ぼくと「薔薇の精」 ~ 天才ダンサーの物語 ~

第七章 それから

72. 筆者追記

　一九八六年にリファールが亡くなった時、妻はその墓碑に「キエフのリファール」と刻んだ。それが彼の望みだったから。

　彼はその亡くなる三年前には、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与された。何度も、フランスから市民権を提供されていたが、彼がそれを受け取ることはなかった。彼はただ「キエフのリファール」と墓に刻んでほしいと遺言に記したのだった。

　二〇〇五年の一月二十日、ロモナ・ニジンスキーの墓が掘り返されて、そのお棺が夫の隣りに移された。彼女がパリで亡くなってから、二十六年の月日がたっていた。親戚がモンマルトル墓地に集まり、ロモラがついに愛する夫の隣りで眠ることになったことを祝った。
　その墓地の所有権は、スイスに暮らしているリファールの未亡人にあったのだが、彼女が一年前に許可を与えたのだった。
　リファールの死後、未亡人は二十年間、墓地を譲ることを拒否し続けた。しかし自分の死期が近くなったことを感じて、譲る決心をしたのだった。
　
　リファールの未亡人は夫の死後、申請してあったビザが下りて、キエフを訪れることができた。彼女は黄金のシューズと、祖国を出る時にもってきたあの血まみれのシューズを持って行った。そして、首には、ママ―シャのアカイスカーフを巻いていた。

　リファール夫妻の墓はパリから三十キロほど離れたサント・ジュヌヴィエーブ・デ・ポワのロシア人墓地にある。あのルドルフ・ヌレエフ（１９３８～１９９３年）もここに埋葬されている。ヌレエフはニジンスキーの再来と言われたカリスマダンサーで、ソ連から亡命後、八十年代にはオペラ座バレエ団の芸術監督にもなった。

　

　もう一つ書いておこう。
　一九九七年に、タイム社が「レジェンド、二世紀でもっとも忘れられない顔」というハードカバーの大型本を出版した。
　そこに選ばれたのは、黒人運動のキング博士、ガンジー、南アフリカのマンデラ、ヒトラー、チャーチル、毛沢東、シャネル、チャップリン、JFケネディ・オナシス、オーソン・ウェルズ、ビートルズ、アインシュタイン。オードリー・ペップバーン、サルトル、チェ・ゲバラ、アンなど、二百人余り。このそうそうたる顔ぶれの中に、ニジンスキーの姿がある。
　そこに載せられているニジンスキーのモノクロ写真は、バレエ・リュスのパリでの公演を一週間後に控えていた二十歳の夏、画家のジャック＝エミール・ブランシュの庭で撮られたものである。
　そこにはロダンの次のような言葉が添えてある。
「ニジンスキーは古いフレスコ画や彫刻にあるのと同じ美を持っていた。彼はすべての画家や彫刻家が憧れる理想的なモデルなのだ」
　

　クラシックバレエへの貢献度でいったら、リファールのほうが何倍も上なのだが、彼の名前はそこにはない。
　ニジンスキーがダンサーとして輝いていたのはわずか三年しかないが、彼には「牧神の午後」がある。当時は軌道を逸していると激しく非難され、彼が失脚する原因にもなった作品。
　しかし、この「牧神の午後」は、今では、モダンバレエへの架け橋であると考えられている。どの世界にも殉教者がいるが、ニジンスキーもそうだったのだろうと筆者は思う。


 　今、人々はユーチューブで、ヌレエフやミハエル・バリシニコフの「薔薇の精」を簡単に観ることができる。なんという便利な世の中になったのだろう。動画の中で、彼らは多くのジャンプやリープをしている。なんと見応えのあることか。またヌリエフのように比較的背丈のある男子ダンサーが、薔薇の精を柔らかく踊っているというのもおもしろい。
　筆者はそれを眺めながら、ニジンスキーのダンスを想像する。彼は舞台の端から端まで、リープする。




　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 了





主な参考文献
Ballet Traditional to Modern by Serge Lifar
NIJINSKY BY Romola Nijinsky
Mia Vie by Lifar
Diaghilev and friends by Joy Melville
Theatre Street by Tamara Karsavina
Fokine by Vitale Fokine