ぽっちゃり?デブ?需要はありますのよ。

宵森みなと

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ぽっちゃり?デブ?需要はありますのよ。

ナイラは、幼い頃からまるまるとした体型だった。

けれど、それを気にすることなど一度もなかった。家族は彼女の柔らかな頬もふくよかな身体も「愛らしい」と言って笑ってくれたし、おばあ様に至っては「この子は、抱き心地が一番いいのよ」と頬ずりしていたほどだ。そんな環境で育ったナイラは、ぽっちゃりしていることを誇りとまではいかずとも、少なくとも恥じたことはなかった。

甘いものが好きで、特に焼きたてのベリータルトには目がなかった。今日もまた、近所の子どもたちと開かれたお茶会に招かれ、ふんわりとしたワンピースを着て、お行儀よく会場へと向かった。

タルトの香りが鼻先をくすぐる。ナイラは目を輝かせ、そっと一歩を踏み出したその時だった。

「デブのくせに…」

――その言葉は、まるで氷の矢のように、ナイラの胸に突き刺さった。

彼女は立ち止まり、発言主の男の子を見つめた。確かに、ぽっちゃりと言われたことはある。けれど、“デブ”という言葉は初めてだった。

その言葉の意味を正確に知らなかったナイラは、少し眉を寄せて母の元へと戻った。

「お母様、“デブ”って何ですの?」と無邪気に尋ねたその瞬間、母・マイリーンの顔色がさっと変わった。最初は青ざめ、その次には怒りの色が浮かび、ついには頬を赤らめて「ナイラ、誰がそんなことを?」と絞り出すように問うた。

「向こうにいた男の子が、私を見て“デブのくせに”って言いましたの。デブって、どういう意味かしら?」

マイリーンはしばし黙り、娘の顔をじっと見つめた。そして、ふっと息をつき「それはね、ぽっちゃりしている人に対して、悪意を込めて使われる言葉よ」と、言葉を選びながら答えた。

ナイラは小さく頷いた。まだよくは分からない。でも、自分に向けられたその言葉が、あまり良いものではないことだけは、直感的に感じ取っていた。

「じゃあ、私は“デブ”でもあるんですのね。でも、どうしてそんな言葉でからかわれるのかしら?」

その問いに、マイリーンは少しだけ困ったように微笑んで、「後で、お屋敷に帰ってからきちんとお話しするわ」と静かに答えた。

「はい、分かりましたわ。ではお母様、向こうに美味しそうなベリータルトが見えましたの。少し頂いて来ても?」

「ええ、行ってらっしゃい」

ナイラはにっこり笑い、小走りにタルトの方へと向かった。

けれどそこには、先ほどの男の子たちが数人、また集まっていた。

「おい、デブ!なんでまだ帰んねぇんだよ」 「普通、泣いて逃げるだろ?」 「デブは帰れって!」

あまりに直球な言葉の数々。だがナイラは、ひるまなかった。

「まぁ…デブと言われたのは初めてでしたので、どう返したらいいか分かりませんけれど、それが何か問題でもありまして?」

少しきょとんとした顔で、首を傾げながら聞き返すナイラに、男の子の一人がむきになって叫ぶ。

「あるに決まってんだろ!デブが目の前うろうろしてたら、目障りなんだよ!」

「目障り……なるほど、私の存在が気になるのですね?」

「はぁ?違ぇよ!見たくなくてもデブって目に入るんだよ!」

ナイラは、ああそういうことかと、顎に指を添えて小さく頷いた。

「つまり、皆さんは私が気になって仕方がないのですね?」

「…そうだよ!そーだ!」

「まぁ、それは光栄ですわ。人気者になった気分ですもの」

「何言ってんだよっ!嫌いって言ってるんだよ、関わりたくないんだよ!」

「ふふ、でも“嫌い”って、強い関心の裏返しでもありますわよ?無関心でいられるなら、話しかけたりもしませんでしょう?」

ナイラの言葉に、少年たちは言い返せなくなっていた。

「ほら、皆さん、こちらのベリータルト。とても美味しゅうございましたよ?」

そう言って一切れ差し出すが、男の子たちはばつが悪そうに目をそらし、そそくさと去っていった。

そんなやり取りのすぐ後ろで、ずっと見ていた少女が一人、声をかけてきた。

「貴女、すごいわね。あの子たちを相手に、一歩も引かないなんて」

ナイラは首を傾げた。「あら?どのあたりが、すごかったのでしょう?」

「自覚ないのね。私はサージェン公爵家のアニエスよ。貴女は?」

「リガエル侯爵家のナイラです。アニエス様とお呼びしてよろしいですか?」

「アニエスでいいわ。貴女も、ナイラって呼んでいい?」

「えぇ、喜んで」

そして――

「ナイラ、私たち友達になりましょう」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

それが、ナイラの人生で初めてのお友達ができた、記念すべき瞬間だった。

ナイラは、すくすくと健やかに育った。

誰が見ても「デブ」と評するほどの体型ではないが、それでも頬はふっくらと丸く、全体的に柔らかな印象の“ぽっちゃり”体型だった。彼女自身、そのことを特別に気にしたことはない。なぜなら、愛する家族たちはいつだって彼女を温かく受け入れ、その丸みも個性として、惜しみない愛情を注いでくれていたからだ。

学園に入学する頃には、思春期の成長期もあってか、以前よりも少しふっくらして見えるようにはなっていた。けれど、それもナイラにとっては「自分らしさ」の一部でしかない。特段、ダイエットをするでもなく、運動に励むわけでもなかったが、彼女には夢中になっていることがあった。

それは――魔道具の制作。
この魔道具の制作に魔力が消費される為、エネルギーとして身体の脂肪も必然的に消費されるのだ。

幼い頃から魔力の素質に恵まれていたナイラは、日々、屋敷の工房にこもっては、あれこれと試行錯誤を重ねていた。成功よりも失敗の方が多く、髪が焦げたり、爆発音に驚いて猫が逃げたり、屋敷の使用人たちは何度も心配したが、それでもナイラはめげなかった。

「どうにか誰かの役に立つものを」と思いながら作った最初の成功作は、“火を使わずとも調理可能なフライパン”だった。続いて、“熱を閉じ込め保温する魔法鍋”。どちらも、遠征中の不便を嘆いていた叔父のために生まれたものだ。

ある日、叔父がぼそりと漏らした。

「雨の日なんてな、びしょ濡れのテントの中で、固い干し肉とパンを齧るだけ。温かいものが恋しくてなぁ……」

その一言に、ナイラの心はぎゅっと締めつけられた。美味しいものを愛する彼女にとって、“食べたいものが食べられない日々”は想像するだけで切なかったのだ。

出来上がった魔道具は、やがて騎士団内でも評判となり、今では正式に導入されるほどにまでなっていた。ナイラは嬉しかった。自分の作ったもので、誰かが少しでもほっとする時間を持てるのだと感じられることが、何よりの喜びだった。

そんなある日のこと。

ナイラは騎士団を訪ね、叔父に新たな魔道具の試作品を見せようと歩いていた。その途中、ふと視線を感じて木陰に目をやると、一人の見習い騎士が背を丸めて座っていた。肩を震わせて、涙をこらえているようだった。

ナイラは歩み寄り、そっと声をかけた。

「どうされましたの?体調でもお悪いのかしら」

驚いたように顔を上げた少年は、慌てて涙をぬぐいながら立ち上がろうとした。

「な、何でもないです。少し風が目に入りまして……!」

「まぁまぁ、そんな無理をなさらずに。お話になれば、心もすっきりいたしますわ」

そう言って、ナイラは木陰の下に腰を下ろし、膝をポンポンと叩いた。

「どうぞこちらへ。頭を私の膝に乗せてお話しになってくださいな」

「そ、そんな……!妙齢の令嬢に、そんな失礼な真似は……!」

「気になさらず。私はいつも、家族や使用人のお話をこの姿勢で伺っておりますの。皆さま、話しやすいと仰いますのよ?」

戸惑いながらもナイラの手に引かれ、見習い騎士はゆっくりと膝に頭を乗せた。頭の向きは自然とナイラの腹の方へ向き、腕をそっと腰にまわす。その姿は、まるで疲れた子どもが母親のぬくもりに甘えるかのようだった。

ナイラは優しく彼の髪を撫でながら、静かに尋ねた。

「さぁ、何があったのですか?」

しばらくの沈黙ののち、少年の声がぽつりと漏れた。

「……恥ずかしい話ですが……せっかく騎士団に入ったのに、思うように動けなくて。剣術も、訓練も、全部下手で……怒られてばかりなんです。同期もいないし、何で自分だけ……って、情けなくなって……」

声が震え、涙が頬を伝った。

ナイラは黙って頭を撫で続けた。

「あなたは……本当に一生懸命なのですね。そんなふうに、自分の不甲斐なさに涙するほどに。けれど、大丈夫。あなたは、あなたのペースで、少しずつ成長していけばいいのです。他の誰かと比べる必要なんてありませんわ。出来ないことは、恥ではないんですのよ。頑張っている“今”が、何より尊いのですから」

その言葉に、見習い騎士の両腕がぎゅっとナイラの腰に回された。

「俺……まだ、騎士を続けててもいいのかな……。全然役に立てなくて……」

「必要とされていない人なんて、いませんわ。あなたの頑張りは、必ず誰かが見ています。誰かの心を、静かに奮い立たせているかもしれませんわ。だから、自分を卑下しないで。あなたは立派に、この場に存在する意味があるのです。私、応援しておりますわよ」

ナイラは、そっと彼の顔を両手で包み、やわらかく微笑んだ。

「もう大丈夫ですわね。さっきよりずっと、目に力が戻りましたわ」

彼は静かに起き上がり、深く頭を下げた。

「名乗りが遅れました。自分、第2騎士団第3部隊所属、見習い騎士ハリエットと申します。本日は、話を聞いていただき、本当にありがとうございました」

ナイラも立ち上がり、スカートの裾を整えて、にっこりと微笑んだ。

「リガエル侯爵家のナイラと申します。こちらこそ、お話をしていただき光栄でしたわ」

その名を聞いた瞬間、ハリエットは目を見開いた。

「えっ……あの、団長の姪御様でいらっしゃる……?あの保温鍋と、火がいらないフライパンの開発者……?す、すみません!大変失礼いたしました!」

「いいえ、気になさらないでくださいな。では私は、これから叔父様のところへ参りますので。ごきげんよう、ハリエット様」

そう言ってナイラは、軽やかにその場を後にした。

木陰の下に取り残されたハリエットは、ナイラの小さな背中が遠ざかっていくのを、いつまでも、目を細めながら見送っていた。

まるで――胸にそっと灯がともったような、そんな優しい午後のひとときだった。

---

ナイラが「ミ・ローゼン」を建てたのは、まだ学園に通いながら魔道具の研究に明け暮れていた頃だった。

その名の通り、薔薇のように華やかで、それでいて棘のような秘めた強さを持つ場所――昼は落ち着いたカフェ、夜は温かな灯りがともる小さなビストロ。けれど、その奥にもうひとつの顔を持っていることを、誰もが知っているわけではなかった。

「ご相談があるのですが……」そう言えば、昼はマスターに、夜は給仕の女性に伝えればいい。案内されるのは奥の個室。そこには、ふくよかな体に豊かな包容力を宿した、経験豊かなマダムたちが待っていた。

恋の悩み、嫁姑の不和、仕事の行き詰まり、親子の葛藤――それぞれのマダムには得意分野があり、言葉はやさしく、時には厳しく、けれど常に温かかった。相談者とマダムたちとの間には魔法契約が結ばれ、口外厳禁。さらに結界が張られ、誰にも見られることはなかった。

ナイラは小さい頃から、自分の丸みを帯びた姿が「人をほっとさせる」と感じていた。ならば、同じようにふくよかで、経験豊かな女性たちが集う場を作ったら、悩みを抱える人が安心して心を開けるのではないか――そう考えたのだ。

だから、彼女は学園に通いながらも、魔道具の試作を繰り返しながらも、丁寧に「ミ・ローゼン」という“居場所”を育て続けてきた。

そんな彼女に、ある日、学園の中庭で声がかかった。

「おい、そこのデブ。よく恥ずかしげもなく、こんな場所に通っていられるな」

ナイラは歩みを止めなかった。声に反応することもなく、そのまま前を向いて歩き続けた。

だが、前に立ちはだかった少年に、道をふさがれてしまう。

「無視かよ?おい、お前に言ってんだ、デブ!」

ナイラは静かに顔を上げ、相手の目をまっすぐ見つめた。

「どちら様か存じませんが、通していただけますか?」

「はぁ!? 俺を知らないのか!? ジルベルト伯爵家のカイルス様だぞ!」

「あら、それはご立派ですわね。それで、何かご用かしら?」

カイルスは鼻で笑い、薄ら笑いを浮かべた。

「お前、その体型じゃ婚約者もいないらしいな。いい加減、自分の“見た目”を自覚して、学園なんて辞めて領地にでも引っ込めよ」

ナイラは少しも動じなかった。

「そうですわね、婚約者はいませんの。ですが、必要性も感じていないので。容姿については……気にしておりませんことよ」

「なら、俺が仕方なく婚約してやるよ。ありがたく思えよ、デブ」

その瞬間、ナイラはふっと微笑み、優雅に一礼して言った。

「“デブ”でも需要はありますのよ。あなたのような見ず知らずの方には、ご遠慮させていただきますわ。それでは――」

そう言って歩き出そうとしたナイラの肩を、カイルスが荒々しく掴んだ。

「調子に乗りやがって……!」

手が振り上げられた――その刹那。

「やり過ぎだ!」と、後ろに控えていたタイラーとワグナーが咄嗟に動こうとしたが、ナイラは片手を軽く上げ、制した。

そして、振り上げられたカイルスの手を、まっすぐ見つめる。

その瞳には怯えも怒りもなかった。ただ、静かな意思だけが宿っていた。

カイルスは数秒、上げた手を下ろす事もなかったが、やがて目を逸らした後手を下ろし、舌打ち混じりに言い捨てた。

「……もういい!」

そして踵を返し、足早に去っていく。タイラーも、ワグナーも、気まずげにナイラを見て、何も言わずにその後を追った。

ナイラは、ふぅっと長く息を吐き、胸の前で小さく震える手を組み合わせた。そして、そのまましゃがみ込む。

心の奥に、少しだけ差し込んだ痛みと、頑張って堪えた涙。それでも崩れなかったのは、彼女の心にある「自分は自分としての誇りがある」という強い思いが支えていたからだ。

その様子を少し離れた場所から見ていたクラスメートたちが、駆け寄ってきた。

「大丈夫!?」

「私たち、助けに入れなくてごめんね……!」

「本当、怖かったよね……!」

皆が心配そうにナイラの肩を抱いた。ナイラは一度小さく頷き、震える手で頬をぬぐった。

――その出来事は、瞬く間に学園内で噂になった。

ぽっちゃりした体型に、やさしげな眼差し。おっとりして見えても、彼女はただの「癒し系」ではなかった。必要なときには毅然と立ち、恐れずに言葉を発する強さを持っている。

「ミ・ローゼンの主、ナイラ・リガエル嬢は、優しさの中に誇りを持つ人だ」

そんな評価が、知らず知らずのうちに広がっていった。

彼女の存在は、少しずつ、だが確実に周囲に影響を与えていた。
ふくよかな体に、あふれる知恵とやさしさと、そして秘めたる強さを宿して――。


次の日の昼休み。
昼下がりの教室の扉が、勢いよく開いた。

「ナイラ!」

弾んだ声とともに入ってきたのは、サージェン公爵家の令嬢、アニエスだった。ナイラより一学年上の三年生。華やかな栗色の巻き髪を揺らして駆け寄ってくる姿は、まるで風のように軽やかで――同時に、母鳥のように包み込むような温かさを持っていた。

「昨日のこと、聞いたわよ!あの問題児たち……まったく、小さい頃からちっとも変わってないわねっ!」

彼女はそう言いながら、勢いよくナイラを抱きしめた。

ナイラはくすくすと笑いながら、彼女の背中にそっと手を添える。

「ありがとう、アニエス。心配してくれて。でも、私は大丈夫よ。ほんとに」

「でも……怖かったでしょ? あの連中、前から色んなところでトラブル起こしてるって有名なんだから。今度ばかりは学園も見過ごせないって話よ」

「そうなの? 突然、知らない方に呼び止められて……手まで上げられそうになったから、驚いたのは確かだけど……でも、彼に何か理由があったのかしら?」

ナイラが首を傾げると、アニエスは目を丸くして叫んだ。

「ちょっと!あいつが婚約者になりたいって、しつこく言ってたんでしょう? あんな態度、アプローチとは言わないけど……!」

「え? 昨日が初対面だったと思いますわ。婚約者については父に一任してますし、今のところ必要性も感じておりませんから……」

ぽかんとするナイラの様子に、アニエスは両手を腰に当てて呆れたように肩をすくめた。

「ふぅ……覚えてないのね。でも、それでいいのかも。あんな奴、忘れて当然よ。ともかく、ナイラに何事もなくて本当に良かったわ」

「アニエスにまで心配かけてしまって、ごめんなさいね。今日はせめてものお詫びに……放課後、ミ・ローゼンでお茶をご馳走させていただきますわ」

「えっ、ほんと!? 行く行く!それ、楽しみにしてるからね!」

アニエスはパッと明るい笑顔を浮かべて、手を振りながら自分の教室へと戻っていった。

放課後。

二人は連れ立ってミ・ローゼンへ向かった。けれど、店の前まで来てみると、外にまで列ができており、アニエスは残念そうに眉を下げた。

「うわぁ……すごい人。今日は無理だったかなぁ」

しかしナイラは、にっこりとウインクしてみせた。

「ご安心くださいまし。奥に、秘密のお部屋がございますのよ」

人目を避けてスタッフ用の通路を抜けると、その奥にはナイラ専用の小さな部屋があった。そこは、試作されたカフェメニューを味見したり、静かに考え事をするために設けられた彼女のプライベートスペースだった。

季節の果物をたっぷり使ったタルトと、数種の茶葉をブレンドした香り高い紅茶が運ばれてきた。ふたりは、まるで日常を忘れるようにおしゃべりに花を咲かせた。

そんなひとときの最中、ノックの音が控えめに響いた。

「オーナー……ご指名のお客様がいらしております。どうなさいますか?」

マスターの声に、アニエスがすぐに立ち上がる。

「ナイラ、気にしないで。お仕事優先して。私はまたお茶しに来るわね」

そう言って彼女は微笑み、マスターに「ナイラには伝えてあるから」とだけ告げて去っていった。

ナイラは小さくため息をつき、マスターに声をかける。

「相談の方を相談室へお通ししてちょうだい。私もすぐ行くわ」

「……あの、実は……その、お客様が……男性でして。学園の制服をお召しでしたので、おそらくナイラ様のご学友かと……」

マスターの言葉に少し眉をひそめたが、ナイラは静かに微笑む。

「心配いりませんわ。万が一のときは、魔道具で防御できますから。大丈夫です」

そう言って準備を整え、相談室に入る。

扉がノックされ、開いたその瞬間――入ってきたのは、昨日ナイラに罵声を浴びせ、手を振り上げた、あのカイルスだった。

ナイラは思わず一歩、後ずさる。

だが、彼はすぐに深く頭を下げた。

「昨日は……す、すまなかった」

まだ警戒心の色を滲ませたまま、ナイラは冷静に問いかけた。

「相談事があって来られたと、伺っておりますが?」

カイルスは目を伏せたまま、苦しげに言葉を探すように答えた。

「……実は、好きな人がいるんだ」

「少々お待ちくださいまし。相談者とのお話は、魔法契約を交わした上で――」

「いらない。……いらないよ。俺が好きなのは……ナイラ嬢、貴女なんだ」

その言葉に、ナイラは一瞬まばたきをした。

「初めて会った、お茶会のときから……ずっと。でも声をかける勇気が出せなくて……君を傷付ける言葉を言った…その後、謝罪の手紙を何度も書いた。婚約の申し出もしたけど、届かなかった。断られた。だから、どうしていいか分からなくなって……ムシャクシャして……本当に最低だった。ごめん……」

カイルスの肩が震えていた。眉間に深い皺が寄り、唇が震えていた。

ナイラは、ふっと目を伏せて微笑んだ。

「ごめんなさい。手紙も、婚約のお話も、私……知らなかったの。おそらく、父や母が止めていたのだと思うの。……苦しい思いをさせてしまって、ごめんなさい」

ナイラが静かに頭を下げると、カイルスは、堰を切ったように感情を滲ませた声でつぶやいた。

「……知らなかったんだな……」

ナイラはふぅと息を吐き、ソファに腰を下ろすと、いつものように膝を軽く叩いた。

「カイルス様。……こちらに、頭を乗せてくださいな」

「……え? ナイラ嬢の膝枕……? まさか……いつもそんなこと……誰にでも……?」

「家族と、女性の使用人と、あと……以前に見習い騎士の方に一度だけ。それだけですけれど? それが何か?」

「……大ありだ!」

そう叫んだかと思うと、カイルスは膝に頭を預け、顔をお腹に埋め、両腕をしっかりとナイラの腰に回した。

「もう……他の誰にも、こんなことさせないでくれ。俺以外、ダメだ……」

ナイラは驚いたように目を丸くしたが、そっと彼の頭を撫でながら問いかけた。

「……どうして? 理由を、お聞かせ願えますか?」

「……ずっと、好きだったんだ。ナイラのこと。他の誰かが貴女に触れるなんて、想像しただけで……耐えられない」

「……でも、カイルス様は私の婚約者でも、恋人でもありませんわ。私が何をしようと、制限されるものではございませんのよ?」

「……わかってる……それでも……ナイラ……好きなんだ……諦められない……だからお願い……婚約しよう。今、好きじゃなくても構わない。好きになってもらえるように、俺、努力するから……」

ナイラはしばらく黙って、彼の髪を撫で続けた。

「……いきなり婚約は、難しいですわ。でも……まずは、お友達として。そして、恋人として……始めてみませんか?」

「……する。恋人になる……なるから……」

そう言って、カイルスはぎゅうっと、ナイラの腰に回した腕に力を込めた。

ナイラはそっと笑いながら、静かに彼の背を撫で続けた。

やがて、彼の呼吸が深く、穏やかになっていき――スースーという寝息が、部屋の静寂に混じりはじめた。

彼の腕をほどこうとしたが、ぴたりと動かない。ナイラは苦笑いし、諦めたようにもう一度、彼の頭を撫でた。

「……まったく、仕方のないお方ですこと」

その声には、どこかやさしく、あたたかな響きがあった。

微かな寝息がぴたりと止んだ。
カイルスがゆっくりと目を覚ますと、自分の頬に感じたのは、どこか心地よく温かな感触――

それはナイラの膝の上だった。

驚いて起き上がろうとしたものの、腕の力が緩んでいたせいか、わずかに身体を起こすだけで精一杯だった。
視線を上げると、ナイラは片手で彼の頭をそっと撫でながら、もう一方の手に書類を持ち、真剣な面持ちで目を通していた。

けれど、カイルスが目を覚ましたことに気づくと、彼女はふわりと表情を緩め、優しい声で言った。

「カイルス様、お目覚めになりましたのね。お疲れは少し取れましたか?」

その微笑みに、カイルスは少しだけ頬を赤らめながらも、気遣うような眼差しを向けた。

「……すまない。つい、寝てしまった……どのくらい寝てた? それに……重かっただろう? 足、痺れてないか?」

「ふふ、大丈夫ですわよ。実は、頭の下に敷いたハンカチに軽重調整の魔法を込めてありますの。重みが分散されて、膝に負担がかからないようにしておりますわ」

そう言いながら、ナイラは手に持っていた書類をそっと脇に置いた。

「ちなみに、もう二刻ほど経っておりますわ。一応、念のため私の屋敷とカイルス様の屋敷へはご連絡を入れてありますのよ」

「……ああ、ありがとう。すまないな……ナイラと、もう少し一緒にいたい。夕食、ここで……いいかな?」

「ええ、もちろんですわ。ちょうど良い時間ですし、このままビストロのお食事をいただきましょう」

そう言ってナイラはすっと立ち上がり、カイルスに手を差し出す。

「こちらへ。相談室ですと落ち着きませんので、私のプライベートルームにご案内いたしますわ」

案内された先は、こぢんまりとしながらもセンスの良いインテリアに包まれた空間だった。
淡い色合いのカーテンと、さりげなく飾られた花、作業机の上には未完成の魔道具がいくつか置かれている。

「ここは、試作品を味見したり、思いついたことを書き留めたりするために使っている部屋ですの。少々手狭ですが……ご容赦くださいまし」

「いや、ナイラらしくて落ち着く。……ここ、好きだ」

その言葉に、ナイラは照れくさそうに笑いながら、マスターへ食事の用意を頼んだ。

やがて料理が運ばれてくる間、カイルスはナイラの隣に腰を下ろし、その手をぎゅっと握ったまま離そうとしなかった。

「……カイルス様?」

「……やだ。離したら、また夢みたいになりそうで……」

ナイラは苦笑して、少しだけ困ったように笑った。

「でも、それでは食事ができませんわ」

「……う……」

ようやくしぶしぶと手を離したカイルスだったが、彼の顔にはどこか拗ねたような、名残惜しさが残っていた。

料理が並び、テーブルには香ばしい香りが立ち込める。ふたりはその温かな食事を、いつもより少しだけ静かに、けれどどこか穏やかな空気の中で味わった。

食事を終え、外に出ると、すでに夜の帳が降り始めていた。店の前には、それぞれの屋敷から迎えの馬車が到着していた。

別れ際、ナイラが自分の馬車へ乗り込もうとしたそのとき――カイルスが、ふと立ち止まり、真剣な表情でナイラを見つめた。

「なぁ……ナイラ」

「はい?」

「……俺たち、恋人同士……だよな? 明日、目が覚めて……全部夢だった、なんてこと……ないよな?」

その声には、少年のような不安と、真っすぐな想いが込められていた。

ナイラは少しだけ目を細めて、微笑んだ。

「ええ。まだ、“友達に近い恋人”ですけれども……それでも、恋人ですわ」

「……そっか。よかった。なら……明日、お昼一緒に食べよう」

「……分かりましたわ」

「ナイラの、お弁当……食べたい」

「はいはい。カイルス様の分もご用意して差し上げますわ」

「……また明日。ナイラ」

「ええ。また明日。ごきげんよう、カイルス様」

ふたりは、お互いに手を振り合って、それぞれの馬車に乗り込んだ。

星がまたたく空の下、馬車の音がそれぞれの方角に遠ざかっていく。


朝の陽射しが優しく石畳を照らし、登校する学生たちのざわめきが校門周辺に広がっていた。

ナイラが馬車から降り立つと、少し離れたところで誰かがもじもじと立ち尽くしているのが見えた。
制服のネクタイはやや曲がり、髪も風で少し乱れている。けれど、その顔には不安気な表情と、どこかぎこちない熱意が浮かんでいた。

それは、カイルスだった。

「ナ、ナイラ。お、おはよう……。その……えっと、エスコート……するよ……」

顔を真っ赤にしながら絞り出すように言うカイルスの姿に、ナイラは思わず吹き出してしまった。

「……ふふっ。カイルス様、お願いしますわ」

そう言って、彼の腕にそっと手を添えた。

二人で並んで歩き始めたその姿は、どこか初々しく、けれども妙に親密さを感じさせた。
その様子を目撃したクラスメートの一人が、そっと近づいて小声で囁いた。

「ナイラさん……大丈夫ですか? もしかして、脅されたり……してませんよね?」

ナイラは小さく首を振って微笑むと、あっけらかんと、しかし確信をもって告げた。

「昨日、和解しまして……。お友達からの恋人を始めましたの」

――それはまるで爆弾のような一言だった。

その場にいた全員が、ぽかんと口を開けた。
あの、乱暴で手を上げかけたカイルスと……ナイラが恋人に?
心配と動揺が入り混じった視線が、ナイラの後ろ姿に集まっていく。

やがて昼休みになると、さらに波紋は広がった。

教室の扉が勢いよく開き、カイルスが駆け込んできた。
彼は息を切らし、額には玉のような汗を浮かべている。

「……そんなに慌てなくてもいいのに」とナイラは呆れたように笑いながら、自分のハンカチを取り出し、彼の額の汗をそっと拭った。

「ナイラに……会いたくて……」

「はいはい。では、こちらのバスケットをお願いできますか?」

「うん。今日は天気もいいし……中庭で食べよう」

「ええ、そうしましょう」

ふたり並んで教室を出ていくその背中を、数人のクラスメートがこっそりと尾行していた。心配と興味と、少しの好奇心が入り混じった視線が、彼らを追いかけていた。

中庭では、シートの上に丁寧に用意されたお弁当が並べられ、カイルスはナイラの手料理を嬉しそうに口に運んだ。
時折、ナイラが口元についたソースをハンカチで拭ってやったり、飲み物を差し出したり。
言葉少なでも、そのやりとりには明らかな親密さが滲んでいた。

そして食後――
カイルスはナイラの膝に頭を預け、顔をお腹の方に向けると、腕を彼女の腰に回して身を委ねた。
ナイラはそれを自然な仕草で受け止め、静かに頭を撫で続ける。

「……たった一日で、何があったのよ……」

こっそり様子を見ていたクラスメートたちは、あまりの変貌ぶりに呆然とするばかりだった。

午後の授業が終わる頃、その話は早くも上級生の耳に届いていた。

放課後――

ナイラの教室に、また急ぎ現れたカイルス。
それとほぼ同時に、足音鋭く教室に現れたのは、サージェン公爵家のアニエスだった。

「ナイラ! 一体どういうことなの!?」

怒りを含んだ声に、教室がざわつく。

だが、ナイラが答える前に、カイルスが一歩前に出た。

「俺が……俺が昨日、ナイラに告白したんだ。ずっと……小さい頃から好きで……でも伝えられなかった。婚約を申し込んでも、手紙も届かなくて……それで、どうしていいか分からなくなって……」

視線を落としながらも、まっすぐに言葉を紡ぐ彼の姿に、教室の空気がぴたりと静まり返る。

「ナイラが……いきなり婚約は無理だからって、恋人から始めようって言ってくれたんだ。だから……ナイラは悪くない。俺が、お願いしたんだ」

その言葉に、アニエスはナイラの方を向いた。

「ナイラ……本当なの? こいつと……付き合うって……あの時、貴女を詰った相手よ?」

ナイラは少し困ったような顔で微笑んだ。

「ええ……確かに、昔はそうでしたわ。でも……昨日の話を聞いて、私の方も何も知らなかったことに気づいて……傷つけてしまったんだなって。だから、まずはお友達から始めるということで……」

そう言ってナイラが振り向くと、いつの間にかカイルスが彼女の背後に立ち、ぎゅっと後ろから抱きしめていた。

「……おいおい、ちょっと距離近すぎない?」

アニエスは呆れたように目を細めた。

「もう“友達”って距離じゃないでしょ、それ」

カイルスはナイラの肩に頭を乗せたまま、幸せそうに目を細める。

「……ナイラが、俺に触れてくれるだけで嬉しいんだ……」

ナイラも自然な仕草でカイルスの髪を撫でながら、静かに言った。

「どうやら、私の両親が手紙も婚約の話も止めていたようで……私、本当に何も知らなかったの。それが分かった時、カイルス様をどれだけ傷つけていたかと思ったら、胸が痛くて……」

アニエスは大きくため息をついて、腕を組んだ。

「……あぁ、なるほど。振られたと勘違いしてムシャクシャして、問題行動ばっかり起こしてたってことね。納得したわ」

周囲のクラスメートたちも、ようやくすべてを理解し、腑に落ちたように頷き始めた。

ナイラは優しく笑いながら言った。

「カイルス様も、好きになってもらえるように努力してくださるそうですから。皆さん、どうか温かく見守ってくださいますように」

「がんばる……ナイラのために……!」

と、相変わらず後ろから抱きしめたまま、カイルスはギュウギュウと力を込めた。

アニエスはその光景を見て、肩をすくめるしかなかった。

「……まさか、ここまで執着してたとは思わなかったわよ。ああもう……」

そしてぽつりと呟いた。

「もしかして……昨日の相談相手って、あんた?」

ナイラはこくりと頷いた。

「そうよ」

アニエスは額に手を当てて天を仰いだ。

「はあ……帰らなきゃよかった。あのまま残ってたら、まだナイラはこいつのこと“嫌なヤツ”って思ってたかもしれないのに」

そして、抱きしめて離れる気配のないカイルスと、自然に受け入れているナイラを見て、最後には観念したように微笑んだ。

「……でも、結局こうなってたのかもね」

そう言ってアニエスは、小さく笑ってナイラの肩にいるカイルスの頭を叩いた。

***

かつて問題児として学園中に名を知られ、怒りっぽくて、言葉も不器用で、誰からも敬遠されていたカイルス。
そんな彼が今では、毎日ナイラの傍に寄り添い、誰よりも真っ直ぐで誠実に、彼女に尽くしていた。
まるで犬のように、いや、それ以上に忠実に――。

最初こそ誰もが「本気なのか?」「すぐ飽きるんじゃ」と眉をひそめていた。
だが、時が経つにつれ、誰もがはっきりと認めるようになった。

――カイルスは変わった。
そして、変えたのはナイラだった。

昼食後、いつものように中庭の木陰。
ナイラの膝の上に頭を預け、お腹に顔を向けて腕を回し、撫でられるのが日課となったカイルスが、今日も満ち足りた表情で目を閉じていたときだった。

「……カイルス様」

「ん?」

「……一度、私たちの両親を交えて……正式に、婚約のお話をしませんか?」

一瞬、時が止まったようだった。

カイルスの目がぱちりと開き、じっとナイラを見上げる。

その直後――ポロリ、と。
その目から、涙が一粒、二粒……そして止まることなく溢れ出した。

「うぅ……ナイラ……」

そのまま彼は、ナイラの腰に回していた腕に力を込め、ぎゅうぎゅうと抱きしめた。
ナイラは驚きながらも、落ち着いた声で語りかける。

「カイルス様の、一生懸命な姿を見て……その真っ直ぐな想いが、ちゃんと伝わってきましたの。だから私も……カイルス様のこと、好きになりましたわ」

「ほんとに……? 本当に……?」

顔を上げたカイルスの頬は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「ええ。カイルス様が、好きですわ」

そう告げるナイラの指先が、優しくその涙を拭った。


そして迎えた、両家の顔合わせ。

場所はミ・ローゼン。
この日ばかりは一般客の入店を断り、貸し切りにした。
柔らかな音楽が流れ、香り高い紅茶と彩り豊かなタルトが用意され、空間全体が静かな緊張と期待に包まれていた。

先に着いていたリガエル侯爵家の父サミエルと母マイリーン、そしてナイラのもとに、ジルベルト伯爵夫妻とカイルスが現れた。

「ジルベルト伯爵家のマクエルと申します。こちらが妻のエリーゼ、そして長男のカイルスです。このたびは、お嬢様を何度も傷つけるような言動、しつこい手紙、強引な婚約の申し出……本当に、申し訳ありませんでした」

頭を深く下げ、涙すら滲ませながら語るマクエル。
エリーゼも、カイルスも、真剣な面持ちで頭を下げる。

それに対し、サミエルは苦い表情で応えた。

「いや、こちらこそ……娘を守る気持ちが先走って、君からの手紙も婚約の話も、すべて断ってしまった。ナイラには何も知らせず……結果的に君を追い詰めてしまったのは、私たちの責任だ。本当に、申し訳なかった」

そしてマイリーンは――まっすぐにカイルスを見据え、静かに言った。

「私は、いまだに許せない気持ちがあるのも事実です。でも、娘からあなたへの気持ちを聞いて……ようやく、諦めがつきましたの。けれど――再び娘を傷つけるようなことがあれば、そのときは容赦しません」

それに対し、カイルスは立ち上がり、声を震わせながら言った。

「……本当に、すみませんでした。お茶会でお見かけした時……あまりの可愛さに、誰かに奪われるんじゃないかって、焦って……気持ちが空回りして……だから、言葉が……っ……あんな風に……」

バカなのか?何言ってんだと、呆れた空気が一瞬流れかけたその時、

ナイラが間に入るように、ふわりと微笑んだ。

「皆さん。せっかくですから、美味しいタルトと紅茶をいただきながら、お話をいたしましょう」

カイルスがすぐさま「ナイラ、隣に座ってもいいか?」と尋ねると、ナイラはため息混じりに「仕方ないですわね」と隣の席を示した。

隣に座るや否や、カイルスはナイラの手を握りしめた。
それを見たジルベルト伯爵夫妻は顔を青ざめさせ、サミエルはこめかみに青筋を立て、マイリーンは唖然としていた。

――知らない間に、ナイラが“この距離”まで受け入れていることに。

だが、当のナイラはというと、まるで日常のようにカイルスに世話を焼き始めていた。

「はい、カイルス様の好きなものばかりをお取り分けしましたわ。紅茶にはレモンとハチミツを少々――」

「……ナイラ、手、離したくない」

「……でも、手を繋いだままだと食べづらいでしょう?」

「……うん。でも、離したくない」

「……カイルス様。今日は両家の正式な話し合いの日ですわ。きちんとして下さらなければ困りますわ」

「……分かった。じゃあ……食べさせてくれ」

「……もう、仕方のない方ね。……はい、あーんして?」

「……あーん。……モグモグ。ナイラが食べさせてくれると……何でも美味しい」

「はいはい。次はタルトですわよ」

――イチャイチャが止まらなかった。

その横で、両家の親たちは複雑な表情を浮かべながら、真面目に婚約の話を詰めていった。

最終的に婚約は認められたものの、過去の問題行動もあり、結婚は“ナイラの卒業”と“カイルスの正式な騎士としての任官”が条件とされた。

カイルスは、その言葉を真剣に受け止めた。

「……最速で、認めてもらえるように、頑張ります!」


そして――ナイラが卒業して一年。

彼は本当にやり遂げた。

最年少で、騎士団の部隊長に任命されるまでになった。
その執着と努力に、アニエスも両家の両親も、今では完全に呆れ果てていた。

そして今日。
二人の挙式が、晴れやかに執り行われる。

陽光が差し込む控え室。
鏡の前で、ナイラは純白のドレスに身を包み、そっとスカートの裾を整えた。

ゆっくりと鏡の中の自分を見つめる。

笑顔。少し照れたような頬。胸元には小さなブローチ――カイルスが騎士団で贈られた記念のものをモチーフにした品だった。

そしてナイラは、そっと呟いた。

「……ねっ。需要はありますでしょ?」

鏡の中の自分が、ふふっと笑って、頷いた気がした。

今日からは“恋人”ではなく、“夫婦”として。

少し不器用で、でも誰より真っ直ぐな――彼と共に。

ナイラの幸せな物語は、ここからまた、新しく始まっていく。

──完。

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