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一章 バレエ・リゥス (ロシアバレエ団)

15.「牧神の午後」

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 パリオペラ座の「プロメテウスの創造物」の時、ぼくは客員として振付をして踊った。

 これはベートーヴェンが作曲した中の唯一のバレエ音楽で、ギリシャ神話がもとになっている。
 プロメテウスは天界の火を盗んで人間に与えた神として有名だが、ベートーヴェンの作品では、プロメテウスは泥で男女の粘土人形を作り、それに感情、理性を与えるというストーリーになっている。
 つまり、愛や理性がなくては、人は泥人形と同じだということである。悩んでばかりいるぼくにはうってつけかもしれなかった。
 このバレエは観客からも各新聞からも好意的な評価がもらえて、ぼくは正式の団員になることができた。
 
 オペラ座はもちろん、オペラのための劇場で、当時、バレエは週に一回だけ公演されていた。しかし、ぼくや他のバレエ・リウスにいたダンサー達が加わってから、確実に客足が伸びていった。そして二年後、ぼくはバレエマスター兼監督に任命された。
 
 監督になり、自分で演目を決めることができるようになった時、ぼくはニジンスキーが踊ったあの「牧神の午後」を取り上げようと考えた。
 あのというのは、あの「問題作」という意味だ。
 パリでは、あそこから、世間のニジンスキーに対する風向きが変わった。
 みんなの憧れだった「王子さま」、「薔薇の精」のニジンスキーが、卑猥な動物を踊ったのだから、彼らは大ショックを受けたのだ。
 期待と愛が多かった分だけ、拒絶と憎しみも多かった。

「牧神の午後」は、ラマルメの詩に、ドビュッシーが作曲し、美術と衣装はバクスト、そしてニジンスキーが初めて振付をした作品だった。

 そのストーリーはこうである。
 牧神はとろとろと昼寝をしている。若い牧神は目覚めると、喉の渇きを覚えて、そばにあった葡萄をむさぼり食う。
 喉の渇きが収まると、牧神は女性を欲する。
 すると、そこに七人のニンフがやってくる。
 牧神はニンフをひとりひとり誘ってみるのだが、誰も相手にしてくれない。
   六人は去るが、ひとりのニンフだけが残る。このニンフ役は妹のニジンスカが演じた。
 牧神はチャンスがあるかと思い、鳥の雄のようにがつがつと求愛するのだが、ニンフは興ざめて去ってしまう。
 牧神はがっかりする。けれど、そのニンフがスカーフを忘れていったことに気づく。
 牧神はそれを拾いあげ、匂いをかぐ。
 そして、自分の場所に戻り、スカーフをニンフの代わりにして、ひとりで愛の行為をするのだ。

 一九一二年の初演では、最後に牧神が射精をするシーンが世間を揺るがした。
 それに、それまでジャンプやリーブで大人気だったニジンスキーが飛ぶシーンは、ただの一回だけだった。それも、軽く。
 ダンサー達は全員古代のギリシャのバス・リリーフ(浅浮き彫り)のように横向きで動くのだ。これがバレエかと観客が憤慨した。
 
 ニジンスキーの「牧神の午後」は大スキャンダルを起こしたが、人々の好奇心を誘い、ドイツの新しい劇場からの招待もあった。だから、一時的だったにしろ、営業的には成功で、切符は売れたのだ。
 
「牧神の午後」はニジンスキーが去った後も、バレエ・リュスの人気レパートリーとして、最後の性的に露骨すぎる部分は手直しされて、公演され続けた。人々は、これがあのニジンスキーの問題作なのかと思って鑑賞するのだった。

 しかし、今度のオペラ座では、ぼくはぼくなりの振付をするつもりなのだ。
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