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本編

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「五紀……」

 あれからどれほどの時間が経ったのかは分からないが、すごく長い時間に思えた。鍵はかかっていないのにトイレの扉を開ける勇気はなく、扉の外からずっと五紀に声をかけることしかできなかった。顔を合わせて、どんなふうに振る舞えば良いのかわからなかった。ただ苦しむ五紀の背中をさすってやりたいと思ったが、そんなの俺にはもうできないじゃないかとただ拳を握っていた。

「大丈夫……」
「五紀……?」

 小さくか弱い声だった。五紀の口から出るにはあまりにも似つかわしくない、その声を聞いた時……俺は、足元から崩れ落ちてしまいそうになった。自分の身体中の骨が脆くなって全部崩れてしまうみたいな、そんな感覚をおぼえた。それは半ば俺の願望だったのかもしれないが。

 ガチャリと目の前の扉が開いて、その隙間から五紀が出てくる。顔を見るのがどこか怖かったが、そんなことよりも五紀の体調が心配だった。俺は無意識のうちに抱きしめようと動いた腕を咄嗟に止めた、変な格好をしていたと思う。最後に見た時よりも幾分かマシな顔色になった五紀が、そんな俺を見てふっと笑った。

「僕と別れるなんて言った優が、そんな顔してたらダメじゃない」

 そんな声を、出さないでくれと思った。そんなに愛しい者に語りかけるみたいな、いつものような優しい声を出されたら。出されたら……。

「リビングで待っていて。それで、改めて話をしよう」

 五紀は細長くて綺麗な指先で俺の頬をそっと撫でてから、洗面所へと立ち去っていった。その背を見送ったあと、俺は喉に詰まっていた息を吐き出してからリビングへと向かった。




 廊下へ繋がる扉を背にして椅子に座った。五紀と何度も食卓を囲んだこのテーブルを見ていると、あの頃の楽しかった記憶が勝手に頭の中に浮かんでは消えていく。五紀の作ってくれたハンバーグが美味しかったなとか、2人で深夜までたわいのない話で盛り上がったなとか、嬉しい時にすぐ五紀は俺に抱きついてきたなとか、そんなくだらないこと。一つ一つ拾い集めて愛しがるには多すぎて、こんな時じゃないと思い出すこともしなかった小さなくだらない日常のことを、ああ大切だったんだと今更になってようやく。――ようやく分かったのに。

 それでも俺は、自分の犯した罪を間違っているとは思えなかった。いや、間違ってはいるのだが必要だったと思っている。五紀の幸せは俺とのこの違えた未来にはないんだ。社会に認められないと自覚しながら進む今の関係に、五紀を縛り付けておくことなんてできなかった。だって俺たちは結婚ができないんだ、Ω同士だから。

 ――最初は、それでもいいと思っていた。社会に認められないΩ同士の恋人関係でも、五紀と俺が幸せなら、想い合っているならそれでいいって。けれど、こうして社会人になってからは痛いほど思ってしまう。俺たちの関係は……俺の存在は、五紀にとって障害でしかないんだと。それほどまでに五紀と俺の立場はあまりにも違った。大きな会社をまとめる五紀と、ただの平社員の俺とでは、社会に与える影響も周りからの評価もまるで違う。五紀はずっと特別だった。最初から、落ちこぼれのΩである俺とは釣り合ってなんかいなかった。本当はそんなことずっと前からわかっていたのに、五紀の手を離すことができなかった。あの冷たい手を温めるのが自分だったらいいと、ずっと縋っていたんだ。

「馬鹿だった……」

 ずっとわきまえているべきだった。自分の心を律するべきだった。俺は自分がΩだということを痛いほどわかっているつもりだったのに、本当の意味では全然分かっていない子供だったのだと思う。Ω同士がどういう目で世間から見られるのか、理解が足りていなかった。親にさえ口外できない関係が、許されるわけがない。


「ふふっ」

 俯く俺の後頭部から明るい笑い声が聞こえ、びっくりして思わず振り返った。すっかりいつもの顔色に戻った五紀は、世間話でもするみたいな軽い雰囲気で俺の向かいに腰を下ろした。

「い、つき……その、具合はもう」
「別れないよ」

 “大丈夫なのか”と続けようとした言葉を遮って、五紀がそう口にした。優しい響きなのに拒否することはできないような威圧感を感じる。今まで五紀からは一度もされたことのない一方的な物言いに、思わずその表情を唖然と見つめた。変わらず優しい微笑みを浮かべている五紀は本当に何事もなかったかのような居住まいで、それが逆に異常さを感じさせた。

「別れられないよ」

 ふふ、と場違いなほど明るい笑い声を上げて、五紀は俺のチョーカーを指先で撫でた。Ωにとっては命綱にも等しいそれは、付けているのが当たり前なので普段意識することはない。けれど、こうして五紀に触れられるといつも思い出してしまう。五紀に告白されてこのチョーカーを付けられたあの日のことを。首から下がっている小さな鍵は、俺と五紀の覚悟の証みたいなものだった。

「優の気持ち、気付けなくてごめんね。そんなに抱いて欲しいと思ってるなんて知らなくて……ずいぶん長い間、寂しい思いをさせたね」

「っ……」

 面と向かって自分のはしたなさを指摘され、思わず赤面してしまう。言い訳をしようにも事実だから訂正のしようがなく、ただ息を飲み込むことしかできなかった。

「僕も優もΩだから、僕らの存在をたらしめるセックスが憎いかと思ってた。……僕たちΩの体はαのために発情するんだと思い知らされるみたいで、僕は発情期がくる度に何度も死にたいと思っていたから。でも、優の気持ちを決めつけていたのは僕の過ちだったね」
「五紀、違う……俺は別に無理に五紀に抱いてもらおうなんて、そんなことは……」

 五紀の指先がチョーカーを辿って俺の頬を撫でる。そのまま形を確かめるように掌で撫でられると、なんだか慰められているような気分になって何も言えなくなってしまった。その手の冷たさに思わず目を瞑ってしまったが、すぐに目を開けて五紀の表情を見る。俺を真っ直ぐに優しく見つめる五紀の瞳の奥は、呑み込まれそうなほど深くて、見つめ続けていると何故だか呼吸が苦しくなった。

「ううん、優が望むことはね……全部叶えたいんだ。いや、ちょっと違うか……優が望まなくても、僕はね――」

 優しく、まるで小さな子供に語りかけるみたいな声で、五紀に名前を呼ばれるのが好きだった。俺のことを愛しいと思ってもらえているのを実感できたから。けれど、それと同時に心のどこかで必ず感じていた。――ああ俺は、五紀の横を歩きたいのにって。


「本当はずっと、僕のそばに縛り付けておきたかったんだ。優のこと」

 あの日、肩を並べてゲームで遊んでいた子供の頃。俺たちの間には上も下もなくて、ただ2人で過ごす時間が楽しくて仕方がなかっただけだったのに。――どうして、こんな風にしてしまったんだろう。
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