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本編

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「あの、吾妻さん。企画書作ってみたんですけど、変なところないか見てもらってもいいですか?」

「ん、見せて。……とても良くできていると思うんだけど、ここの文章は削ってみてもいいかもしれない」
「なるほど……ありがとうございます!」

 紙の束を後輩の遠藤に返却すると、遠藤は顔を明るくして自分のデスクへと戻っていった。俺はそんな彼を少しの間目で追いかけてから、仕事の続きをするためにパソコンの画面へと視線を戻す。

 この会社に入社してから3年が経った。給料も待遇もそんなに悪くない中小企業……ほとんどの社員がβであるこの会社でΩである俺は異端だが、変な目で見られたり差別されるようなことはなかった。彼らがそもそも平凡な俺をΩだと認識していない可能性もあるが、平穏に暮らせるのなら俺にはどちらでもよかった。


 机の上に置いている小さな置き時計の針が定時から1時間ほど過ぎているのを確認して、俺は小さく息を吐いた。そろそろ帰らなくてはと思うが、一件だけ取引先にメールを送っておこうとメール画面を開いて文章を打つ。学校の職員室のように並べられたデスクで、俺と遠藤だけがパソコンに向き合って作業を続けていた。というのも俺と遠藤の担当している案件の取引先が厄介な相手で、なかなか返事を返してこないかと思えば急に意見を変えたりなど、本来そんなに拗れるものではないのにどうにも難しい仕事になってしまっている。

「遠藤、そろそろ帰ろう」
「あ、はい……!」

 パソコンの画面から少し体を横にずらして、やや離れたところにいる遠藤へ声をかける。遠藤は俺の言葉に、慌ててデスクの上のものを鞄へと突っ込みはじめた。そんな慌ただしい後輩の様子に少し笑ってしまいながら、デスクに出していた書類を鞄へ入れて立ち上がった。

「遅くまで付き合わせてごめんな。……ほら、帰るぞ」
「は、はいっ」

 何を緊張しているのか上擦った声を上げる遠藤に少し笑いながら、肩を並べてオフィスを後にした。



 エントランスの自動ドアが開くと同時に、冷たい外気が肌にピリッと触れる。落ち葉を革靴で踏みしめながら手をポケットの中へと突っ込めば、隣で遠藤が身震いしているのが見えた。

「もうすっかり秋も終わりですねー」
「今年の冬は去年よりも寒いらしいな」
「ええっ!通勤するのがより一層辛くなるじゃないですかあ……」

 隣を歩く、しょぼくれた遠藤の姿に笑っていると不意に上着のポケットに入れていた携帯が振動した。

「悪い遠藤、今日はここで。気をつけて帰るんだよ」
「えっ……あ、はい。それじゃあ吾妻さん、また来週」

 こちらを振り返りながら何度も手を振る遠藤に、控えめに手を振り返しながら着信を告げる電話へ応答する。


『優~~!出るの遅くて心配したよ!』
「そんなに待たせてないだろ。心配性だな」

 大袈裟に騒ぎ立てる電話先の声。その耳馴染みの良い綺麗な声を聞いていたくて、俺は人のまばらな通路を歩きながら少しの間目を閉じていた。

『もう家には着いたの?さっき残業するってメッセージ見たけど、ちゃんと帰ってこれた?』
「……今帰りだよ。会社から徒歩圏内のところに家借りたんだから、そんな心配しなくても大丈夫だろ」
『優が可愛いから心配なんだってば!出張なんかじゃなかったら僕が迎えに行ったのに~!!』
「はいはい。……五紀は?もう仕事終わったのか?温泉あるとか言ってはしゃいでただろ」
『今日の仕事は終わり。温泉もすっごく良かったよ!優と今度行けたらいいな。……あと3日間も優と会えないなんて、はあ……辛すぎる』

 切実な声色に、きっと電話の向こうでうなだれているだろう優を想像してしまい、思わず笑い声を溢してしまう。

「ふっ、あはは!」
『ちょっと、笑い事じゃないんですけどー』

 大きなマンションの自動ドアを抜けて、機械の前にカードキーをかざす。解錠された自動ドアを抜けると外の寒さが嘘のように暖かかった。休憩ができるように置いてあるおしゃれな椅子やテーブルを横目にまっすぐ進めば、エレベーターの目の前へと辿り着く。ボタンを押せばすぐに開いたので、そのまま中へと入り階数のボタンを押した。

「もうすぐ部屋に着く。五紀、明日に備えて早く寝ろよ」
『あ~、出張じゃなければ土日は優と一緒に過ごせたのになあ……』
「出張が終われば一緒に過ごせるだろ。どうせ一緒に住んでるんだから」
『“どうせ“って何、“どうせ“って!優は僕がいなくても寂しくないの?』

 拗ねたような声を聞きながらエレベーターの到着の音を聞き、外へと出た。出てすぐの扉へカードキーをかざし、ピッと音を立てて解錠された扉を開いて部屋の中へと入る。


「……俺だって寂しいよ、五紀。お土産よろしくな」

『も~!そういうところだよね優は、そういうところ!……美味しいお土産買っていくね』
「うん、楽しみにしてる。じゃ、おやすみ……五紀」

 おやすみと返ってくる言葉を聞いてから電話を切れば、一人には広すぎる部屋の静寂が押し寄せる。篠宮……五紀が俺の会社の近くに借りたマンションは、二人で暮らすにも広いくらいの3LDKだった。おまけにマンションのこの階を丸ごと使用していい権利を借りているらしく、この階の他の部屋には誰も住んでいない。五紀のいない部屋の中、廊下を進んで大きなリビングへと出るとただ一人だけという孤独感が浮き彫りになる。

 俺も食費を出してはいるが、家賃を含めた生活費のほとんどを出しているのは五紀だ。もっと安いアパートで同居しようと俺は言ったが、五紀は頑なに生活レベルを下げることを拒んだ。セキュリティのしっかりしたマンションで、俺に不自由のない暮らしをさせたいのだと言う。


 ……けれど、俺は。そんな風にもてなされるように接されると、自分にはやっぱり何もできないのだと思い知らされるような気持ちになるから嫌だった。五紀の好意をちゃんと受け止めることのできない自分も、どうしようもなく嫌だった。

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