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第五章 ニューヨーク

56. セントラルパーク

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  ニューヨークに滞在していても、ぼくは町を歩いたことがなかった。

 ニジンスカ先生が帰った後、ぼくはひとりで外に出て、メトロポリタン美術館に急いだ。キリアンがメトロポリタン美術館と現代美術館に行くように勧め、いくつかの見るべき絵画を教えてくれていた。地図を見るとそれほど遠くはないので、歩いたほうが早いと思ったのだが、歩き始めるとけっこう遠くて、タクシーを使えばよかったと後悔した。
 
 ようやくメトロポリタン美術館にはたどりついたものの、間もなく閉館になり、肝心の絵にたどり着くことができなかった。
 その絵というのが、ジョン・シンガー・サージェントの「マダムX」だった。キリアンはそれを見たら、おもしろい話をしてあげましょうと言ったのだった。
 それはその絵がパリでスキャンダルを巻き起こした話のことではなくて、「私の名前に関係あること」とヒントをくれた。もし見ることができたら、その感想を言って、楽しい時間を過ごせるはずだったのに、またチャンスを逃してしまったようだ。
 ぼくは汗をかきながら走ったけれど、そんな努力は実らなかった。キリアンのことになると、いつもそうだ。いつもはしないようなヘマをやらかしてしまうのだ。それはなにか、ぼくらしいと思った。

 ぼくはセントラルバークに行ってみようと思った。
 八月のニューヨークはむしむしと暑く、さまざまな人種の人々が自分の行く方向を目指して歩いていた。誰もぼくのことを注目する人などいなかった。なんで一週間も、ホテルでびくびくしていたのかと思った。
 店々には電気がついていて、明るく、角ごとに花屋があり、色とりどりの花が売られていた。バリにも、これほどの花屋はない。ニューヨークの人はロマンチックなのだろうか。自分が自由に歩きながら、他の人々が歩いているのを見るのは、とても楽しいことだった。
 
 町の中の大きな緑の森、セントラルパークはすぐだった。
 セントラルパークは本当にセントラルにあるのだとわかった。ぼくはこの有名な公園を歩いてみたいと思っていた。
 広大な公園の周囲には大きなビルが立ち並び、ビルの窓からは灯が見えた。四角い窓の中では、どんな人が、どんな暮らしをしているのだろうか。中には暗い部屋もあった。ウォールストリートなどで、まだ働いているのだろうか。ぼくは緊張から解放されて、旅の終りの日に、初めて旅をしている気分になった。

 ぼくは昨夜の舞台を思いだしたり、今日の先生の言葉を繰り返したりしていた。ぼくはうれしくなって両手を広げて叫ぼうとした時、通りの人がぶつかってきそうなり、思わず現実に戻った。まだ恐怖は残っている。さあ、調子にのるのはここまでだ。何事も起きないうちに、ホテルに戻って荷造りでもしたほうがよいだろう。
 
 その時、白いベンチに黒い髪の女性が、頭を垂れているのが目にはいった。その髪は上半身を覆うくらい豊満で、彼女は顔を両手で抑えて泣いているようだった。その時、横に薄黄色のジャケットの青年が、彼女の肩を抱いた。
 この珍しい色のジャケットは、今朝、キリルが着ていたものだった。

 その夜、ぼくが帰り支度をしていると、キリルがやって来た。 二ュ―ヨークに生気を取られたのか、すっかり疲れた様子だった。
 彼はここにしばらく滞在したいから、休職にしてはもらえないだろうかと頼んだ。
 ぼくはセントラルパークで彼を見かけたことを話し、そのことと関係があるのかと訊いた。

「はい。それもあります」
 キリルは少し考えてからそう答え、少しおいてから、「それが理由です」と言い直した。

「彼女はもしかして、きみが好きだったアンリエットではないのか」
 そのことは、その時、急に思い浮かんだのだった。

 キリルは怖いものを見てしまった子供のように躊躇って目を伏せてから、心を決めたようにぼくを見た。
「よくわかりましたね、セルジュは一度も会っていないのに。そうです、アンリエットです」

 アンリエットはキリルが二十代のはじめ頃、一途に思っていた画学生だった。
「ニューヨークに残って、どうするつもりなんだい。クララが待っているじゃないか」

 キリルは数年前から、クララというかわいい女性と幸せに暮らしていたはずだった。クララはキリルがモンテカルロで体調を崩して入院した病院のナースだった。シングルマザーで、四歳のリサというおしゃまな娘がいた。クララはふたつ年上で、明るくてよくしゃべり、とても面倒見がよかった。
 クララは料理が得意で、ぼくも何度か招かれた。

 しかし、いつだったか、クララはこんなことを言ったことがある。
「キリルが誰かを死ぬほど大好きだったことは知っているわ。でも、彼女と結ばれなくて、本当によかったと思うのよ。こんながさつな私でよかったのよ。彼女の魅力にはかなわないかもしれないけれど、その彼女と一緒になっていたら、キリルはその彼女と心中していたかもしれないから」

 その時、キリルは軽く横に首を振ったが、言葉では否定はしなかった。
  その後、クララはパリの病院に転職し、一緒に住んでいたので、ぼくはふたりがそろそろ結婚するのではないかとばかり思っていた。

「クララのことはよいのです」 
「いいって、どういうことだい」
「もう一緒には住んでいませんから」
「いつから」
「三ヵ月前から。クララは強い女性だから、ひとりでやっていけます」
「ひとりで生きていけるからいいとか、そういう問題ではないだろう。無責任じゃないのかい」

「クララはもうモンテカルロに戻って、前の病院で働いていますよ。あちらがぼくに嫌気がさして出ていったのだから、仕方ないでしょう。ぼくは、結局、誰からも、好かれない人間なのです」
「そんなことない。キリル、きみは魅力的で、才能豊かな人間だよ」
「セルジュがそう思ってくれるのはありがたいけれど、女性がぼくをどう見るかは、別問題じゃないですか」
「そうかなぁ。ぼくが女性なら、」
「いいのですよ。愛されなくても、愛することはできますから」
「アンリエットのことをまだ愛しているのかい」
 キリルは頷いて、アンリエットが今、苦境の闇の中にいるのだと言った。
「そんな人を置いて、帰ることはできませんから」
 
 アンリエットは美術コレクターで実業家の米国人と結婚したのだった。パリでその彼がアンリエットの絵を買ってくれたのがきっかけで、付き合うようになったという。しかし、アンリエットはアメリカで暮し始めて、すぐに結婚が間違いだったと気づいた。離婚してフランスに帰りたかったが、娘のミッシェルが生まれた。それで、我慢してきたのだけれど、もう限界なのだ。けれど、夫には敏腕弁護士がついていて、八歳になる娘を外国に連れ出すことは裁判所から禁じられている。無理に連れ去ろうとすれば、逮捕され、親権が奪われると警告されている。
 
 キリルはアンリエットの離婚手続きを手伝いたい。アンリエットが不幸になったのは自分のせいなのだ。だから、できるかぎり償いたいと言った。

「どうしてきみの責任なんだい。きみを振ってアメリカに去ったのは彼女のほうだろう」
 ああ、とキリルの目が狼狽えた。
「男女の仲って、そういう単純なものではないじゃないですか」
 ぼくにはそういう微妙な経験が欠けているから、よくはわからない。まあ、そういうものなのかと了解することにした。

 ぼくの心には何やら不安の雲が漂っていたのだが、約一月後、キリルは意外なほど吹っ切れた顔で、元気にパリに戻ってきた。そして、取りつかれたように仕事を始めた。取り越し苦労とはこのことだとぼくは思った。
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