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一章 バレエ・リゥス (ロシアバレエ団)
13. 二十歳のニジンスキー
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「ロモラは彼がちゃんと口をきいたことは知っているのかしら。また病院にいれて、隔離なんかしないといいけど」
とマダム・セールが言った。
マダムがロモラという名前を口にした時、その眉間には、刺さった棘を見る時のような皺ができた。
マダムは立ち上がり、棚の上から、一枚の写真を持ってきた。
ニジンスキーがどこかの庭で、東洋風の衣装を着て、両手を上にあげて、高く跳び上がっている写真だった。
「レ・オリエンタルズ」の「シャム人」の豪華な衣装を着ているのだとぼくにはわかった。
これはあのレオン・バクストがデザインしたものだ。彼もやはりディアギレフが見つけた天才で、あの「牧神の午後」の舞台美術や衣装も担当した。
「親愛なるミーシャへ、ヴァーツラフ・ニジンスキー」とサインがしてあった。
「これはね、ある午後、彼が自分で届けてくれたのよ」
とマダムがうれしそうに言った。
「ディアギレフに言われたのだとは思うけれど」
マダムは愛しそうにその写真を眺めた。
「あの時、彼はまだ二十歳でね、ああ、なんて美しかったこと。輝いていたわ。あのまま、とっておきたいと思ったわ」
その写真は一九一〇年の七月に撮影された。
バレエ・リュスはパリでの公演を一週間後に控えていた。画家のジャック=エミール・ブランシュが、ディアギレフとダンサー達を昼食に招待したのだった。
ロシア人のブランシュはパリですでに肖像画家として大成功しており、郊外に大きな屋敷を構えていた。ディアギレフは彼の絵をロシアの展覧会で紹介をした時からの知己で、彼もマダムのサロンにも出入りしていた。
その昼食にはディアギレフが、コクトーに写真家を連れてくるように命じてあった。その頃、コクトーはディアギレフの下で、さまざまな手伝いをしながら、舞台や脚本のことを学んでいた。
コクトーとニジンスキーは同じ年齢だが、友達にはならなかった。
コクトーは後年、ニジンスキーの教養のこと、身体つきのことを皮肉った文章を書き、彼の体型をあざ笑うようなスケッチも残している。ニジンスキーはコクトーについては、何も語ってはいない。
その昼食会の時、コクトーはロダンの作品を撮ったことのあるドゥルエという写真家を連れてきた。コクトーは付き合いがうまく、顔が広いのだ。ダンサーは舞台衣装をもってきており、ドゥルエはブランシュの邸宅で、十九枚の写真を撮った。だが、大半はニジンスキーを撮影したものだった。
その写真をもとに、後日、ブランシュは何枚ものニジンスキーの油絵を描いた。その中で一番サイズの大きなものが、一番できがよかったとマダムが言った。中国の風の金と黒が目立つ豪華な衝立の前で、金色と赤い衣装の彼がポーズをとっている。左手はタイ舞踊な指付きで、右手の爪あたりが横顔の下にあてられている。
「あの絵はほしかったけれど、英国の貴族に買われてしまったから、もう見ることができないわ」
マダムは残念そうに言った。
「ニジンスキーもマダムのサロンに来ることはあったのですか」
「いいえ。それはなかったの。私は来てほしかったから、誘ってはみたのよ。でも、彼はノンと首を振った。恥ずかしそうに」
「どうしてですか。マダムのサロンは誰もが憧れているのに」
「彼はシャイだし、フランス語ができなかったし、学校に行っていなかったことに劣等感があったのかもしれない。そんなことは、どうでもいいのに。高学歴があっても、何も知らない人は大勢いるわ」
その時、マダムはニジンスキーに訊いてみたという。
「本はお好きなのでしょう」
すると彼のシャープな目に穏やかな笑みが浮かび、十歳の子供のようにこくりと頷いた。
「アンドレ・ジッドもサロンに来ていますよ」とマダムが言った。
「ジッド?」
「ほら、『狭き門』」
ここまで言って、マダムははっとした。最近出版されたその本はフランス語で書かれており、彼はフランス語が読めないのだった。
「若い作家も来ていて、中には私をモデルにしている人もいて。まったくどんな小説になるのかしらね」
とマダムは話を逸らした。その若い人とは後に「失われた時を求めて」を書いたプルーストのことである。
「ぼく」
とニジンスキーが言った。
彼が何か言いそうな空気だったので、マダムは微笑んで、次の言葉を待った。彼の顔は東洋的で、ミステリアスな哀しさが漂っていた。
「ぼく、ドストエフスキーを、読んでいます」
ニジンスキーはか細い声で言ったが、マダムはそれを捕らえた。
「それはすばらしいわ。ぜひぜひ、サロンに来てくださいね」
その後、マダムは何度か招待状を送ったけれど、彼がサロンに現れることはなかった。博学で多弁なディアギレフがサロンの常連だったから、同席するのは気まずいのかもしれなかった。
マダムはニジンスキーに可能性を感じていた。踊る以外にも才能がある人だと思った。彼は芸術に深い興味をもっていたが、まだ充分な理解力が育っておらず、またそれをどう表現すればよいのか、わかっていなかった。マダムはこのおもしろい素材を育ててみたいと思った。パトロンの楽しみはここにつきるのだ。
たぶん、ディアギレフがニジンスキーをあれほど愛したのも、彼の中に、完成している天才の部分と、それとは反対の未成熟なところを見つけたからなのだろう。
マダムはニジンスキーを若い芸術家だけが集まる夜会にも誘ってみたが、そこにも顔を見せることがなかった。
たぶんディアギレフが、ニジンスキーが他人とかかわるのを好んでいなかったからだろう。
ディアギレフはニジンスキーにはいつも取り巻きをつけていた。それは格別に大切にしていたとも言えるし、見張っていたとも言える。いつもニジンスキーはひとりだった。
その話を聞いた時、思い当たることがあった。
ぼくには取り巻きはいなかったが、ディアギレフから、報道機関とは直接、話をするのを禁じられていた。また、他の人々と接するのを彼は不愉快に思っているとぼくは感じていた。彼の気分を害したくなかったから、誰とも付き合わなかった。だから、ぼくにも友達がいなかった。
ディアギレフが死んだ後、ぼくのところにはいくつものバレエ団から熱心な誘いがあった。彼らに会って知らされたことは、以前からバレエ団のいくつかがぼくのダンスに着目し、接触しようと試みてくれていたことだった。
正直、ぼくは自分がこんなに高評価され、求められているのを知らなかった。
とマダム・セールが言った。
マダムがロモラという名前を口にした時、その眉間には、刺さった棘を見る時のような皺ができた。
マダムは立ち上がり、棚の上から、一枚の写真を持ってきた。
ニジンスキーがどこかの庭で、東洋風の衣装を着て、両手を上にあげて、高く跳び上がっている写真だった。
「レ・オリエンタルズ」の「シャム人」の豪華な衣装を着ているのだとぼくにはわかった。
これはあのレオン・バクストがデザインしたものだ。彼もやはりディアギレフが見つけた天才で、あの「牧神の午後」の舞台美術や衣装も担当した。
「親愛なるミーシャへ、ヴァーツラフ・ニジンスキー」とサインがしてあった。
「これはね、ある午後、彼が自分で届けてくれたのよ」
とマダムがうれしそうに言った。
「ディアギレフに言われたのだとは思うけれど」
マダムは愛しそうにその写真を眺めた。
「あの時、彼はまだ二十歳でね、ああ、なんて美しかったこと。輝いていたわ。あのまま、とっておきたいと思ったわ」
その写真は一九一〇年の七月に撮影された。
バレエ・リュスはパリでの公演を一週間後に控えていた。画家のジャック=エミール・ブランシュが、ディアギレフとダンサー達を昼食に招待したのだった。
ロシア人のブランシュはパリですでに肖像画家として大成功しており、郊外に大きな屋敷を構えていた。ディアギレフは彼の絵をロシアの展覧会で紹介をした時からの知己で、彼もマダムのサロンにも出入りしていた。
その昼食にはディアギレフが、コクトーに写真家を連れてくるように命じてあった。その頃、コクトーはディアギレフの下で、さまざまな手伝いをしながら、舞台や脚本のことを学んでいた。
コクトーとニジンスキーは同じ年齢だが、友達にはならなかった。
コクトーは後年、ニジンスキーの教養のこと、身体つきのことを皮肉った文章を書き、彼の体型をあざ笑うようなスケッチも残している。ニジンスキーはコクトーについては、何も語ってはいない。
その昼食会の時、コクトーはロダンの作品を撮ったことのあるドゥルエという写真家を連れてきた。コクトーは付き合いがうまく、顔が広いのだ。ダンサーは舞台衣装をもってきており、ドゥルエはブランシュの邸宅で、十九枚の写真を撮った。だが、大半はニジンスキーを撮影したものだった。
その写真をもとに、後日、ブランシュは何枚ものニジンスキーの油絵を描いた。その中で一番サイズの大きなものが、一番できがよかったとマダムが言った。中国の風の金と黒が目立つ豪華な衝立の前で、金色と赤い衣装の彼がポーズをとっている。左手はタイ舞踊な指付きで、右手の爪あたりが横顔の下にあてられている。
「あの絵はほしかったけれど、英国の貴族に買われてしまったから、もう見ることができないわ」
マダムは残念そうに言った。
「ニジンスキーもマダムのサロンに来ることはあったのですか」
「いいえ。それはなかったの。私は来てほしかったから、誘ってはみたのよ。でも、彼はノンと首を振った。恥ずかしそうに」
「どうしてですか。マダムのサロンは誰もが憧れているのに」
「彼はシャイだし、フランス語ができなかったし、学校に行っていなかったことに劣等感があったのかもしれない。そんなことは、どうでもいいのに。高学歴があっても、何も知らない人は大勢いるわ」
その時、マダムはニジンスキーに訊いてみたという。
「本はお好きなのでしょう」
すると彼のシャープな目に穏やかな笑みが浮かび、十歳の子供のようにこくりと頷いた。
「アンドレ・ジッドもサロンに来ていますよ」とマダムが言った。
「ジッド?」
「ほら、『狭き門』」
ここまで言って、マダムははっとした。最近出版されたその本はフランス語で書かれており、彼はフランス語が読めないのだった。
「若い作家も来ていて、中には私をモデルにしている人もいて。まったくどんな小説になるのかしらね」
とマダムは話を逸らした。その若い人とは後に「失われた時を求めて」を書いたプルーストのことである。
「ぼく」
とニジンスキーが言った。
彼が何か言いそうな空気だったので、マダムは微笑んで、次の言葉を待った。彼の顔は東洋的で、ミステリアスな哀しさが漂っていた。
「ぼく、ドストエフスキーを、読んでいます」
ニジンスキーはか細い声で言ったが、マダムはそれを捕らえた。
「それはすばらしいわ。ぜひぜひ、サロンに来てくださいね」
その後、マダムは何度か招待状を送ったけれど、彼がサロンに現れることはなかった。博学で多弁なディアギレフがサロンの常連だったから、同席するのは気まずいのかもしれなかった。
マダムはニジンスキーに可能性を感じていた。踊る以外にも才能がある人だと思った。彼は芸術に深い興味をもっていたが、まだ充分な理解力が育っておらず、またそれをどう表現すればよいのか、わかっていなかった。マダムはこのおもしろい素材を育ててみたいと思った。パトロンの楽しみはここにつきるのだ。
たぶん、ディアギレフがニジンスキーをあれほど愛したのも、彼の中に、完成している天才の部分と、それとは反対の未成熟なところを見つけたからなのだろう。
マダムはニジンスキーを若い芸術家だけが集まる夜会にも誘ってみたが、そこにも顔を見せることがなかった。
たぶんディアギレフが、ニジンスキーが他人とかかわるのを好んでいなかったからだろう。
ディアギレフはニジンスキーにはいつも取り巻きをつけていた。それは格別に大切にしていたとも言えるし、見張っていたとも言える。いつもニジンスキーはひとりだった。
その話を聞いた時、思い当たることがあった。
ぼくには取り巻きはいなかったが、ディアギレフから、報道機関とは直接、話をするのを禁じられていた。また、他の人々と接するのを彼は不愉快に思っているとぼくは感じていた。彼の気分を害したくなかったから、誰とも付き合わなかった。だから、ぼくにも友達がいなかった。
ディアギレフが死んだ後、ぼくのところにはいくつものバレエ団から熱心な誘いがあった。彼らに会って知らされたことは、以前からバレエ団のいくつかがぼくのダンスに着目し、接触しようと試みてくれていたことだった。
正直、ぼくは自分がこんなに高評価され、求められているのを知らなかった。
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