さようならの定型文~身勝手なあなたへ

宵森みなと

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第16話 夜行蝶の扉

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その訃報は、まるで黒い雨のように、社交界に降り注いだ。

セリーヌ=リサエル――シモンと婚約中の彼女が、街中で起きた馬車の暴走事故に巻き込まれ、命を落とした。

その名が、すでに過去形で語られることが信じられなかった。
誰もが口をつぐみ、沈黙の中でその死を噛み締めた。

知らせは、ライナルトのもとにも届いた。
最初に耳にした瞬間、意味が理解できなかった。
理解した次の瞬間には、呼吸ができなくなっていた。

「……っ、うそだ……セリーヌが……?」

胸を押さえても、痛みは消えなかった。
涙が、堰を切ったように溢れてくる。
嗚咽が混じり、それでも止められなかった。

“結婚式は、18歳の誕生日に”
――その言葉が、脳裏で反響した。
彼女の人生が、そこで止まったという現実が、あまりにも残酷すぎて。

気がつけば、足はリサエル公爵家へと向かっていた。
門前まで来ると、衛兵に厳しく止められる。

「申し訳ありません、ライナルト様。……すでにご縁のない方は……」

言葉の奥に、やんわりとした拒絶の意図がにじんでいた。
それも当然だった。
今の自分は、ただの“元夫”――他人だ。

屋敷の中から、誰かが嗚咽する声が漏れ聞こえてきた。
泣いているのは家族だろう。
そして、今の婚約者であるシモンも、あの中にいるのだろう。

“届かない距離”
それを突きつけられて、さらに涙がこぼれた。

どうすることもできず、ライナルトはただその場を離れた。
行くあてもなく、気づけば足は街の歓楽街へと向かっていた。
騎士団の制服を着たまま。
だが、そんなことは、どうでもよかった。
何もかも、どうでも――

陽が沈み、夜が濃くなる。
通りの灯りが滲んで、酔客たちの笑い声がどこか遠く感じられた。

ふらふらと歩くライナルトの足が、不意に止まった。

そこにあったのは、ひとつの古びた扉。
木製の看板には、妖艶な書体でこう記されていた。

――《夜行蝶》

意味もなく、その扉に手をかける。
ぎぃ、と軋む音が、静けさの中に溶けていった。

中は、思ったよりも静かだった。
カウンターの席に数人の客。誰も話さず、ただ、グラスの音だけがかすかに響く。

ライナルトは、カウンターの端に腰を下ろし、低く呟いた。

「……ストレートで。」

琥珀色の液体が注がれる。
迷うことなく、それを一気に煽った。
焼けるような喉の痛みも、酔いも、何も感じなかった。

「お代わりを頼む。」

差し出されたグラスの音が、どこか空虚に響いた。

「……お客様、何かお辛いことでも?」

ふいに、落ち着いた声が耳に届いた。
顔を上げると、そこには白髪をなめらかに撫でつけた老齢の男性が立っていた。
片眼鏡の奥で、深い海のような瞳が、静かにこちらを見ていた。

ライナルトは、喉を詰まらせながら口を開く。

「……今日……元妻が死んだ。まだ、十七歳だった。
結婚式も、もうすぐだった。……幸せそうだった、のに……」

言葉が詰まり、堰を切ったように、涙があふれた。
嗚咽をこらえきれず、肩が震える。

しばらくして、氷が溶けきったグラスをもう一度飲み干すと、彼はぽつりと言った。

「俺のグラスと、もう一つ……酒を頼む。」

マスターが静かに、もう一つのグラスをカウンターに置いた。
ライナルトはそのグラスを見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……セリーヌ。
これは、君への弔いの酒だ。
君はきっと、こんな強い酒なんて飲んだこと、なかったよな……。

……俺が、ちゃんと大事にしていたら、
今もあの屋敷で、俺の帰りを待ってくれていたんだろうか。」

グラス同士を、静かに合わせた。
カチン――という音が、やけに大きく響いた。

「……幸せにしてやれなくて、すまなかった。」

その言葉の余韻が、グラスの底に沈んでいく。

マスターが、静かに言った。

「……お客様は、ずいぶんと後悔されているのですね。」

「……ええ、もう……後悔ばかりです。
どうして、もっと大事にしなかったのか。
どうして、ちゃんと気持ちを聞かなかったのか。
どうして……あんなに簡単に、手放してしまったのか。」

ライナルトはもう一度グラスを空にして、深く目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは――最後に見た、何の想いも宿さないセリーヌの表情。

もう二度と、振り向いてはくれない。
もう、どんな言葉も、届かない。

彼女は、過去になってしまった。

「……もし、時が戻るなら。」

その願いにも似た独白に、マスターが応えるように囁いた。

「時が戻るなら、今度こそ――婚約者として向き合って、
妻として、心から大切にして、手放さなかっただろうな。」

その声には、確かに未練と、祈りがあった。

ライナルトは立ち上がり、マスターに会釈した。

「……お会計を頼む。」

「……お代は、いただきません。
奥様だった方への、弔いに。」

ふ、と悲しげに微笑むマスターに礼を述べ、出口へと向かう。

だが、その背に、もう一度声が届いた。

「……お帰りは、そちらではなく、奥の扉からどうぞ。
――今度こそ、“未来”を掴めますように。」

その言葉に、ライナルトは自嘲気味に笑った。

「……生きていたらな。」

そう呟き、扉へと歩を進める。

重厚な木の扉を、ゆっくりと押し開けた。
その瞬間――どこからともなく、風が吹き抜けたような気がした。

まるで、時の隙間に導かれていくかのように。
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