室を出ると、熱っぽい身体と心をもてあましたタキトゥスは庭に出た。月光に蓮の真紅の花びらがかがやき、あたりを昼とは別世界のように幽玄的に見せる。
憂いのため息を夜空にのぼらせタキトゥスはしばらく庭にたたずんだ。
夜風にさそわれるように歩をすすめて石門のちかくまで来たタキトゥスは足をとめた。
一瞬、見まちがいかと思ったが、門を出ていく人影が彼のひとつしかない目を刺した。
(あれは……まさか、イリカ?)
白っぽいかぶりものをまとっているので断定はできないが、後ろ姿からしてディトスやパリアナではない。しかも寄り添ってついていくのがパリアヌスであることははっきりとわかった。
(こんな時間にふたりでどこへ行くつもりだ)
心配よりも嫉妬にかられたタキトゥスは考える暇もなく後を追った。
「あの男に孫がいることを知っているか?」
タキトゥスは黙りこんだ。知らなかった。忘れていたのではなく、最初から知りもしなかった。召使の家族についてなどまったく興味がなかったのだ。
「孫娘が病気で治療のために大金がいるらしい。娘夫婦ははやり病で何年かまえに亡くなっており、彼にはその孫娘がゆいいつの肉親だったそうだ。悪魔に魂を売ってでも助けてやりたかったのだろう。ドノヌスにつけこまれ、そそのかされたそうだ。彼は私に同情してくれていて逃げろと言ってくれたが、そこへ敵がやってきて……。あの騒ぎのとき、彼は殺された」
「……孫娘は?」
「ドノヌスに託したそうだが。愚かなことだ、あの人面獣心にそんなことをたのむなど」
イリカは悔しそうに唇をかみしめた。
「……バイランに売られていた。世のなかには病弱な娘に興味をもつ男がいるのだそうだ。どのみち……長くは生きられなかっただろう」
黒珠の瞳がふっくらともりあがって銀色のしずくに変じる。
タキトゥスはイリカを抱きしめた。裏切り者の老僕にはひとかけらの憎しみも恨みもわかず、むしろ彼によって禊をほどこされた気さえする。人はここまで変われるものなのだ。
「あの後……ドノヌスと通じている娼館につれていかれた。……あそこは地獄だった」
イリカはタキトゥスの胸に顔をうずめてふるえた。
「あそこには人であって人でない者たちがいた。……もしディトスと彼の手下たちが来てくれなかったら……。かつてあの屋敷を命からがら逃げ出した少年がいて……彼はドノヌスがそなたを陥れようとしている計画を盗み聞きしていたそうで。ディトスは事が起こるよりまえからいろいろ調べていたらしい。彼の手引きでディトスが助けに来てくれて……もし手遅れだったら、私は」
よっぽど恐ろしいものを見たのだろう。イリカは恐怖からのがれるようにタキトゥスにしがみついてきた。
イリカの恐怖心が伝染して、汗ばむほどの熱気のなか、タキトゥスは自分の身体もまた冷えてきたのを感じた。
涙をこらえるようにすすりあげると、イリカは一言一言、苦しげに言葉をつないだ。
「恐ろしい所だったが、ああいう状況でも不思議と強く生きれる人もいるのだと教えられた」
イリカの黒瞳は、そこにはいない何かを偲んでいるようだ。
タキトゥスは腕のなかの愛しい人の黒髪から薫る香に恍惚とした気持ちになった。
「イリカ……俺をゆるしてくれ。あなたを疑った俺を……。あなたを辱めことを、あなたを傷つけたことを……。許してくれるならどんな償いでもする。……なにも求めない。あなたが嫌だと言うなら触れはしない。ただ側にいさせてくれ。これからは、俺をあたなの護衛兵士だと思ってくれればいい」
イリカはまるで予想もしなかったことを言われてとまどっているのか、顔ふせたまままた無言になった。沈黙にタキトゥスは気まずさと羞ずかしさを感じて頬を熱くした。
「わ、わたしは……」
イリカの瞳は暗かった。
言わなければ良かった、という後悔にタキトゥスは身をこわばらせ、生まれて初めての真摯な恋の告白を悔やんだ。
(やっぱり、俺には無理だったのだ。人を愛する資格などないのだ)
相手の沈黙に耐えきれず、身体をはなそうとした瞬間、タキトゥスは背後でなにかが動くのを感じとった。
「誰だっ!」
一瞬にして戦士の勘をとりもどしたタキトゥスは、かすかな音がした方角へ威嚇の一喝をくれた。
「す、すみませぬ。こちらにお医者様がいらっしゃると聞いて」
粗末な衣をまとった農民らしき男がひざまずく。
「あ、ああ、ディズモナなら今は出かけている。夕方には戻るはずだから、悪いが出なおしてくれ」
イリカは肩の羅で顔をかくすようにして男に命じると、彼が帰っていくのを見届けてから小声でささやいた。
「いつどこで人目につくかわからない。タキトゥス、……なにも言わないで。私はしずかに暮らしたい」
告白への拒絶ともとれれば保留ともとれる言葉をのこして、イリカはタキトゥスが入っていくことをゆるされない屋敷の奥に去っていく。タキトゥスは恨めしげにつれない想い人の背を見送り、彼の残り香につつまれ、しばらくぼんやりと庭に立ちつくした。
月星はタキトゥスから眠りをうばった。
あてがわれた室を出ると、熱っぽい身体と心をもてあましたタキトゥスは庭に出た。月光に蓮の真紅の花びらがかがやき、あたりを昼とは別世界のように幽玄的に見せる。
憂いのため息を夜空にのぼらせタキトゥスはしばらく庭にたたずんだ。
夜風にさそわれるように歩をすすめて石門のちかくまで来たタキトゥスは足をとめた。
一瞬、見まちがいかと思ったが、門を出ていく人影が彼のひとつしかない目を刺した。
(あれは……まさか、イリカ?)
白っぽいかぶりものをまとっているので断定はできないが、後ろ姿からしてディトスやパリアナではない。しかも寄り添ってついていくのがパリアヌスであることははっきりとわかった。
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