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「男がね、いるの。」
 ぽつん、と、サチさんが言った。
 男? と、間抜けな私は首を傾げた。
 ええ、男、とサチさんはかすかに唇を笑わせた。それは、笑みというにはあまりにも苦すぎる表情だった。
 「ずっと待ってるって、言ってたわ。」
 ここまできて、ようやく私は、サチさんには恋仲の男がいるのだと理解した。あの売春宿でも古株だという彼女にとっては、おそらくとても遠い記憶の。
 「隣同士の家に住んでたの。お互い両親が働き詰めで家にいなかったから、二人でいるのが当たり前だったわ。」
 淡々としたサチさんの語り口は、その分、情念が深いというか、未練が深いというか、とにかく情の深さを感じさせた。
 「なにもかも分け合って、二人で支え合っておとなになったの。村八分にされていたから、本当に、二人きりで。」
 本当に、二人きり。
 私には、彼女のその台詞の意味が分かった。私も、紅子とずっと二人っきりだったから。
 夏の暑さや冬の寒ささえ分け合って、ただ身を寄せ合って、二人で一つの動物みたいに過ごした日々。
 サチさんも、きっとそんなふうに育ったのだろう。
 「蝉はね、男なんて忘れて嫁げって言うわ。そんな当てにならない約束よりも、身請け話しのほうがずっと地に足がついているって。」
 でも、と、サチさんは私を見た。
 今にも泣き出すのではないか、と、私はサチさんを見つめていたのだけれど、そこに涙の色はなかった。サチさんの両目は、乾いて燃えていた。
 「現実的じゃないのは分かってる。それでも私がまだ、浩一を愛しているんだとしたら……。」
 その燃える目を見て、私はサチさんが、紅子と私の間にあったことを、察していることを知った。だから、私なのだ。もっと付き合いの長い女郎仲間はいるだろうに、サチさんは私を選んだ。だとしたら、サチさんがほしい言葉は唯一つだろう。
 「愛しぬいてください。」
 それ以上の言葉は出なかった。
 愛して愛して愛しぬいてください。たとえそれが無駄に終わったとしても、誰かを死ぬ気で愛しぬいたという事実は残るから。
 言いたいのは、そんなようなことだった。でも、うまく言葉にできなくて。
 そんな自分が、もどかしかった。
 心は、いつまでも同じではない。
 分かっている、死ぬ気で愛したって裏切られるかもしれない。それは分かっている、分かっていて、それでもサチさんにはたとえ裏切られたとしても愛しぬいてほしかった。
 
 
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