【青薔薇の献身】~涙を作る女~

宵森みなと

文字の大きさ
1 / 5

【青薔薇の献身】プロローグ

しおりを挟む
それは一夜の、夢のように華やかで、残酷な宴だった。

シャンデリアが星屑のように煌めき、貴族たちの笑い声が、グラスの音に紛れて宙に溶けていく。舞踏会の中心に据えられた一角で、突然、一組の男女が人目を引くように歩み出た。そこは社交の劇場、その夜もっとも注目される舞台となった。

「ミレーヌ、私は……真実の愛を見つけた。ずっと婚約者として君の隣にいたが、今、心から愛する人と生きたい。だから、婚約を……破棄したい」

口火を切ったのはアルベルト王子だった。堂々と、むしろどこか酔いしれたように高らかに言い放った。隣に立つ少女は少し震える声で頭を下げながら言った。

「ミレーヌ様……申し訳ありません。ただ、わたくし、アルベルト様のことをお慕い申し上げていただけで……奪うつもりなど、決して……」

青白い顔のリリカ嬢。子爵家の次女で、ミレーヌの従妹にあたる。瞳に涙を湛えながら、言葉を絞り出しているが、なぜかその足取りにはどこか安堵と勝利の気配があった。

「違うんだ、リリカが悪いんじゃない。すべては私が……リリカを愛してしまった、それがいけなかったんだ」

王子のその言葉に、リリカは頬を赤らめて、彼の腕にそっと触れる。二人はまるで初恋の若者同士のように寄り添い、互いを見つめあっている。傍目には、つい先ほどまで彼に婚約者がいたという現実など、とうに忘れてしまったかのような振る舞いだった。

まるで出来の悪い三文芝居だ──そう、誰かが小さく呟いた。

注目の中心にいた令嬢、ミレーヌ=サーラインは、凛としたまま一礼し、カーテシーを取ったまま、ゆっくりと顔を上げた。

「アルベルト様。婚約破棄……承知いたしました。長きにわたり、お側に置いていただき、誠にありがとうございました。これが最後となりますが、お別れの言葉を、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか?」

周囲が息をのむ。無表情で“鉄仮面”と呼ばれてきたミレーヌ。国内でも一、二を争う美貌の持ち主でありながら、その表情に感情が宿ることはほとんどなかった。泣き喚くでもなく、罵るでもなく──ただ、静かに「一言だけ」と告げたその声音には、どこか底知れぬ哀しみがにじんでいた。

「……許す」

アルベルトは気まずそうに目を逸らしながら、短く答えた。これが“最後の言葉”になるのだと、どこかで理解していた。

その瞬間だった。ミレーヌはなおも頭を下げたまま、淡々と語り出した。

「ありがとうございます。わたくし、ミレーヌ=サーラインは──幼き頃より、アルベルト様をお慕い申し上げておりました。……それでは、これにて失礼させていただきます」

そう言って顔を上げたミレーヌの瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。透明なその雫は、頬を伝い、ドレスの襟元を濡らす。誰よりも強く、誰よりも誇り高くあろうとした令嬢が、人前で初めて流した涙だった。

周囲にいた貴族たちは言葉を失った。鉄仮面が……泣いている。

誰もが息を飲む中、ミレーヌは一度も振り返らずに会場をあとにした。その背に、誰一人声をかける者はいなかった。

アルベルト王子は立ち尽くしていた。あれが……彼女の本心だったのか? ずっと無表情だったあの彼女が……「お慕い申し上げていた」と、確かに言った。だがそれならば、なぜもっと素直に……いや、王妃教育のせいだろうか。思えば一度も甘えられた記憶がない。

隣でリリカが不満そうに唇を尖らせる。

「アルベルト様。……もう、あんな人のことはお忘れになって。リリカが、これからはずっとお側におりますわ」

彼女の言葉は優しく、無垢な響きさえ持っていた。しかしその笑顔が、なぜか酷く空虚に見えた。

アルベルトは、自分は“真実の愛”を選んだのだと、必死に心の中で唱えた。あの涙を、忘れようとした。

──翌日、王都を静かな衝撃が駆け抜けた。

ミレーヌ=サーライン。元婚約者であり、社交界の華と謳われた令嬢が、自邸の一室で、冷たくなって発見されたのだ。

日記の最後には遺書が書かれており、ただ両親への謝罪と──「アルベルト様と共に生きる未来を失った絶望」が綴られていた。

葬儀はひっそりと、家族だけで執り行われた。誰もが「なぜ気づけなかったのか」と肩を落とした。

遺書が書かれていた日記には、ページを繰るごとに、ミレーヌの“仮面の裏側”が明かされていった。言葉少なな少女が、どれほど深く王子を慕い、王妃としての務めに命を賭けていたか。誰にも見せなかった想いが、そこには記されていた。

日記は家族の手によって書籍化され、《青薔薇の献身》という題で世に出た。印税は孤児院へ寄付すると言う。ミレーヌならきっとそうしたと。その本は、瞬く間に大反響を呼び、人々は涙し、真実の愛とは何かを問い直す契機となった。

やがてその物語は舞台にもなり、数多の演者がミレーヌを演じ、観客はそのたびに静かに涙を流した。

──もし、王子がミレーヌの想いに気づいていたら。 ──もし、あの言葉に危うさを感じていたら。

けれど、“もしも”の先に彼女はいない。

彼女が最後に遺したのは、一輪の青い薔薇。その色は、誰にも染まることのなかった彼女の愛と、儚き献身の証だった。

後にアルベルト王子は
「ミレーヌが見せた涙こそが、本物の愛だったのかもしれない。……あのとき、なぜ気づけなかったのだろうか」

リリカの隣にいながらも、王子の視線は、いつまでも過去を彷徨い続けた――


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

助かったのはこちらですわ!~正妻の座を奪われた悪役?令嬢の鮮やかなる逆襲

水無月 星璃
恋愛
【悪役?令嬢シリーズ3作目】 エルディア帝国から、隣国・ヴァロワール王国のブランシェール辺境伯家に嫁いできたイザベラ。 夫、テオドール・ド・ブランシェールとの結婚式を終え、「さあ、妻として頑張りますわよ!」──と意気込んだのも束の間、またまたトラブル発生!? 今度は皇国の皇女がテオドールに嫁いでくることに!? 正妻から側妻への降格危機にも動じず、イザベラは静かにほくそ笑む。 1作目『お礼を言うのはこちらですわ!~婚約者も財産も、すべてを奪われた悪役?令嬢の華麗なる反撃』 2作目『謝罪するのはこちらですわ!~すべてを奪ってしまった悪役?令嬢の優雅なる防衛』 も、よろしくお願いいたしますわ!

【完結】魔力の見えない公爵令嬢は、王国最強の魔術師でした

er
恋愛
「魔力がない」と婚約破棄された公爵令嬢リーナ。だが真実は逆だった――純粋魔力を持つ規格外の天才魔術師! 王立試験で元婚約者を圧倒し首席合格、宮廷魔術師団長すら降参させる。王宮を救う活躍で副団長に昇進、イケメン公爵様からの求愛も!? 一方、元婚約者は没落し後悔の日々……。見る目のなかった男たちへの完全勝利と、新たな恋の物語。

追放令嬢の発酵工房 ~味覚を失った氷の辺境伯様が、私の『味噌スープ』で魔力回復(と溺愛)を始めました~

メルファン
恋愛
「貴様のような『腐敗令嬢』は王都に不要だ!」 公爵令嬢アリアは、前世の記憶を活かした「発酵・醸造」だけが生きがいの、少し変わった令嬢でした。 しかし、その趣味を「酸っぱい匂いだ」と婚約者の王太子殿下に忌避され、卒業パーティーの場で、派手な「聖女」を隣に置いた彼から婚約破棄と「北の辺境」への追放を言い渡されてしまいます。 「(北の辺境……! なんて素晴らしい響きでしょう!)」 王都の軟水と生ぬるい気候に満足できなかったアリアにとって、厳しい寒さとミネラル豊富な硬水が手に入る辺境は、むしろ最高の『仕込み』ができる夢の土地。 愛する『麹菌』だけをドレスに忍ばせ、彼女は喜んで追放を受け入れます。 辺境の廃墟でさっそく「発酵生活」を始めたアリア。 三週間かけて仕込んだ『味噌もどき』で「命のスープ」を味わっていると、氷のように美しい、しかし「生」の活力を一切感じさせない謎の男性と出会います。 「それを……私に、飲ませろ」 彼こそが、領地を守る呪いの代償で「味覚」を失い、生きる気力も魔力も枯渇しかけていた「氷の辺境伯」カシウスでした。 アリアのスープを一口飲んだ瞬間、カシウスの舌に、失われたはずの「味」が蘇ります。 「味が、する……!」 それは、彼の枯渇した魔力を湧き上がらせる、唯一の「命の味」でした。 「頼む、君の作ったあの『茶色いスープ』がないと、私は戦えない。君ごと私の城に来てくれ」 「腐敗」と捨てられた令嬢の地味な才能が、最強の辺境伯の「生きる意味」となる。 一方、アリアという「本物の活力源」を失った王都では、謎の「気力減退病」が蔓延し始めており……? 追放令嬢が、発酵と菌への愛だけで、氷の辺境伯様の胃袋と魔力(と心)を掴み取り、溺愛されるまでを描く、大逆転・発酵グルメロマンス!

異世界からの召喚者《完結》

アーエル
恋愛
中央神殿の敷地にある聖なる森に一筋の光が差し込んだ。 それは【異世界の扉】と呼ばれるもので、この世界の神に選ばれた使者が降臨されるという。 今回、招かれたのは若い女性だった。 ☆他社でも公開

正妻の座を奪い取った公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹のソフィアは姉から婚約者を奪うことに成功した。もう一つのサイドストーリー。

婚約破棄されたから政府閉鎖します

常野夏子
恋愛
王族も無視できない影響力を持つ名門貴族ラーヴェル侯爵に婚約破棄された王女リシェル。 彼女は王国の政務をすべて停止することにした。

前世を越えてみせましょう

あんど もあ
ファンタジー
私には前世で殺された記憶がある。異世界転生し、前世とはまるで違う貴族令嬢として生きて来たのだが、前世を彷彿とさせる状況を見た私は……。

婚約破棄? あら、それって何時からでしたっけ

松本雀
恋愛
――午前十時、王都某所。 エマ=ベルフィールド嬢は、目覚めと共に察した。 「…………やらかしましたわね?」 ◆ 婚約破棄お披露目パーティーを寝過ごした令嬢がいた。 目を覚ましたときには王子が困惑し、貴族たちは騒然、そしてエマ嬢の口から放たれたのは伝説の一言―― 「婚約破棄されに来ましたわ!」 この事件を皮切りに、彼女は悪役令嬢の星として注目され、次々と舞い込む求婚と、空回る王子の再アタックに悩まされることになる。 これは、とある寝坊令嬢の名言と昼寝と誤解に満ちた優雅なる騒動録である。

処理中です...