翠帳紅閨 ――闇から来る者――

文月 沙織

文字の大きさ
160 / 225

訪問客 十

しおりを挟む
(やめろよ! はなせよ!)
 自分の声が信じられないほど冷たく厳しく和室に響いてくる。
 だがそこは、この和室でもなく、開耶が伊吹とともに過ごした部屋でもない。
 夏でも春でもない、あの寒い冬の夜、どこかの部屋で、酔っぱらった寮生たちの歌う調子はずれのクリスマスソングの聞こえる和室だ。
 目の前にいたのは、親友だった男だった。
 彼に向かって、自分はなんと言ったろう。
(来るなよ! 気持ち悪い! 変態野郎!) 
 そうだ。たしかにそう言ったのだ。
 来るなよ! 気持ち悪い! 変態野郎!
 耳に響いてくるのは自分の声なのか。
 闇にも、はっきりと、近江の驚愕と苦痛の表情が見えた気がした。
 前夜祭のその出来事は、男ばかりの学生寮でのちょっとした出来事のはずだった。近江は酔っていたのだ。
 だから、竹弥の布団に入ってこようとしたのだ。竹弥を揶揄からかおうとしていたのかもしれない。酔ってふざけただけ。そんな青春時代の笑い話として終わるはずだった。
 だが、笑い話では終わらなかった。
 その夜が、竹弥が近江を見た最後だった。
 近江がふらふらと立ちあがり、廊下へ出ていく背を見送った。
 廊下からはまだ放歌高吟する寮生たちの声が聞こえていた。クリスマスソングは寮歌に変わっていた。
 そのあとのことはよく覚えていない。冷えてしまった身体をふたたび布団つつみ、朝までうつらうつらと浅い眠りに身を沈ませていた。
 目覚めたのはかなり遅く、そのあとも食事も取らずぼんやりと過ごしていた。
 昨夜のことを思い出して、後味の悪さと罪悪感、羞恥に頭が混乱していた。
 やはり言い過ぎた。近江には謝らないと、と思っていた。だが、近江の姿は見えない。
 それから……少しした頃だった。近江が事故死した知らせを、寮生の誰かが大声で知らせてきたのだ。
 しばらくは何も考えられなかった。あわただしい騒ぎのなか、寮でおこなわれた仮通夜の席に座っていた。伊吹の田舎でおこなわれた葬式には出席しなかった。
 竹弥が自分の少年時代が、青春時代が終わったことを知るには、さらに数日の時間が必要だった。そして、さらに
この先、もう心から笑うことがないことを知るには、一月ちかくかかった。
「先輩、泣いているんですか?」
「ち、ちが……」
 ちがう、と言おうとしたが、頬にあたたかいものが流れるのを止められない。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

ふたなり治験棟

ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。 男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!

完成した犬は新たな地獄が待つ飼育部屋へと連れ戻される

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...