13 / 30
13
しおりを挟む
バス停から旅館までは、歩いてすぐだった。日差しが強くて暑い日だったのに、旅館はどこかひんやりとしたたたずまいを見せていた。別に、日陰にたっているわけでもないのに。建物が古くて、色褪せたような印象があるからかしら、と、私はぼんやり思った。
薄い桃色の着物を着た中居さんが案内してくれた客室は、三階建ての二階で、角部屋だった。住まいのバラック小屋より広い畳敷きで、木製の鏡台が観音通りの長屋を思い出させた。
お母さんは、ボストンバッグを開けて、鴨居にハンガーで明日着る服を吊るしてしわを伸ばした。私は窓枠に膝を乗せ、大きな窓から外を眺めた。別段素晴らしい眺めっていうわけではなかった。二階だし、ただ田舎の田畑や平屋が連なっているだけだ。それでも、遠くに来た、という感慨があって、その景色が私には随分うつくしく見えた。
水色の地に、紺色の幾何学模様がプリントされたワンピース姿のお母さんが、部屋の真ん中にある大きな木製のテーブルに置かれていた茶菓子を、ひょいとつまんで口に入れた。
「お茶を入れる?」
と私が訊くと、お母さんは首を横に振った。
「暑いもの。」
部屋の中は日陰だし、うんと静かなので、新しいシーツにもぐった時みたいな涼しさがあったけれど、確かに熱いお茶を飲みたいような気温ではなかった。
「サイダーかなにか、貰いましょうか。」
お母さんが言って、部屋を出ていこうとした。私は考えるまでもなく、お母さんにくっついて部屋を出て、広い廊下をわたり、階段を下りてフロントへ向かった。部屋には電話が備え付けてあったけれど、お母さんも私もそれを使おうとはしなかった。この古ぼけて広い旅館の中を、ちょっと探索してみたい気分だったのだ。
フロントには、さっきの中居さんが座っていて、私とお母さんがサイダーを飲みたいというと、大変恐縮した様子で、奥から冷えたサイダーの瓶を二つ持ってきてくれた。お母さんは、フロントの台に軽く寄りかかるみたいにしてサイダーの栓を抜いて、一本私に渡してくれた。私は、フロントからちょっと離れて、入り口のあたりをうろうろしながらサイダーを飲んだ。喉の奥で、炭酸がはじける。
お母さんは、にこやかに中居さんと話をしていた。なんの話をしているのかまでは、ここまで聞こえてこない。私はなんとなく、裏切られたような気分になった。私の世界はお母さんが全てなのに、お母さんの世界は私が全てじゃない。だから、こんな気分になるのだろう。
薄い桃色の着物を着た中居さんが案内してくれた客室は、三階建ての二階で、角部屋だった。住まいのバラック小屋より広い畳敷きで、木製の鏡台が観音通りの長屋を思い出させた。
お母さんは、ボストンバッグを開けて、鴨居にハンガーで明日着る服を吊るしてしわを伸ばした。私は窓枠に膝を乗せ、大きな窓から外を眺めた。別段素晴らしい眺めっていうわけではなかった。二階だし、ただ田舎の田畑や平屋が連なっているだけだ。それでも、遠くに来た、という感慨があって、その景色が私には随分うつくしく見えた。
水色の地に、紺色の幾何学模様がプリントされたワンピース姿のお母さんが、部屋の真ん中にある大きな木製のテーブルに置かれていた茶菓子を、ひょいとつまんで口に入れた。
「お茶を入れる?」
と私が訊くと、お母さんは首を横に振った。
「暑いもの。」
部屋の中は日陰だし、うんと静かなので、新しいシーツにもぐった時みたいな涼しさがあったけれど、確かに熱いお茶を飲みたいような気温ではなかった。
「サイダーかなにか、貰いましょうか。」
お母さんが言って、部屋を出ていこうとした。私は考えるまでもなく、お母さんにくっついて部屋を出て、広い廊下をわたり、階段を下りてフロントへ向かった。部屋には電話が備え付けてあったけれど、お母さんも私もそれを使おうとはしなかった。この古ぼけて広い旅館の中を、ちょっと探索してみたい気分だったのだ。
フロントには、さっきの中居さんが座っていて、私とお母さんがサイダーを飲みたいというと、大変恐縮した様子で、奥から冷えたサイダーの瓶を二つ持ってきてくれた。お母さんは、フロントの台に軽く寄りかかるみたいにしてサイダーの栓を抜いて、一本私に渡してくれた。私は、フロントからちょっと離れて、入り口のあたりをうろうろしながらサイダーを飲んだ。喉の奥で、炭酸がはじける。
お母さんは、にこやかに中居さんと話をしていた。なんの話をしているのかまでは、ここまで聞こえてこない。私はなんとなく、裏切られたような気分になった。私の世界はお母さんが全てなのに、お母さんの世界は私が全てじゃない。だから、こんな気分になるのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる