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第六章 パリ

61. 暗い川

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 どうすればいい、どうすればいいとぼくは自分を失い、ただあたふたして、寒さで震えた。キリアンはその場にしゃがみこんだ。
 
 今こそ、ぼくがしっかりしなければいけないのだ。
 空回りしていた思考が急に止まって、川だと思った。
「キリルを捜しに行く。まだ間に合うかもしれない」
「どこへ」
「川へ」

 ぼくはホテルを出て、まだうす暗い道を、来たのとは反対のほうに歩いていった。そちらに、エスコ―川があるはずだ。三十分くらい歩いていく間、犬が一匹ついてきただけで、人には誰も会わなかった。時刻が時刻だから、無理もない。川の重い存在感のようなものを感じたとたん、川が見えた。思ったよりも大きな男性的な川だった。
 川のそばに男が数人集まっているのが見えた。恰好からして釣り人だろう。ぼくはそこまで走っていった。ぼくの顔を見るひとりの目に恐怖があった。

「何かありましたか」
 ぼくはおそるおそる訊いた。どうか違っていますようにと祈りながら。
「若者が飛び込んだ」
 なまりの強い釣り人が答えた。
 やっぱり。ぼくは硬直した。
「いつ」
「二十分くらい前だろうか。今、警察を呼びに行っている。助けようとしたけど、流れが速すぎて、みるみる流されていった」

 ということは、ぼく達が到着した時には、キリルはまだ生きていたのだ。もっと早く駆け付けるべきだった。でも、まだ助かるかもしれない。ぼくは川に飛び込もうとして、釣り人ふたりに押さえつけられ、転んだ際に足を挫いてしまった。でも、足のことなんか、どうでもいい。
 
  捜索隊は来てくれたが、午後の二時になっても、キリルを見つけることはできなかった。ぼくは一度、パリに帰り、千秋楽を見届けてからまた来るとキリアンに言った。キリアンは ひとりではいられそうにないから、一緒に帰ると言った。そして、白い蝋のような顔をして、車に乗り込んで、震えながらぼくにしがみついた。

 その日も、その次の日も、キリアンが見つかることはなかった。
 キリルが消えてしまった日から、キリアンはひとりでは過ごせなくなった。誰かがそばにいないと、恐怖で、呼吸さえも困難になるのだ。医者からもらった薬で夜を超しても、早朝に、また怖れがやってきた。悲しみで胸が硬直し、呼吸ができなくなるのだった。

  ぼくはできるかぎりキリアンのそばにいることにした。ぼくがいると、キリアンの不安が少しは減るようだった。それは、ぼくも同じだった。ぼくは精神的にも、仕事上でも、キリルが占めていた大きさを知り、時には、パニック状態になって立ちすくんだ。ぼくにとっても、キリルこそが、心の友だった。
 これまでも、離れていたことはあったが、帰る可能性があるとないとでは、次元が違う。

 悲しみというのは、乗り越えられるものではないとわかった。この悲しみとどうやって共存していけばよいのか、それを見つけなければならなかった。ぼくの心の中には風に揺れる紙がぶらさがっていて、表には「キリル、なぜだ」、裏には「キリル、ありがとう」と書かれている。それがくるくると回り続けていた。

 キリアンは悲しみの沼底から這いあがれずにいた。世の中の人が自分より辛い悲しみを乗り切っているのに、なぜ自分はこうなのか。誰よりも弱い人間なのだと嘆いた。なぜキリルの悲しみをわかってあげられなかったのか、と自分を責め続けていた。

 キリアンが精神分析医のところに行ってみたいと言った。知人から紹介された医者のところに連れて行くと、彼はその「怖れ」のもとを突き止めようと、「それはなぜ」、「それはなぜ」という質問を重ねていった。その結論は「結局のところ自分の死」を恐れているからということだった。
「私は、自分が死ぬことを恐れてはいないわ」
 帰り道で、キリアンがぽつりと言った。
「ただキリルのことを思うと、かわいそうでならないの。あの子は子供の頃に、こんな経験を何度もしていたのだわ。毎日、どんな思いで生きていたのかしら。人生で、どんな楽しい時があったのかしら」
 
 ぼくはキリアンに、医者通いはやめようと言った。薬も減らしていこう。ふたりで、この悲しみの時間を、どう過ごせばよいのか、考え続けよう。
 時間が過ぎるとともに、気分がおだやかになっていっている、ように感じる時がある。今日は大丈夫と思う時がある。
 しかし、キリルがいないのだという現実を思い知らされて、ますます辛い時がある。哀しみのリバウンドときたら、暗い闇だ。もう出られる気がしない。愛する子供を亡くした親もいるのだから、自分たちも耐えて、出口を探さなければならないのに。
 考え方を変えてみたら、この重い苦しみの岩の下から逃れられるものなのだろうか。ぼくにも、キリアンにも、そういう考え方は見つけられなかった。

 ぼく達は特別な話をしなくても、暖炉の前で、ただ背中を合わせていただけでも、とにかく、その夜は超すことができた。
 こうやって、一日、一日を過ごしていくしかない。
 朝になると、虚しさと哀しさに押されながら、ぼく達は頷き合った。ベッドから出て、服を着て、朝食をとるのだ。そして、仕事に出かける。
 それがカタチだけだとしても。カタチからはいれば、心もついてくるかもしれない。
 目の前のことだけを見つめて、なんとか、夕方まで生きてみよう。明日のことは、明日、考えよう。
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