妹売り

美里

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兄の胸に顔をうずめ、懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
昔、まだルイが完全な子供だった頃、この匂いに包まれていつも眠っていた。屋根のあるところで寝られることの方が稀で、いつだって心細くて寒かったけれど、こうやって兄の懐に抱かれていればなにも怖くなかった。だからルイ毎晩毎晩兄に抱かれ、夜の暗さも知らずにぐっすりと眠った。それから何年もたたないうちに、その兄が恐怖の対象を連れてくるようになるとも知らずに。
あの頃、だからルイは夜の暗さも怖さも知らなかったのだ。兄がそれをたった一人で抱え続けてくれたから。彼とてその時はまだ、年の割にも痩せて小さな少年でしかなかったのに。
「行くよ。」
兄の胸に額を押し付けたルイは、自分に言い聞かせるみたいにきっぱりとそう告げた。
「さよなら。私はもうあなたがいなくても大丈夫。」
兄が一人で背負い続けた夜の暗さを思う。おそらくその闇は、ルイが身体を売った数えきれない夜を重ねてもかなわないほど、冷たく深い。
さよなら、ともう一度呟いてから、ルイは兄から身を引きはがした。
そのまま溶けて癒着して離れられなくなってしまえたら楽だったのに。あの幼い日に、身体をとかして一つの生き物になってしまえてさえいれば、こんな別れ難さを知らずともすんだのに。
レイジももうルイを引き留めはしなかった。彼女の背中に危なっかしく背負われたイワンに手を添えて背負い直させ、ぶらりと垂れていたレインコートの両袖をルイの腰に回して結んで固定した。
お兄ちゃん、と、唇だけで囁いたルイは、ふらりとつまずくようにビルから出て行った。
レイジは彼女の背中が見えなくなっても、しばらくその場に立って彼女が消えて行った夜の闇を見つめていた。
「レイジ。」
その背中に声をかけたのは、真っ赤なドレスのジャッキーだ。もとは窓だった穴のどれかからビルに入って来ていたらしい。
「生きてたのか、お前。」
結構本気で驚きながらレイジが言うと、彼女は両頬にかわいいえくぼを作ってにっこり笑った。
「ロンも死んだし、そりゃあもうぴんぴん生きてるわよ。」
予想外の台詞に、珍しく表情に出してあからさまに戸惑うレイジを見て、ジャッキーはからかうような笑みを小さな顔いっぱいに広げる。
「バカね。兄妹なんて、兄貴が思ってるほど大したもんじゃないのよ。」
両目をドレスよりも赤く泣き腫らした生粋の売春婦は、今にも崩れ落ちそうな笑顔でレイジの肩を叩いた。
「ホウの店も辞めちゃったし、ここで雇ってよ。ね? ルイは行っちゃったんでしょ? そこの角んとこで、ミンジュと歩いてるのを見たわ。」
そうか、と、レイジはただ頷く。それから長い沈黙があった。ジャッキーはその間、両目を潤ませたり乾かしたり、喉を泣かせたり黙らせたり、忙しく瞬きを繰り返したりしていた。そして、遠くの空がうっすらと白く明け始めた頃、レイジはジャッキーの赤いドレスの肩紐を指でつまんで引っ張った。
「まずはこのドレスをやめろ。あんたはTシャツとデニムのミニで売るべき女だろ。」
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