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三章 パリオペラ座バレエ

30. セーヌのほとり

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 ロモラの書いた「ニジンスキー」はまだ半分までしか読み進めていなかったが、ぼく達はここでしばらく休むことにした。
 
 ぼくは七月のオペラ座公演のために「イカロス」の振付に専念しなければならなかった。
 オペラ座はオペラが主で、バレエはそれほど注目される存在ではなかったのだが、最近では人気が出てきて、週に一度のバレエ公演が二度になり、七月には毎日バレエ公演できるようにまでなっていた。だから、自分のレッスンだけではなく、ダンサー達を指導しなければならなかったし、それに、バレエの歴史について書きたいと思っていて、その勉強を始めていた。
 
 ぼくのほうが忙しいだけではなく、キリルにも事情があった。
 夏にはいとこの結婚式のためにスウェーデンに帰り、秋まで休みたいと言っていた。
 将来のことを深く、考えてみたいのだと。今は美術を勉強する意味がどこにあるのかわからなくなった。もう大学に戻らないかもしれないとも言っていた。
 彼が落ち込んでいるのは、アンリエットのことと関係があるようだった。
「でも、どんなことになっても、本は必ず最後まで訳して、送ります」
 と彼は約束した。 
 
 数日後の夜、ぼくはマダム・セールから招かれていた。
 ぼくが数日前に相談したいことあるから伺ってもよいかと電話をした時、それなら、夕食にどうぞと言ってくれたのだった。その時、ぼくはキリルも連れていきたいと思った。このパリで美術を専攻している学生なら、マダムに会いたいに決まっている。パリ最後のよい思い出になるかもしれない。
 マダムに訊いてみると、快く連れてきなさいと言ってくれた。

 そのことをキリルに伝えた時、彼は大げさなほど喜んだ。
「どんな格好で行けばよいのでしょうか」
 そういうとこにも、彼の育ちのよさが表れていた。なにげないマナーにも、若者らしく大口でかきこんだ時にも、彼のしぐさには品があった。

 当時、キリルはアンバリッドの裏手にあるアパルトマンに住んでいたので、一度着替えに帰った。
 ぼく達はアレクサンドル三世橋で少し早めに待ち合わせて、柔らかい春の風を感じながら、ゆっくりと歩いて行った。川沿いには恋人達があちらこちらにいて、ふたりだけの世界を楽しんでいるように見えた。でも、ぼく達には無縁の風景だった。
 
キリルが「ミラボー橋」の詩を口ずさんだ。

「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる
ぼくらの恋も流れていった
思い出さずにはいられないんだ
苦しみの後に、喜びがあったってことを

日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる

手をつないだまま、顔を見合わせて
キスをしたよね
その時も、橋の下では
悠久の退屈な時が流れていたんだ

日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる

愛は流れて、川のように行ってしまう
ぼくらの愛も行ってしまった
きみのいない人生の刻〈とき〉はのろく
望みだけが大きい

日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる

日が過ぎて、週が過ぎ、
過ぎた時間も、
失った恋も、もう戻ってはこない
ミラボー橋の下、セーヌ河は流れる

日が暮れて、鐘が鳴る
時は流れ、ぼくはここにいる」

 その詩と声はこの風景に合っていて、いや、これほどぴったりなセーヌを見たことがなかったから、ぼくは内心とても感動していた。

「いいね」と言ったら、
「ぼく、アポリネールの詩が好きなんです」
 と、今度は「マリー」の詩を口ずさんだ。

「ここはきみが少女みたいに踊っていた場所
マクロットダンスで、跳んだり回ったり
きみはおばあさんになっても踊るのだろうね
マリー、きみはいつ帰ってくるの

人々は仮面をつけたように黙っている
いつも聴こえていた音楽だってかすかで
遠い空から流れているみたいだ
そう、ぼくはきみを愛したかったんだ、でも、うまくは愛せなかった
今でも、きみを思うと甘く切ない

羊みたいな雲が流れている
銀のような羊の毛の房、きみの髪のようだ
しっかりとした足取りで兵士が歩いて行った
ぼくもあんなふうに生きられたらね
諦めようとしたり、きみなしではだめだと思ったり
この心がどうなっていくのか、ぼくにはわからない

きみがどこへ行こうとしているのか、わからない
泡立つ波みたいな髪のきみ
きみがどこへ行こうとしているのか、わからない
きみの心はまるで秋の葉っぱ、
約束だってちりぢりばらばら、風に飛んでいった

ぼくは今、古い本をわきに挟んで、
セーヌの河岸を歩いている
川の流れはぼくの悲しみと似ていると思う
川の流れには終わりというものがないのだから
やっと一週間を持ちこたえたけれど、こんな日々はいつまで続くのだろうか」

「朗読の才能あるなぁ。すごいよ、キリル」
 ぼくが感心したら、キリルは照れて微笑した。

 キリルという青年はぼくが考える以上に繊細で、悲しみ、苦しみの中にいることを感じた。何も受け止めてあげてはいなかった。ぼくはキリルを愛しいと思い、彼がスウェーデンに行ったまま戻ってこないかもしれないという現実に気がついて、うろたえた。

  キリルが花をもっていきたいと言うので、花屋に立ち寄ることにした。
「どんな花が好きなの?」
 とぼくが訊くと、
「白百合が好きです」
 彼は間髪入れずに答えた。

 彼は花を選ぶために腰を曲げていたが、その振り返った顔には、動物園に行く時の子供みたいな笑みが浮かんでいたから、ぼくもうれしくなって微笑み返した。
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