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美里

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その冷たい風が、怖かった。
 本当に戻ってこられない、奈落の底まで続いているような風。
 私は震えた。
 震えながら、肩を抱く兄の手をつかみ、のけた。
 兄は、ろくに力の入っていない私の手に、それでも従って手を話した。
 兄の手から離れる。 
 それがこんなにも簡単だということに、私は半ば恐怖さえ覚えた。
 だって、永遠に逃れられないと思ってきた。ずっとずっと逃れられず、手に手をとったまま、地獄の果まで落ちていくのがさだめだと。
 それなのに、兄はさらりと私を手放した。
 「美月。」
 兄の声は、優しかった。肉と肉とを交えた後の、粘っこいような優しさではなく、ただの兄妹として暮らしていたころの、ごく当たり前の優しさがそこにあった。
 私はそのことに驚き、兄を見上げた。
 兄の目から感じた最果ての風は、どこかに消えていた。
 そこにはやはり、抱き合うようになるよりずっと前の、兄妹としていたわりあっていた頃の静かな光があった。
 「この子のことが、本当に好きなの?」
 私は戸惑って潤を見た。
 好きだ。信頼している。それは、言葉では言い尽くせないほど。
 けれど、汚い私が潤に触れていいとは思えないし、誰に対してでも恋情を持つような権利は、とっくの昔に手放してしまっている。
 潤は私の目を見返すと、小さく頷いてくれた。
 それを見てようやく私は、兄の問いに答えることができた。
 「好きだよ。」
 すると兄は、ふわりとやわらかく目を細め、それは恋? と、問いを重ねた。
 私は正直に、分からない、と答えた。
 「……そっか。」
 兄が、そう小さく呟いた。
 そして彼は、私に背を向けた。
 「さよなら美月。」
 短い台詞だった。
 まさかそんな短さで、軽さで、これまで私と兄の間にあったことを、帳消しにできるとも思えなかったし、目をそらすことこだってできるとは思えなかった。
 それなのに兄は、再び改札をくぐり、どんどん歩いて私の視界から遠ざかっていく。
 嘘だ。
 私はとっさに兄を追おうとした。
 けれど、左手を引く潤が、それを許しはしなかった。
 「美月ちゃん。あれが最後の『愛してる』だよ。」
 ぽつんと、春の雨のような繊細さで潤が囁いた。
 私はどうしていいのか分からず、子供のように棒立ちになったまま、ぼろぼろと涙をこぼした。
 一緒に狂い、汚れ、堕ちた、私の男が去っていく。
 潤は、私を急かそうともせず、寒い夕方の改札口が夜の闇に沈むまで、ずっと私の隣に立っていてくれた。
 「……ありがとう、潤。」
 最終電車も終わり、人気のなくなった駅で、まだ涙の残滓が消せないまま、私はかろうじてそれだけ口にした。
 潤は、いいんだ、と肩をすくめた。
 「その代わり、俺がおとなになるまで、待っててよ。」
 私は思わず微笑み、繋いだままだった左手を見下ろした。
 「潤は、もう十分大人でしょう。」

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