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最終章 来ない明日を乞い願う
第189話 名前
しおりを挟む「そんなもん……解りたくねぇよ……大義があれば死なせる理由になんのかよ……」
「お前ごときが想像もできない程の大義だ。いいか!? ここにいる者たち全員、ノエルを一度は引き留め――――」
「リゾン、クロエ……ありがとう。そんなに怒らないで」
2人は懇願するように僕が見ると、顔を背けて歯を食いしばる。
シャーロットやキャンゼル、アビゲイルは泣き続けることしかできなかった。キャンゼルはクロエの服を引っ張ってご主人様から遠ざけようとする。
クロエも他に沢山言いたいことがあるようだったが、僕の言葉に彼は押し黙る。
「少し、2人で話をさせてほしい。すぐ戻るから」
世界を繋げる歪みは、まだもう少し閉じる気配はない。
少しの間なら大丈夫だ。
僕はご主人様の手を取って、人気のない少し離れた場所へ移動する。
その間、彼は何も言わなかった。
少し離れたその場所で、僕はご主人様の顔をしっかりと見た。
よく見ると服にもそこかしこに砂がついている。
汚れているのも気にせず、僕の方を見ている。
「…………やっと名前……呼んでくれましたね……」
そう切り出すと、ご主人様はいたたまれない表情になり、それを隠すように僕を再び抱きしめた。
「いくらでも呼んでやる……だから……今からでも考え直せ……」
何の駆け引きもない素直な言葉だった。
ご主人様にそう言われても、僕は覚悟を鈍らせることはない。
もう決めた事だ。
命を賭けて決めたことをそう簡単に覆したりできない。
「………………ご主人様、1つ、最期に聞きたいことがあります」
「最期って……俺の話聞けよ! なんで……そんなこと言うんだよ!?」
「お願いします……どうしても聞きたいことなんです」
話がお互いに一方通行だったが、それでも主人様は僕のその問いかけに耳を傾けてくれた。
「……なんだ?」
「ご主人様のお名前、教えてください。僕にも名前を呼ばせてください」
ずっと教えてくれなかった名前をせめて教えてほしい。
ご主人様は僕の言葉に躊躇い唇を噛み、僕を抱きしめる腕に力が入る。
その様子は僕には見えなかったが、長い沈黙に聞いてはいけないことをきいてしまっただろうかと不安に駆られる。
視界に入る彼の銀色の髪を見つめる。
やけに長く感じた数秒の沈黙の後、やっとの思いで彼は口を開いた。
「俺には…………名前がない」
――え……?
その言葉に、僕は返す言葉を失った。
彼の傷ついているような声に更に僕は狼狽する。
あまり過去のことを詮索することはしなかったけれど、確か魔女に育てられたと言っていた。
それでも生みの親はいる。
生き物は勝手に生まれてくるわけがない。
親に名前をあたえられなかったのだろうか。
様々な思考が錯綜する中、それでも町の人間には名前がついていたことは事実だ。
「カルロス医師や……他の人たちは……?」
「あれは自分で名乗ってるだけだ。魔女に出生も死も何もかも管理されていた俺たちは、名前なんてない」
「そんな…………」
彼は一度、僕を抱きしめるのをやめて僕の顔を見た。戸惑っている僕の顔を見て、彼は誤魔化すように弱く笑った。
「お前がそんな顔する必要ない。まぁ……俺を育てた魔女には……『0《ゼロ》』と呼ばれていた。ただの番号だがな」
それ聞いたとき、僕は自分の『罪』を鮮明に自覚した。
いくつもの思考が一つに収束する。
そのゼロというものは、何もないという意味もありつつも、しかしその全てを担っている数字、記号、言葉だ。
そう呼ばれていた彼は町の人間たちに無き者にされていたものであり、何も持たざるものであり、しかし僕の全てであったもの。
「ゼロ様……」
僕が犯してきた罪は“零”だ。
僕はなにもしてこなかった。
怠惰とは違う。全て解っていても何もしようとしなかった。
彼の為に生きて、彼の為に死のうとした。
僕は外界の問題の何もかもをなかったことにした。
実験されている魔族たちのことにも目を閉じた。
抵抗することをやめて、何もかもを魔女に委ねてしまった。
しようと思えば逃げ出すこともできたのに。
しようと思えばガーネットの弟を助けることもできたのに。
なにもしようとしなかった。
自分の呪われた運命のようなものに呑まれてしまっていた。
――人間が定めた9つの大罪……
セージが殺されたというのに憤怒で復讐をするでもなく、
傲慢さを捨て、ただ奴隷という立場に身をやつし、
強欲に求めることもなく彼以外何も望まず、
彼の幸せの為なら嫉妬さえも切り落とし、
食事も最低限にして暴食することもなく、
彼にいくら抱かれても、色欲をたぎらせ僕から彼を求めることはなく、
虚飾を吐くでもなく、ただ真実を黙し続け
憂鬱に陥ることもなく彼の為と願って尽くし続けた。
――そっか……
僕の罪は、彼そのものだった。
ゼロとは『無』。
僕は進みだすことを恐れて、零でいようとした。
また失ってしまうよりは何も持っていなくていいと願ったことそのものが、僕の罪だった。
「ゼロ……それは、番号でも、特別な数字です」
「名前じゃない……」
「僕は……上手く……言えないですけど、ただの番号ではないと思います。沢山の意味のある言葉ですから。無機質な記号なんかじゃありません」
「………………」
「僕は、番号の“0《ゼロ》”ではなく、お名前として“零”様と及びしてもいいですか?」
僕が笑って見せると、ご主人様は唇を震わせながら、懸命に泣かないように保っている様だった。
「あぁ……好きにしろ……」
僕はご主人様の顔を見つめ、その顔に手を当てた。
美しい顔、銀色の髪、大好きな瞳。
「あなたが僕の全てだった。あなたしか、僕にはいなかった……あなたがいないと……生きられなかった。あなたがいなくなったら、僕は生きる意味すら見失ってしまった」
ご主人様から、堪えきれなかった何度も何度も涙が滴り落ちる。
言葉にならない声で、言おうと必死になっている。
「あなたがいない世界なんて、見たくも……考えたくもなかった。あなたがいない世界こそ……僕には無だった…………」
その涙を僕は指ですくう。
「……あなたは僕の罪そのものです……ゼロ様」
ゼロ様は涙をすくう僕の指を自分の手で優しく握った。
暖かく柔らかい感触がする。
「でも、僕には大切なものがたくさんできたんです。あなたの為だけじゃない。この世に生きる全ての為に僕は命を払うんです。どうか、解ってください」
今までの楽しかった思い出が、つい昨日のように感じる。
ゼロ様は僕の手を掴んだまま、首を横に何度も振る。「いくな」と、言葉ではなく目で訴えてきた。
手を離すと、ゼロ様は声を殺して涙を流し続ける。
あまりにも痛々しいその姿に、僕はどうしていいか解らなくなってしまった。
「ごめんなさい……僕…………もう行かなくちゃ」
少し背伸びをして彼の唇に口づけをした。
その口づけは涙の味がして、より一層悲しみを深くさせているようだった。
「お別れですね……ご主人様……ゼロ様……最期に、僕の名前を呼んでくれませんか?」
僕は再び魔女の心臓の魔術を展開する。
心臓に再びその魔術式が僕の心臓へと伸びてくる。
それをゼロ様は泣きながら必死で止めようとするが、再びリゾンとクロエに取り押さえられた。
「ノエル! ノエル!! 逝くな!! 俺の言う事が聞けないのか!?」
「目を逸らさずに見ていろ……」
「ふざけんな! 放せ!! ノエル!!!」
あのとき、この人に助けられてよかった。
もっと一緒にいたかった。
もっといろんな話もしたかったし、いろんなことを一緒にしたかった。
――いつも気を遣ってばかりだったけど、もっと我儘も言えば良かったかな……
「こんなに愛されているなら……もっと早く、気づけば……よか……った……――――」
意識が遠くなってくる。
もう僕に後悔はなかった。
ゼロ様が僕の名前を呼んでいる激声が聞こえる。
――もっと僕の名前を呼んでください。あなたに呼ばれない名前なら、名前がないのと同じだから
あぁ……だからか。
――あなたは自分に名前がないから、頑なに誰の名前も口にしなかったんですね…………
最期の愛する人の顔を目に焼き付けて、僕は彼の名前を呼ぶ声を聴く中
永遠に意識を手放した。
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