金魚の庭

美里

文字の大きさ
42 / 44

白い毛布と金魚の水槽

しおりを挟む
私と夫が別れたのは、それから数か月がたった秋の初めだった。
 別れたと言ってもそもそも籍が入っていたわけでもないので、ただ、私が家を出ただけだけれど。
 どうして夫と別れたのかと訊かれると、あれから五年近くたった今になっても返答に困る。一緒に暮らし始めたばかりの私がまだ幼かった頃には、佐山は完璧な父であり兄であったし、それなりに時がたち歳を取ってからは、常に完璧な夫だった。不満はどこにもなかったのだ。
 それでも、佐山が雨の火葬場でコートを着せ掛けてくれたあの男と寝ていることを知って、私は家を出た。
 別に、火葬場の男を好きだったわけではない。容姿だってなんとなく覚えていたくらいのものだ。それでも私は、たった今家を出なくてはならないと思った。
 今思えば、佐山が寝ていた男があの火葬場の男であったのかどうか、確信は持てない気がする。佐山に確かめたわけではないし、泊りの予定で遊びに行っていたなつみさんの家から、意味もなく早く帰ってきた私が玄関を開けると、見覚えがある男が家の中にいたという、それだけの話だ。
 だから、私は本当のところは佐山が誰と寝ていようが関係なく、もう耐えられなくなっていたのかもしれない。
 セックスをすればするほど、佐山は病的に白い肌からさらに血の気を削っているように見えた。
 そのうち、この人は文字通り性欲で身を滅ぼす。そしてその無尽蔵みたいな欲の源には私の父親であったのかもしれない男がおり、その男が死んだ後に佐山が欲に狂ってしまったのは、明らかに私の存在が原因だった。あの男が刻んで死んだのが私の名前でなくて佐山の名前だったら、佐山はこんなに狂っていない。
 火葬場で会った男に似ている佐山の愛人は、私の顔を見るなり焦ったように服を着て、深々と頭を下げると部屋を出て行った。 
 佐山は一瞬たりとも男を引き留めるそぶりを見せなかったが、男は部屋を出る前に縋るように佐山を振りかえった。訓練された忠犬みたいな目をしていた。
 佐山はそれさえも無視した。犬の数匹従えるのも当然というくらい、私の夫は冷え冷えと美しかった。
 私は男と選手交代するみたいに、ソファの上に取り残された佐山に歩み寄った。
 初めて見た夫の背中から腰にかけての肌には、喉元の傷と同じくらい古い火傷の跡が広がっていた。傷痕というよりは、もう皮膚になじんで生まれつきそういう模様の肌をしていたみたいに見える、明るい桃色。
 「ベッドですればいいのに。」
 現実逃避みたいに、半ば無意識で出た言葉だった。
 背中を隠すように身を捻った夫は、疲れたように微笑んだ。性にやつれた様子というには、私の夫には色気がない。こんなに決定的な場面でさえも、もっと切実に、もっと核心的なところが疲れてしまっているようにしか見えない。それ妙に悲しかった。
 「さすがに申し訳ないと思ったんですよ。」
 「夫婦の寝室ってわけでもあるまいし。」
 「それもそうですね。」
 芯の無い会話だった。お互い踏み込みたいのに踏み込めない場所があって、じりじりとそこに攻め込む攻防に、もう疲労しきっていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

屋上の合鍵

守 秀斗
恋愛
夫と家庭内離婚状態の進藤理央。二十五才。ある日、満たされない肉体を職場のビルの地下倉庫で慰めていると、それを同僚の鈴木哲也に見られてしまうのだが……。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

処理中です...