観音通りにて・情夫

美里

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名前にちなんだ瑠璃色のスプリングコート姿のルリ子は、それからそう経たずに病院の前に降り立った。
 「電車だと大回りなのよ、タクシーならそんなに遠くないわ。」
 そんなことを言いながら、ルリ子はぽん、と鏡太郎の肩に手を置いた。
 「やめて。泣いてしまう。」
 「いいわよ。泣けば。」
 短いやり取りの後、しかし鏡太郎は泣かずにルリ子とタクシーに乗り込んだ。
 「お母さまの様子はどうだったの?」
 「わからない。多分、普通。」
 「普通?」
 「あの人も俺を嫌いだし、俺もあの人は嫌いだ。そういう普通だよ。」
 口に出しても、思ったより胸は痛まなかった。ただ、ずっしりと重いなにかが腹の上に圧し掛かっている。
 ルリ子はただ、そう、とだけ呟いた。鼻がつんと尖ったきれいな横顔は、窓の外をじっと眺めていた。
 あの人も俺を嫌いだし、俺もあの人は嫌い。
 なにも嘘ではなかった。本気で嫌いだった。茜のように美しいときに死にもせず、生き延びた病弱な母。うつくしかった時など、娘盛りの時ですらなかったのではないかと疑われるような、痩せこけた頬。
 「鏡ちゃん。」
 「なに?」
 「私。観音通りを出るつもりなの。」
 ルリ子の口調は、ゆっくりはっきりしていて、まるで女教師が授業で英語の発音でも教えているときのようだった。
 「え?」
 「お金は貯めた。後はパートでも何でもして食べて行くつもり。一緒に来る?」
 「え?」
 「ヒモではいさせないよ。鏡ちゃんもなんかしら働いてはもらうよ。それでも、一緒に来る?」
 「え?」
 唐突な誘いすぎて、鏡太郎の口から出るのは、かろうじての『え?』の一文字だけだった。
 観音通りを出る? ここで生まれ、ここで育ち、ここで腐って、ここで泣いた。その街から、出る?
 それはとんでもないことに聞こえた、とんでもない、恐ろしいことに聞こえた。
 「怖いんでしょう。観音通りを出て生きていくのが。だったら、慣れるまでは一緒にいてあげるって言ってるの。」
 本当はちょっと私も怖いしね、と、ルリ子が呟く。
 その素直な告白に、鏡太郎は多分救われたのだ。ルリ子がそう言ってくれなかったら、鏡太郎は観音通りを出られなかった。怖くて、どうしても。
 「……うん。行く。」
 涙の第二波が、その時鏡太郎を襲った。今度の涙には、第一波のような勢いはなかった、両方の目が少しだけ潤んだくらいだ。
 それでもルリ子は敏感にそれを察し、鏡太郎の肩を抱いた。それはとても暖かな掌だった。
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