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第4章 奈落の果て
第105話 蟠り
しおりを挟むあんなおかしな魔女は初めて見た。
私のことを無償で、自らの危険を顧みず受け入れた。
私を身を呈して守ってくれる者など、弟以外にはいなかった。
私はこちらにいたときには自分は十分強いと思っていたが、ノエルはそれ以上に強い。しかし、まだ見た目に相応の精神的な未熟さがある。
自分がリゾンに痛めつけられていたときも、契約した私の身の方を案じて心を痛めてくれるような、優しい心の持ち主だ。
「あれは私が守ってやらないといけない。お前のような発情した獣族のように品性のないオンナに興味はない」
そう吐き捨てるように言うと、エルベラは顔を真っ赤にして怒り始めた。
怒り始めるのも無理はない言い方をしたが、こんなことで怒りに感情を染め上げ、敵意をむき出しにするところはノエルと全く違う。
――吸血鬼族ともあろうものが、こんな低級の獣族のような有様では……
「ふざけないで!! 私の申し出を断るなんて、正気じゃないわ! あんな魔女の奴隷に成り下がって恥ずかしいと思わないの!?」
私は“正気じゃない”か。
いつも私がノエルに言っていた言葉を、私が言われる日がくるとはな。
「恥ずかしいのはお前の方だ。その節操のない、だらしのない身体で私の前に現れるな」
エルベラは魔術を展開した。
私を殺すつもりだろう。
魔術が発動する前に、すぐさまエルベラの腹部に右の拳を叩き込むと、嗚咽しながら吹き飛んでいき壁に背中を打ち付けた。
「がはっ……」
「身の程を知れ」
私は腹部を抑えながら、蹲って動けなくなっているエルベラに背を向けてノエルの元へと歩いた。
そう遠くへ行ってはないはずだ。
エルベラは私を追いかけてこなかった。
正確に言うならば、追いかけてくることができなかったと言った方が正しいだろう。
私はその道中、今までの色々なことを思い出していた。
いつ頃からだろうか、私はノエルと仕方なく共にいるわけではなくなっていた。
初めは解らなかった。
私を助けた事、他の魔族をこちらに返したこと、人間に混じって生活していること、力を使おうとしないこと、私を服従させないこと、人間の男に入れ込んでいること、やけに他者に優しくすること…………
きりがないほどの疑問があったが、どうにも煮え切らない答えばかりでまったく理解できなかった。
せっかく生かされた命だ。
魔女に復讐してやろうということしか考えていなかった。
考えの甘いとしか思えないノエルは、ただの肩書だけではなく強大な魔力や魔術の才能があることを知ることになる。
これならば私にふざけた実験をした魔女どもを皆殺しにできると期待したものだ。
復讐したい私の気持ちを理解しつつも、ノエル本人は積極的に魔女を殺すことはなかった。激情に駆られたときや、正当防衛の範囲内での殺しはしていたが、殺しが楽しくてやっている様子は一度たりともなかった。
特に魔女の街では魔女も強く、魔術の才のない私はノエルに頼りきりになってしまった。
情けない気持ちに支配されたが、あれほどの強い魔女たちを何人も相手にして、尚且つ街一つを吹き飛ばせるほどの魔力を見たら、自分とは次元の違うところに生きている者だと思わずにいられなかった。
――ガーネットは……僕のこと殺したい? 契約をしていなかったら殺してる?
自分の気持ちの変動に、ノエルの質問でうすうすは気づかされた。
大した日も重ねていないがノエルに対しては他の魔女に抱くような憎しみの感情を抱かないことくらいは分かっていた。
魔女に殺されかけていたのに、魔女に命を救われたことに自分の中ではどうしようもない蟠りがあったが、ノエルは他の魔女と違うのだと理解することでそれは解消した。
誰かと話し合うなんて方法はとってこなかった私にとっては、話がいつまで経ってもまとまらないことや、ただ普通に話すということですら初めてのことだった。
もどかしさもありながら、暴力や暴言でねじ伏せ押し通すのとは違う解決方法があるのだと知った。
自分の誇りよりも、今の僅かな幸せを守ろうとするなんて考えたこともなかった。
――……ねぇ、“好き”ってどういうことか解った?
あの時、ほんの少しは理解していた。
ノエルと一緒に居ても不快感はなく、どこか心配で気にかけてしまう自分がいた。
あの小さな町で魔女と対峙しているときに、あんなときですら人間の男を気にする気持ちは理解に苦しんだ。
それでも探してきてほしいという願いを受けて私は人間を探しに行った。
あの時のあの男は、他の女の匂いをいくつもさせていたが、ノエルを心配している様子に偽りはなかった。
――過去―――――――――――――――
「あいつは!? あいつはどこにいるんだ!?」
「私についてこい」
「ぐずぐずするな! さっさと案内しろ!」
「おい! あいつの元へ行くな。安全な場所に――――」
「もういい、てめぇなんか!」
――現在―――――――――――――――――
偉そうな人間だった。
大した力もないくせにやけに態度が大きい。それを見て私は苛立った。
人間と2人で閉じ込められていたときに、そう気持ちの蟠りは強くなって行った。
強い絆で結ばれているノエルとあの男の関係は私には理解できなかった。だが、この男からノエルを奪い取ってやろうという気持ちがほんの少し芽生えた。
それは、その男への嫌悪感からきた感情なのか、あるいは別の起源のものなのかは分からない。
その最中、ノエルは魔女と何か取引をした。
無事では済まないと直感的に解ったが、それでもこのお人よしの魔女を信じてみようと考えた。
魔女の街へ向かう中、半ばあきらめていた弟の話をノエルが話した。こともあろうか魔女どもは弟とノエルを交配させようなどと下衆なことを考えていたのだ。
そのとき薄々気づいた。
私は弟のことでも怒っていたが、ノエルを弟にとられたような気がして怒りを感じたのだと。
今は私と契約しているのに――――
と考えなかったと言えば、嘘になる。
結果として交配していないと聞いた私はホッとした。
弟が「兄弟を助けて」と言っていたことを、ノエルが覚えていたときは驚いた。弟が生きている可能性の話も、私は嬉しく感じた。
弟の言っていたことを気にかけていたから私を助けたのだろうかと考えると、なんとも言えない気持ちになった。
ずっと神経をすり減らし、安息のときなど一時もなかった私にとっては、ノエルを信じ、安息が得られた瞬間だった。
私はなかなか感謝の意を示せなかったが、それでも弟の件も、自分の件もあり、やっとの思いで「感謝している」と言ったが、どうにも気恥ずかしく礼を言うのは苦手であった。
そんな私の不器用で乱暴な感謝の言葉でも、ノエルは微笑んで受け入れてくれた。
――しっかりしろ。ノエル
初めて名前を呼んでやったとき、ノエルは心なしか嬉しそうにしていた。
そのときに初めてノエルのことを「綺麗な顔をしている」と感じた。
そしてそれと同時に、ノエルが想う主とやらに今まで感じていた敵意とは、また別の敵意を感じた。
その敵意から、私はその主とやらの知らないノエルを知っている私は優越感すら感じたのだ。
この人間とノエルの間に、具体的な何かは存在しない。私との契約と違って何もない。
だからノエルの気が変わればこの人間を見捨てるだろうと考えていた。
弱い人間などよりも、強い者を選ぶ。
それが自然の摂理だ。
そう思っていた。まだ私は人間や魔女の感情を理解しきっていなかった。
だからこそ、白い治癒魔術を使う魔女との取引内容を聞いたときに「力で抑え込め」と言った。それができるほどの実力があるのに、なぜそうしないのかと。
ノエルはぼんやりとしているところがあり、何を考えているか解らないが重要な部分はきちんと考えている様だった。
魔女に命を代償に取引をしていたと知ったときは、さすがにそういう作戦なのかと思いたかったが、何を考えているか解らないノエルは本当に命を差し出して人間を救おうとしているようにも見えた。
――無差別に殺したりはしないよ。僕を怒らせない限りはね
その言葉は、恐ろしく感じた。
ノエルの主に魔女が手を出そうとしたら、今まで見たことがないほど怒っていた。
――ふざけるとこうなるってこと
生首を持ち上げて、血まみれで言っているノエルは確かに怒っていた。
これが本性なのかと思ったが、しかしノエルはやはり殺すという行為は話し合いの後にするような奴であった。
それにお人よしなのは相変わらずだ。
その不安定な両面性は、一見安定しているようで不安定であった。それは見捨てられるのではないかという恐怖心からくる、子供じみたものだ。
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