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三章 パリオペラ座バレエ

43. 衝撃のジャンプ

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 ぼくが白シャツと黒タイツに着替えて訓練室に行くと、彼は鏡の前の椅子に、上着を着て座っていた。
  その表情は病室にいた時よりも、柔らかくなっているように見えた。

 訓練室の壁は一面鏡で、その前にはバーが取りつけられていて、バレエの練習室に似ていた。

 ぼくは彼の前にいって、初歩のバーレッスンをしてみせた。
 すると、彼はぼくの足元を見て、足を見せてくれという仕草をしたので、足を前に出した。
 彼はかがんでぼくの足や足首を掴んで、筋肉を撫でるたり押したりしながら、うんうんと頷いた。ぼくは驚きながら、これはどういう意味なのだろうかと考えていた。周囲にいる医者たちは、ひそひそ声で何か言い合っていた。

 ぼくが立ち上がってダンスを始めた。
 すると、彼も立ち上がって、両手を開くポーズをした。鳥が羽根を大きく開くような美しいカタチで、バレエの訓練のない人にはできないものだった。
 そのポーズは、「薔薇の精」の途中で、女の子に挨拶する時のものだとぼくにはわかった。彼はあのダンスを覚えていたのだ。

 彼は革靴だったけれど、ぼくに合わせて、ピルエット、つまりつま先で回転してみせた。ぼくがフィニッシュする時には、それにも合わせてポーズをした。

 ぼくが彼とダンスで交流したこの感覚は、ダンサーのぼくだけのものだった。わずか五分足らずのダンスの共演は、ぼくにとっては永遠のモニュメントになった。

 ダンサーとダンサーの会話がそこにあった。
 ぼくはニジンスキー兄さんと踊ったのだ。
 ぼくが彼に向って、ありがとうございます、と左手を伸ばした時、彼は腰を曲げ、レヴェランス(お辞儀)をした。 
 

 人生の中で、人は語ることにより、またある人は音楽で、ある人は文字を通して、魂が触れ合うことがある。その出会いのために、生きていると言っても過言ではないだろう。
 人生に一度か二度しかないその交流が、その時、そこにあった。
 兄さんはぼくに最高のプレゼントをくれた、と思ったら、さらにすごいものが待っていた。 
 
 ダンスが済んだ後で、ニジンスキーは鏡を背中にして立っていたのだが、両手を翼のように平行にしたかと思うと、突然、ジャンプした。
 ぼくは驚いて、瞬きを忘れた。もしルーヴルのミイラが起き上がったら、たぶん同じような反応をしただろうか。

 ぼくは彼の有名なジャンプやリープについて知りたいと思っていた。本を書いた時、彼のジャンプを見た人が、彼が宙にしばらく浮いていたということも。
 どんなに訓練したダンサーでもアントルシャ、つまり宙に浮きあがりながら足を交差させるのは八回が限度である。ぼくも調子のすごくよい時でようやく八回。
 しかし、ニジンスキーは十回もできたという証言があるのだから、すごいとしか言いようがない。
 
 その彼が、今、ジャンプを見せてくれたのだ。
 彼はアントルシャをしなかったけれど、そのジャンプにはかなりの高さがあった。もう二十年以上も踊っていないというのに、インスリンの治療中だというのに、彼は飛んだ。
 
 衝撃。
  
 ぼくは興奮している医者に、翌週のパリ公演に彼を招きたいと申し出た。何かすばらしいことが起きるかもしれませんよ。交通もホテルもこちらで用意します。医者と看護婦の同伴ということで、いかがなものでしょうかと。
 しかし、ロモラから、自分の渡米中には、彼を病院から一歩も決して出してはならないと厳命されていたので、それはかなわなかった。

 別れの時、「またお会いましょう」とぼくが言うと、彼は哀しい瞳をして頷いた。いつか、彼ともう一度、踊ってみたいと思った。今度は、劇場の大きな舞台で、ふたりで踊りましょう。

 ぼくが、ニジンスキーが飛んだと言っても、証拠がなければ、誰も信じないだろう。しかし、その証拠はあるのだ。
 その飛んだ瞬間は、同行していた記者のブルーノ・モリスによってしっかりと捉えられ、その写真はアメリカの雑誌「ライフ」に載った。
 
 ひとりはオペラ座のプリンシパルダンサー、もうひとりはかつてのバレエ・リュスの花形ダンサー、「新旧の天才ダンサーの出会い」と宣伝されたこともあり、その記事は世界から注目された。
 
 多くの人はニジンスキーは死んでしまったと思っており、彼が生きていたこと。またバレエファンは、精神病院にいるはずのニジンスキーが再びジャンプしたというのだから、どちらも驚愕した。
 
 その日、スイスの病院とオペラ座には、世界中から電話が殺到した。 
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