観音通りにて・母親

美里

文字の大きさ
25 / 30

25

しおりを挟む
  「なんか、食うか。」
 私の帳面付けが一通り済んだ頃、表から部屋に戻ってきた蝉が言った。外はまだ暗い。娼婦たちの就労時間はまだ続く。だから、蝉だってまだ働かねばならない。
 「うどんでいい?」
 「そば。」
 うん、と頷いて、私は帳面を閉じて蝉に渡し、立ち上がった。
 「一人でできるか。」
 「うん。」
 料理というものを、ここに来るまで私は全くしたことがなかった。生まれた家は大抵ガスも水道も止まっていたし、今思えば、両親の機嫌がいい時に時々口にできた食品は、どこかからの盗品だった。
 お母さんが借りてくれたバラック小屋は、台所が共有でお母さんはあまり料理が得意ではなかったし、外国人の親子が大抵そこを占領していたので、店屋物や買ってきたお惣菜なんかを食べた。
 お母さんが刺されてこの長屋に食事をとりに来るようになったら、通いの賄い婦が作る、大鍋の煮込み料理を三食食べるようになった。
 そんな私にうどんとそばの作りかたを教えたのが、蝉だった。作りかたと言っても、乾麺をゆでて、具材をちょっと入れるだけなんだけれど、私にとってははじめての経験だった。
 蝉の部屋を出、娼婦の個室が並ぶ長い廊下を抜け、その奥の台所に入る。乾麺を棚からとり、賄い婦が残していった少しの野菜をまな板に乗せる。
 私がここで食事をとるようになってすぐ、蝉は夜中に、腹減ったな、と言って私をここにつれて来た。そして、乾麺のゆでかたや野菜の切りかたを、特になにか説明するでもなくやって見せてくれた。三回めくらいに、お前がやって、と言われ、蝉の前でうどんを作った。緊張した。蝉は全然こっちを見ていなくて、椅子の背もたれに背中を預け、だるそうに煙管をふかしていただけなのだけれど、火も包丁も、はじめて使ったから。
 今はもう、10回くらい作ったので、はじめに見せてくれた蝉の手際と同じくらい素早く、うどんとそばを作れる。
 「蝉。できたよ。」
 お盆に乗せた、二人分のそばを蝉の部屋に運ぶ。蝉は私が付けた帳面の確認をしていたけれど、すぐに顔を上げ、そばを受け取った。私も自分の分のどんぶりを抱え、蝉の向かいに座る。
 「蝉、」
 「ん。」
 「今度、うどんとそば以外も教えてよ。」
 「むり。」
 「なんで。」
 「うどんとそばしかできないから。」
 そんなに料理がしたいなら、律子さんに教われよ、と言われた。律子さんというのは、賄い婦の名前だ。私はでも、蝉以外の人に料理を教わりたいとは思えずに、曖昧に頷いてそばを啜った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

処理中です...