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一章 バレエ・リゥス (ロシアバレエ団)

11. パリの春に

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 巡業が終わってパリに戻ると、時はもう春になっていた。
 町はまだ寒さを残しながら、灰色の川は水をたたえて流れ、木々の芽が顔を出す準備段階にはいっていた。
 ぼくは観光客がまだ少ないセーヌ川沿いをうきうきした気持ちで歩いていた。

 ぼくの心が騒いでいるのは、長い巡業が終わって、久しぶりのパリに戻ってきたからだけではないだろう。ぼくはニジンスキー兄さんに会いに行くところなのだ。

 この先、どうすればよいのかわからない。
 でも、ぼくはこれから、毎週のように彼のところに出かけるのだ。ロシア語で話をすれば、ともにバレエのレッスンができるようになるかもしれない。
 注文しておいたウクライナのパン、コラックを受け取りに行き、そこから歩いて彼のアパートに向かっていたのだ。

 巡業中に、あの夜のニジンスキーのことはディアギレフとよく話し合った。
 最初に見た時、動物みたいだった彼が、ロシア語で話しかけていたら、みるみるうちに自分を取り戻したのだ。その時のことは、飽きずに何度も何度も話した。

「本当に、どんな治療をされてきたのでしょうか」
「周囲には、ロシア語で話せる者が誰もいなかったのだろう。ロシア語で、ひんぱんに話しかけなきゃだめだ」
 この話題になると、ディアギレフはいつもいらいらした。
「奥さんはどうなのですかね」
「ロシア語を話せるわけがない」
「奥さんはロシア人ではないのですか」
「違う。ハンガリー人だ」
「ハンガリー人のバレリーナですか」
「バレリーナなわけがない」
 彼の口調は荒々しくなり、これ以上訊いたら、彼の血液は怒りで沸騰してしまうだろうと思った。

 ぼく達はニジンスキーをあのままにしておくわけにはいかないと切実に思った。でも、ことはそう簡単にはいかないのだ。妻のロモラという壁があるのだ。

 大胆不敵なディアギレフにしても、このロモラという女は相当手ごわい相手なのだ。そのことが、ぼくには不思議でならなかったのだが。

 ところがぼくがあの白いアパートを訪ねていくと、その部屋にはもう誰も住んでいなかった。アパートの管理人にに尋ねてみると、今年の初めころ、マダム・ニジンスキーが帰ってきて、みんなを連れて、どこかへ移っていったと言った。ほかのことは何も知らないし、答えられないという。
 音と色が消えた景色の中で、ぼくはひとり、アパートの前で、呆然と立ち尽くしていた。
 
 どうして、どうして、どうして。
 ぼくは何度もそう繰り返しバレエ団に帰り、ディアギレフにそのことを伝えた。
 彼もニジンスキーがまさかパリからいなくなるとは思ってもいなかったから、ショックを受けて、頭を下げ、「おお」と顔を覆った。
しばらくして真っ赤な顔を上げ、きっと自分が訪れたことをロモラが知って激怒し、どこか遠くへ移動したのだろう。やりそうなことだとディアギレフが言った。

「ニジンスキーが正気に戻って喋ったことを、ロモラは知っているのでしょうか」
「知るわけがない」
 ディアギレフは憤然としていた。

 あなたがどこに行こうとも、必ず会いに行きますかせね、とぼくは心に誓った。

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