観音通りにて・母親

美里

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 お母さんが生理休暇を取ったのは、私を拾って四か月くらいが経った頃のことだった。生理不順であんまりこないのよね、と、何気なくお母さんは言った。私はそれを、羨ましいと思った。初潮がきて、二か月。生理はきちんきちんとやってきていた。それは、うんざりするくらいの几帳面さで。
 「香織、どっか行きたいところある?」
 お母さんが私の顔を覗き込んだ。真夏。バラック小屋にはむっとする熱気が立ち込めていたけれど、真っ白いお母さんの顔はどこか涼しげに見えた。てろんとしたプリント柄のワンピースのせいもあるかもしれない。
 私は、行きたい場所、について真剣に考えた。考えたけれど、ひとつも思い浮かばなかった。生まれてからこの年になるまで、私はどこかに出かけるという経験をしたことがなかった。生まれた家と、観音通りの長屋と、このバラック小屋。その三つが、私の世界の全部だった。
 そのことをお母さんに言うと、悲しませてしまう気がして、私は口をつぐんだ。お母さんは、私が全然悲しいと思ったこともなかったような事柄にも、悲しみを見つけ出す。美容院で髪を切ったことがなかったことや、母親の料理を食べたことがなかったこと、誰かに抱きかかえられたことがなかったこと。そんなことにもお母さんは悲しみを見つけ出した。だから私は、慎重に自分のこれまでの生活をお母さんから引き離した。なにがお母さんを悲しませるのか、分からなかったから。
 「香織?」
 お母さんが、黙ったままの私を怪訝そうに見つめる。私はちょっと笑って、お母さんといられればいいの、と言った。本心だった。私にそれ以上望むことはなかった。
 「かわいいこと言うわね。」
 お母さんが、両手を伸ばして私の頭をぎゅうぎゅうと抱きしめた。汗を微かに含んだお互いの肌が、ぴたりと合わさるとひんやりした。私はされるがままになりながら、お母さんの匂いを胸いっぱい吸い込んだ。白粉と、香水と、煙草の匂い。でも、私はお母さんが煙草を吸っているのを見たことがなかった。多分、私に隠れて吸っているのだろう。お客さんと一緒に吸っているのかもしれない。
 私を抱きかかえたまま、お母さんは考え込むようにしばらく身体を揺らしていたけれど、やがてゆっくりと口を開いた。
 「海や山じゃあ、芸がないし、どこか都会に出るのは疲れるし、きれいな小川があるようなところに行ければいいわね。」
 私は、お母さんの胸の中で頷いた。どこに行っても同じだった。お母さんがいてくれるなら、私はそれでよかった。
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