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三章 パリオペラ座バレエ

34. キリアンとの出会い

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「薔薇の精」の公演の後で、キリルが楽屋に会いにきた時、その同伴の女性を見て、ぼくは言葉が出なかった。
 たぶん頭の中が混乱してしまったのだろう、目の前で何が起こっているのか、夢なのか、現実なのか、わからなくなった。狂ってしまったような気がした。ぼくは何分くらいぽかんとしていたのだろうか、周囲に誰がいたとか、覚えていない。きっと馬鹿に見えていたことだろう。
 
 こういう不思議な瞬間を、ぼくは経験したことがなかった。
 なぜなら、そこには、ぼくの理想の女性が、輝くように立っていたのだから。

 話に聞いていたアンリエットはブルネットだったが、目の前の女性はブロンドだったし、想像していた女性とはずいぶん違うと思った。
 それもそのはず、彼女はアンリエットではなかった。アンリエットのほうには先約があったので、キリルは三つ年上のいとこのキリアン・ニンベルグを連れてきたのだった。

「キリアンさん、男性ですか」
 ぼくは女性を目の前にして、阿保な質問をした。

 男性によくある名前ですよねと言うはずだったのに、いや、そんな質問もよくない。レディに対して、そもそもそういうことは言うべきではないのだ。最初から、赤恥の失敗をしてしまった。

 キリアンという女性は、シャネルの白いシンブルなワンピースを着ていて、それが彼女のために作られたのではないかと思うほどよく似合っていた。

「『薔薇の精」、ぜひ観たいと思っていました。『薔薇の精」は私がまだ幼かった頃、はじめて見たバレエです。大好きなの。オペラ座の券が売り切れていて手にはいらないので、諦めていたところでした。ありがとうございます。すばらしかったです」
 花束を抱えたキリアンが、完璧なフランス語で言った。この一族は語学に長けているようだ。

「メルシー」
 ぼくはそう言ったとは思うが、それ以外、ぼくはなんと応えたのか覚えていないし、自分の言葉は思い出したくもない。わかっているのは、ましなことは、何ひとつも言わなかったということだ。
 
 ぼくは長いこと、こういう女性が現れるのを待っていたような気がする。その人にようやく巡り合えたのだけれど、すでに手の届かない遠い女性なのだった。キリアンは来月、スウェーデンで結婚することになっていた。

 
  引っ越したばかりのアパートに帰り、夜が深くなってきた時、ぼくはようやく冷静さを取り戻し始めた。裸足でキッチンまで歩き、蛇口をひねって水の音を聞いた時、キリアンが重大なことを言っていたのを思い出した。ダンサーなら、このことを一番に思い出すべきだった。
 キリアンは子供の頃に、モナコで、ニジンスキーの「薔薇の精」を見たと言ったのだった。
 そうだ、その時、ぼくはとっさに、「舞台の端から端まで跳びましたか」と訊いたのだった。
「ええ。端から端まで、跳びました。魔法のように」

 ぼくは今日からは、誰が何と言っても、ニジンスキーが舞台の端から端まで、いっきに跳んだことを信じる。
 ああ、もっとバレエのことを聞くべきだった。あれもこれも訊けばよかったという後悔が、雪崩のように襲ってきた。
 
 そんな自分に、ぼく自身が驚いていた。それまでは、何よりもバレエが一番先にきていたのに、今夜はそれを上回る存在があった。
 
 ぼくの中で、シャネルがキリルに言った言葉が蘇った。
「その恋が実っても、実らなくても、その女性はあなたにとって大事な方だわ」
 

 翌日、キリルは、昨夜のぼくが滑稽なくらいあたふたしていたと、彼にしては珍しく、皮肉な口調で言った。
「そうだったかい」
 ぼくは平静を装いながら、内心は狼狽えていた。ああ、昨日を描き変えることができたら、どんなにかいいのに。

「なんか、恋に落ちたような顔していましたよ」
 キリルが横目でぼくの顔を伺っていた。

「・・・実はそうなのだよ」
 とぼくははっきりと言った。真実なのだし、隠していても仕方がない。

「ぼくはキリアンのような女性が理想だったけれど、まさか存在しているとは思わなかったよ」
「キリアンのことは、何も知らないのに」
「そうだけどね。好きになるというのは、全部を知ったからとか、そういうことじゃないだろう。きみだって、アンリエットのことがあるから、わかると思うけど」
 ぼくの告白に、キリルはかなり動揺しているようだった。

「そんなに驚くことかい。人生には、そういうことはあるものだろう。キリアンは近く結婚するのだし、もう会うこともないだろう。でも、キリアンのような女性に少しだけでも会えたことに、ぼくは感謝したい気持ちなんだ。それだけだよ」
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