罪状は【零】

毒の徒華

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第2章 絶対的な力

第25話 涙の跡

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【ノエルが旅立った日の午後】

 彼は相変わらず具合が悪そうにぐったりとベッドに入ってうなだれていた。

「ゴホッ……ゴホッゴホッ!」

 激しく咳き込み、胸を押さえて苦しそうな表情をするが、彼の背中をさする手は差し伸べられない。
 いつも咳き込むと慌てて彼にかけよって心配そうな表情をするノエルがいないと、家の中は随分静かなものだ。

 ――こんなに静かな家だったか……

 彼がそう考えながら、重い身体を起こし、やっとの思いで水を飲もうとするが、ベッドの近くに置いてある入れ物にはもう水は入っていなかった。
 いつもすぐに水の替えを持ってくるノエルがいないと細かな部分で何もかもが不便だ。

 ――退屈すぎて死にそうだ

 魔女が支配していたときは、退屈なんて存在しなかった。
 常に魔女に怯え、そして苦汁を舐めさせられ、服従させられ、弄ばれてきた。それを思い出すと彼は苛立ちを隠せない。
 ノエルが吸血鬼の若者と繋がっていたことも、彼の中で酷い苛立ちに変わっていった。ノエルは自分だけに傅き、服従し、心を砕く筈(はず)なのにと考える度にイライラが抑えられなくなってしまう。

 ――なんだよ、俺に隠れて魔属なんかと。殺されたっておかしくねぇのに

 彼は自分の知らないノエルが許せなかった。何もかも、包み隠すことなく、全て自分のものだと確信していた。
 それでも、ノエルは出会う前のことは話したがらない。魔女に捕らえられていたくらいだから、相当酷い扱いを受けてきたのだろうと彼なりにそこは立ち入らないようにしていた。

 ――それに……町の外になんて……

 コンコンコン。

 扉を叩く音が聞こえて彼は勢いよく身体を起こした。

 ――諦めて帰ってきたのか?

 期待を胸に扉を開けると、そこには恰幅のいい白衣を着た初老の男性が立っていた。町で医師をしているカルロス医師だ。

「やぁ、元気そうじゃないか」
「……ちっ……うぜぇんだよ」
「ノエルちゃんに君を診てくれと頼まれてるからな。大人しくしてくれよ」

 カルロス医師は彼が許可をしていないのに家に入った。その手には薬や果物などが入った籠を持っている。

「ノエルちゃんは物凄く心配していたぞ。君のことも勿論心配だが、私はノエルちゃんの方がずっと心配だよ」

 籠から中のものを取り出しながらカルロス医師は話続ける。

「町の外に出るなんて……魔女にでも見つかったら……」
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ。さっさと帰りやがれ」

 カルロス医師が口に出したことは、勿論彼も深く理解していた。不安と払拭しようと躍起になっているところに、油を注ぐように再度連想させるカルロス医師に彼は苛立った。
 手際よくカルロス医師は聴診器や自分の手を使い彼を触診し、様子をうかがった。
 初めはおとなしくしていた彼も、男の手で身体を触れられて気分を早々に害し、医師の手を振り払った。

「俺は男には興味ねぇんだよ。もういい。帰れ」
「悪態をつく元気はあるようだが、しかし身体は相変わらずのようだね」
「ふん……」

 虚勢を張っても、医師にはお見通しだ。
 見透かされて言い返す言葉も出なかった。

「俺はあとどのくらい生きられるんだ」
「……なぁ、そういう言い方はよさないか。ノエルちゃんは君の為に一生懸命仕事をして、家事をして、研究をして、あまつさえ命をかけて町の外に出て行ったんだ。生きる希望を持ちなさい」
「随分あいつを買い被っているようだな? てめぇの老いぼれたオンナよりもあいつのほうに興味が沸いたのか?」

 カルロス医師は眉間にシワを寄せて彼を見た。
 息を深く吐き出しながらカルロス医師は軽く首を横に振った。

「呆れるよ。とっかえひっかえ女を連れ込んで、ノエルちゃんを大切にしていないことなんて町の人間全員が知ってることだ。魔女の館から連れ帰られたあの子を気味悪がる人が大半だけど。それでもノエルちゃんは君の為に反論一つせずに尽くしているのに、まったく――――」
「うるせえ!!」

 ガシャン!

 大きな音を立てて机の上に置いてあった聴診器が床に弾き飛ばされる。
 彼は異形のような険しい顔をしていてカルロス医師を睨みつけ、敵意を露わにした。

「俺とあいつの何が解るんだよ!? 解ったような口をきくな! さっさと出て行け! 二度と来るな!!」

 感情に身を任せそう怒りを爆発させ荒れ狂う彼に、カルロス医師は恐怖よりも憐れみを感じていた。

「……君は……確かにもう長くないだろう。だが、だからこそ、残りの人生は後悔のないように生きなさい」
「聞こえなかったのか!? 失せろ!!」

 追い出されるようにカルロス医師は彼の家を後にした。
 医師が出て行ったあと、彼は頭を抱えてベッドに座り込んだ。

 ――君はもう長くないだろう

 その言葉が重く彼にのしかかる。自身でも知っていたことだが、実際にそう他者に告げられると絶望的な気持ちになる。

「畜生……」

 魔女から解放されて、やっとこれから人生が始まるっていうときにこんな状況で彼は酷い絶望感を感じていた。
 夜の帳|《とばり》が下りて辺りはすっかり暗くなっていた。明かりをともしてくれる人間はいない。自分でつけなければずっとこのまま暗い。
 彼は出て行ったノエルのことを考えていた。戻ってこないかもしれない。いくら魔族がついていたとしても、魔女の力は強大だ。
 それにあの吸血鬼が敵に回って殺されるかもしれない。
 何もかもが信じられない。

「本当は……俺に愛想が尽きて出て行ったんだ……俺なんか……」

 彼は泣いていたノエルの顔を思い出した。
 彼のことを一心に考え、どんなことでもしてくれる。一番に自分のことを考えていてくれているはずだ。
 彼の不安を上から塗りつぶすように、いくつもの思い出が浮き上がっては光となって彼を包み込んだ。
 その温かさに手を伸ばそうとすると、それはフッと蝋燭の火のように消えてしまった。

「……早く帰って来いよ……」

 彼の消えそうな声は、彼女に届くことなく闇に呑まれた。




【1日後】

「ねぇ、大丈夫なの?」
「うるせえ、黙ってろ」
「ふふ、可愛い人」

 ろくに会話もなく、女性がするりと自分の服を滑らかに脱いでいく。笑みを浮かべながらベッドに腰かける彼に近寄りその柔らかな唇を落とした。
 彼も自身の指を彼女の肌に滑らせる。

「もう、がっつかないでよ」
「黙っていろ」

 彼はノエルのことを考えていた。
 目を閉じて身体に触れると、まるでノエルに触れているような気持になった。体型もノエルに似ている女を選んできた。
 ノエルがいない不安を飲み込めない。日に日に強くなっていくばかりだ。仮の女に気持ちが逸れている内は、まだ幾分か落ち着いていられる。
 彼は女の首を噛んだ。

「痛……っ」

 彼は女の痛がる声がノエルの声でないことを嫌でも感じざるを得なかった。
 目を開けて女を見ると、やはり女はノエルとは似ても似つかない女がそこにいる。
 ノエルの白い肌とは違う日焼けしていて荒れている肌に、指通りの悪い黒い髪、純粋さのない笑み、積極的に彼に指を這わせるその卑しい態度。
 全てがノエルと違った。

「…………」
「どうしたの? あたしは大丈夫。痛いのも……興奮するわ」

 女が彼の下半身に触れようと指を服の中に入れようとしたとき、彼は女の手を振り払った。

「もういい、帰れ」
「は? なんでよ。これからでしょう?」
「ちっ……俺は帰れって言ってんだ。てめぇみたいなブス、相手にできるかよ」
「はぁ!?」

 女は激昂し、自分の服を乱暴に掴んで家から出て行った。

「クズ野郎!」

 そう吐き捨てて。
 女が出て行った後、彼は自分の頭をため息をつきながら抱えた。
 再び静寂が戻る。
 誰もいない家はいつも不安になる。それでもノエルが帰ってくれば落ち着いていられる。
 静寂の中ではいつも嫌なことを思い出す。

 ――お前なんていてもいなくてもいいのよ。お前の代わりいなんていくらでもいる。生かしてもらっていることに感謝しなさい

 背中の燃えるような痛みを思い出す。屈辱を受け続けた日々。

「…………なにしてんだ、俺は……」

 窓から差し込む月明かりをぼんやり見ると、青く部屋の中が照らされていた。
 そこに花瓶に挿された花が月光を反射して白い花弁が眩しく光っている。何枚も折り重なっている花びらはまだ咲ききっていない。
 確か、毒のある花だからと言ってけして触れさせなかったものだったと彼は記憶していた。
 吸い寄せられるようにそれに近づいて、を見つめた。幹の部分にはけして触れさせないようにという花の強い意思を感じる鋭い棘がいくつもついていた。

 ――これは、棘の部分に強い毒があるんです。危険なので触らないようにしてください

 そんな物騒な花をなんで花瓶に挿しておくのかと彼は思ったが、花に興味のない彼にはどうでもいい話だった。
 彼はそれを思い出しながら、その花に手を伸ばした。
 もうどうでもいいと投げやりになっていた。
 誰もいない。
 もう、自分には何もない。

 ――このまま病に苦しみながら死ぬなら、いっそのこと……

 花に触れる直前、その隣に置いてある大量の紙に視線を奪われた。その紙にはびっしりと文字が書いてある。神経質な字で紙の隅から隅まで化学式や、植物の絵、聞いたことのないような物質の名前が書かれている。
 全てノエルが彼の為に研究した成果をまとめたものだ。どれを読んでも彼には理解できない難しいことばかりだ。
 紙をめくっているとすっかり花のことは忘れていた。

「…………」

 ベッドにその紙の山を持って行き、一つ一つに目を通し始めた。

 ――これはご主人様の身体に合わないようだ。ご主人様はこの系統の草には拒絶反応が出るらしい。咳止めには有効な成分が入ってるが、これでは使えない

 ――山にある薬草は粗方全て試した。あとはこれらから成分を抽出し、合成して使うほかない。ただ、合成するためには機材が必要だが……先生の研究室に適したものはあっただろうか

 一枚一枚それをめくって行くと、彼はノエルの自分への為にどれほど努力しているかを強く感じ取った。
 寒い季節も、暑い季節も、いつでも研究を続けている後姿を彼は見てきた。
 それをまためくって行くと、紙の後ろに何か走り書きをしているのが目に留まる。

 ――どうしてご主人様の身体は良くならないのだろうか……彼は僕の全てなのに……

 そう書かれている紙は他の紙とは異なり、少しよれていることに気づいた。まるで水をこぼして、それが乾いたかのように紙が波打っている。
 それが何か、彼は解った。
 解った瞬間、先ほどまでの自分の愚かさに背筋が凍り付く。

「泣き虫が……」

 紙をその辺りに放り出し、彼は眠りにつくことにした。
 先ほどまでの絶望的な気持ちはなくなったが、やはり不安はぬぐえなかった。

「帰ってこなかったら、浮気するからな……」

 いつもなら「捨てないでください」と不安げな顔で、本気で捨てられるのを心配して目を潤ませながら懇願してくるが、そうしてくる彼女はここにいなかった。
 その様子を見ると彼は何よりも満たされた気持ちになる。
 演技ではなく、本気で捨てられることを恐れていることを彼は知っていた。
 知っていていつもそう意地悪を言っている。
 離れるわけがないと確信しているからこそ、そう言える。

 その姿を思い出すと、彼はなかなか眠れなかった。
 やけに静かで明るい夜だった。


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