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本編
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しおりを挟む玄関の扉を重いと感じたのは初めてだった。すでに鍵の開いていた扉を音が出ないように静かに開くとセンサーで反応する電気がパッとつき、恐る恐る玄関と扉の間で入るかどうか迷っている俺の体が容赦なく照らされてしまう。あ、と思う間もなくリビングへと続く扉が開かれ、奥から五紀が駆け寄ってきた。
「優~!……連絡なくて心配した、無事でよかったよ~!」
五紀にぎゅっと強く抱きつかれ、その勢いで俺の体は完全に室内へと引き込まれ、あっけなく玄関の扉は閉まってしまった。気まずさの中、それでも五紀に抱きつかれると安心した気持ちになってしまうのは、やっぱり俺が五紀のことを好きだからなんだろう。
グリグリと俺の胸に顔を押し付けるようにしていた五紀だが、ふと動きを止めると少し硬い表情で俺のことを見上げた。見慣れない五紀の表情に、ぎくりと俺の体が強張る。
「優、……抑制剤が効かなかった?それとも突発的なヒート?誘発された……?無理やり誰かに……」
「い、五紀……落ち着けって」
動揺した様子の五紀の肩に手を置くと、少し落ち着いたのか樹は短く息を吐き出して視線を下に向けた。柔らかそうに揺れるその髪を撫でてあげたいと思ったが、ぐっと堪えて五紀の疑問に返事をするために口を開く。
「五紀、違うんだ……」
その言葉に五紀は目を見開いて俺の顔をまじまじと見た。五紀の澄んだ綺麗な瞳が俺の隠したい汚さを見透かしているようで、逃げることなんてできないと思い口を開く。言うなら今しかないんだと思った。
「俺、αと浮気した」
しんと静まり返った玄関で、汗に滲んだ拳を握りしめた。言ってしまった、すべてを終わらせるための言葉をついに口に出してしまったのだ。沈黙が耐えられず五紀から目を逸らしてしまいそうになるが、俺にはその権利はないのだと思い綺麗な五紀の顔をじっと見つめた。
五紀は意味がわからない不可解なものを見るような表情を浮かべている。俺はそんな五紀の目を真っ直ぐ見ながら言葉を続けた。
「そのαと一緒になりたいから、別れてほしい」
ここまできたら勢いだった。嘘っぱちの言葉でも何でもいいから、どうにか自分の計画を成功させたいと思った。余計なことを考えれば喉に異物が引っかかるみたいに何も言えなくなる気がして、できるだけ何も考えないように言葉を紡いだ。
「急で申し訳ないけれど、俺は――」
「それって、僕に運命の番が現れたから?」
取り繕う余裕もなく、俺は五紀のその言葉に目を見開いて固まってしまった。五紀の声は確信を持っているような強さがあり、俺はそれにも動揺してしまう。その態度が言葉を肯定してしまっていることに気づき、慌てて否定の言葉を口にした。
「いや、違う。俺が、αと一緒になりたいから言い出したことで……」
「優、大丈夫だよ。優が気にすることなんて何もないんだから。運命の番なんていうのは世間が勝手に言ってる『特別相性のいい人間』って意味。ただそれだけだよ」
「違う!俺は……」
「それに僕、優に怒ったりしてないよ。大丈夫、ちゃんとわかってるから」
優しい声音だった。優しく包むように頬に触れられると、こんな状況でもその熱を嬉しく感じてしまう。同時に取り返しのつかないことをしたのに、このまま五紀の優しさに流されたらまた同じことの繰り返しじゃないかと、そんな絶望感がじわじわと胸を苦しめた。
「優が無闇に僕を傷つけたりしないって、わかってるから。だから……また2人で楽しく過ごそう?せっかくの週末なんだもん、どこか行って気晴らししようよ。あ、水族館デートとか?イルカショーって夏じゃなくてもやってるのかな……。それとも動物園とか行ってみる?うーん、でもシンプルに映画とかでもいいよね」
五紀の明るい声から逃げるようにして俯いた。いつだって五紀の声や表情は俺の決意を揺さぶってしまうから、なるべく口論に持ち込みたくなかったのに。結局このままではいつものように流されてしまうと感じた俺は、固い決意で五紀の言葉を受け流すことにした。会話をせず、確実に別れ話に持っていく方法は、もうアレしかないだろう。
「だから今日はゆっくり休んで、また明日になってから考えようよ。そしたらきっと優だって――――」
『あ~~っ♡い、く……いくぅ……っ♡~~っ♡♡』
遠藤との情事を収めている動画を映したスマホを五紀の眼前に掲げると、五紀は笑顔のまま固まってその画面をただ目に映した。
自分の痴態を進んで見せるのはこれが最初で最後だろうなと、逆に冷静になった頭でそんなことを思う。これでもう五紀との関係を修復することができなくなったと思うと、心にポッカリと穴が開いたような、どこか安堵したような不思議な心持ちだった。
『ぁっ♡まって、中は……っ!中はっ、まずい、~~っっ♡♡』
五紀は言葉もなく、本当に呆然とした様子で動画の中の俺を見ていた。終わりに近づいていく動画に、俺は少し焦りのようなものを感じ始める。途中で五紀が怒って俺に詰め寄ったり、もしくは傷ついた表情を浮かべたりするものだと思っていたのだが、そんな俺の予想とは反して五紀の表情は固まった笑顔のままで、ただ意味もわからず動画を目に映しているだけのように感じた。
ここまでやっても交渉材料には足りなかったのかと思ったその時、五紀が突然口を両手で抑えて急ぎ足で廊下へと踵を返した。
「え、五紀……?」
突然の出来事に俺は唖然として五紀の背中に声をかけることしかできない。五紀はそんな俺の困惑した声を無視してトイレへ駆け込む。扉が力任せに閉められ、その直後に痛みを堪えるような、五紀からは聞いたことのない苦しそうな声が扉越しに聞こえた。
「え、あ……?」
一瞬、聴き間違えかと思ったがそれは確かに五紀の声だった。苦しそうな声に混ざってビチャビチャと水が跳ねるような音がする。
俺は慌てて靴を脱ぎ、玄関から廊下へ足を進めてトイレの扉の前に立った。扉の向こうからは短い吐息に混ざって、獣が呻くみたいな声と水音が聞こえる。
……吐いている?あの五紀が……?
「五紀……?大丈夫か、五紀……」
どこか現実ではないような感覚で俺は五紀に声をかけるが、五紀からの返事はない。祈るような気持ちで扉に手を付いて何度も呼びかけるが、聞こえているのかいないのか、五紀からの返事は一度もなかった。
俺は今更、自分の犯した罪の重さに打ちのめされそうになっていた。本当に今更、愚かにも泣きたくなっている。
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