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後は妹と話しなよ、と、蝉は煙管を咥え直した。
 私は黙ったまま、その場に座り続けた。紅子が眠るあの部屋に、戻るのが怖かった。紅子の肩をゆすり、私はもうここから出て行くと告げるのが、とても怖かった。だって、紅子をここまで連れてきたのは、私なのに。
 「……やっぱり、できないです。……あの村から紅子をここまで連れてきたのは、私なのに。……私が、勝手にしたことなのに。」
 途切れ途切れに吐き出した言葉。
 蝉は斜め上を茫洋とした目つきで眺めながら、煙管の煙を輪っかにしてぷかぷかと吐き出した。
 「なに、それ。」
 「え?」
 「ついて来たのは、紅子でしょ。別にあんた一人の責任じゃあない。」
 「え?」
 「人一人の人生をどうこうするなんて、誰にもできないよ。決めるのは結局のところは自分でしょ。紅子は自分で決めてここまで来たんだよ。」
 「え?」
 え?、と、それ以外の返事ができなかった。
 蝉は呆れたように軽く眉を寄せた。
 「あんたは紅子を侮りすぎだよ。紅子だってあんたと同じで立派な大人なわけ。ガキじゃあるまいし、無理やり連れてくることなんてあんたにはできないでしょって言ってるの。」
 紅子を侮りすぎ。
 これまで思ったこともない台詞だった。
 私はなにをどう返事していいのか分からず、真っ白な頭のまま沈黙した。
 蝉は別段言葉をせかすわけでもなく、ゆったりと紫煙を吐き出す。
 「……蝉さんは、やっぱり優しい。」
 長い沈黙のあと、言葉は勝手に転がり出た。
 私は自分の胸を押さえ、前かがみになった。自分の腹の中にある感情の渦を、庇うような姿勢だった。
 蝉は、やっぱり優しい。
 優しくなかったら、こんなふうに私と紅子について真っ直ぐに意見をくれるとは思えない。一番蝉の利益になる方法は、どう考えたって、このまま私をここで働かせ、いずれ時が来たら紅子のことも適当な理由をつけて働かせることなのだから。
 蝉は、意外そうに軽く眉を上げて見せた。
 「優しい?」
 「はい。」
 「あんた、騙されやすいタイプだね。壺とか賈わされないように気をつけなね。」
 ふざけたような蝉の物言い。
 私は泣きたくなって、ぎゅっと胸元で両手を握り合わせた。
 「私、ここを出ます。紅子のことは、紅子と話し合って決めます。……紅子になにも言わないで、蝉さんのところに来たのが傲慢でした。」
 そう、と蝉は涼しい素振りでそれだけ言った。
 私は蝉に深々と頭を下げ、立ち上がった。
 紅子の肩をゆすり、目を覚まさせ、話さないといけないことがある。
 気は重かった。確かに。それでも、今ならそれが出来ると思った。
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