兄貴の本命

美里

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人ごみで母親を見失った子どもみたいに、手放しで泣いた。涙が止まらなくて、嗚咽も止まらなくて、本当にひどい顔でひどい声でひたすら泣いた。
 ゆうに30分は泣き続けたと思う。ようやっと内臓全部に染みついていた焦燥感が涙で全部溶けだして、俺はなんとか泣き止むことができた。
 その間ずっと俺の背中を抱いていてくれた要さんは、大丈夫? と首を傾げて俺と目を合わせた。
 やさしい目だった。俺が甘え続けた、やさしいひとの目だった。
「すみません。」
 そう口にしてから、俺はこの人に詫びてばかりいるな、とぼんやり考えて、それもそうだよな、と内心呟く。
 詫びてばかりいるというか、詫びなくてはならないようなことばかりしている。
「こっちこそ、あずちゃんがごめんなさい。身体、平気?」
 わんわん泣いている内に、腕と足の痛みはすっかり引いていた。この分では骨にはなんの損傷もないだろう。
「平気です。」
 俺はそう言って、腕と足を動かして見せる。
 よかった、と、要さんは静かな頬で笑った。
「それで、今日はどうしたの?」
 また、この人に損な役回りを押し付けてしまう。俺の話を聞いてばかりで、彼は自分のことを一つも喋れない。
 そう分かっていたのに、口から出てくる言葉は止まらなかった。
「昨日の夜、兄貴がこれに気が付いたんです。」
 これ、と、俺は自分の項を示した。
 2日前、要さんがつけた噛み痕。
 改めて、たった2日でこの人はこんなにやつれたのか、と俺は要さんの削げた頬に手を伸ばす。
 要さんはそっと俺の手を掴み、俺のことはいいから、と先を促した。
 いいはずない、と言いたいのに言えない。        俺はいつもいつも、そう言えないような行動ばかりしてきたし、今だってそうしているのだから、言えるはずがない。
「それで、それで……。」
 泣きすぎで砂でも詰められたみたいにずっしり重い頭の中で、適切な言葉をあれこれ探す。
 それで、結局なにもなかったのだ。なにもなかったことに俺は狂って、兄貴は逃げた。
 そのことを上手く伝える言葉が見つからない。
「それで、兄貴は出て行きました。」
 俺に言えたのは、結局それだけだった。それだけ口にした唇が震えているのが、自分でも分かる。
 要さんはそれ以上の言葉を求めることもなく、そっか、とだけ呟いた。
 肘の骨が飛び出して見えるほど痩せた腕は、まだ俺を抱いていてくれた。それは俺にとっては大きな救いだった。ついに自分のこともろくに喋れなくなっても、この人は俺を抱いていてくれるのだと。
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