パーフェクトワールド

木原あざみ

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第二部

パーフェクト・ワールド・レインxx ①

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[xx]


 思えば、予兆はいくらでもあった。
 ひとつめは、ずっと服用していた薬をはじめて切らしたこと。もうひとつは、手元に新しい薬が届くまでに予想外の時間を要したこと。
 そうは言っても、中等部で三年間やりすごせてきたのだから、今回もきっと大丈夫だと高を括っていたこと。
 たぶん、家に帰るべきだったのだ。その気があれば、簡単に理由は用意できる。薬が手に入るまで、自分の体調が万全だと思えるまで、身を潜めていればよかったのだ。
 逃げ出すようで腹は立つけれど、自分を本当に守りたいのなら、秘密を守りたいのなら、そうすべきだった。
 それなのに、なぜそうしなかったのか、なんて、答えは明白だ。いつのまにか、寮の先輩たちや同室者の存在に安心感を覚えてしまっていたからだ。
 彼らがいるのなら、大丈夫なのではないか、と、そんな甘えたことを。

「――行人。行人」

 熱い。苦しい。もう、すべてを吐き出してしまいたい。そうして、本能に委ねてしまいたい。身体の中心では醜い欲望がとぐろを巻いていた。
 そんな熱に浮かされた思考の中にも、その声はゆっくりと染み入ってくる。
 まるで、蜘蛛の糸だ。いつも自分を救ってきてくれた人の声。その糸に縋るようにして、行人は目を開けた。
 自分を下の名前で呼ぶのは、たったひとりだけなのだ。

「成瀬さ……」

 ぼやけた視界の焦点が次第に合い始める。心配そうな瞳を認識した瞬間、緩慢だった思考がじわりと動いた。

 ――そうだ、俺……。

「すみませ……、俺」

 はっきりと覚えているのは、保健室に向かう途中で倒れかけたことだった。アルファの気配を感じたのと同時に、オメガの本能に呑まれそうになって。そして。

 ……あれ、じゃあ、なんで。

 まともに動き出すようになった頭が、新たな疑問を導き出す。じゃあ、なんで、こんなに近くにアルファのこの人がいても、俺は大丈夫なんだろう。

「行人」

 静かな呼びかけに、抱いたばかりの疑念が沈んでいく。
 そうだ、そんなことはどうでもいい。この人がそばにいてくれたら、それで――。

「安心していいよ。もう寮の中だから」

 その言葉に、現状を把握しようと行人は試みた。寝かされているベッドは自分のものではない。けれど見覚えはあった。
 成瀬の部屋かもしれない。

「薬、飲める?」

 なんの疑問もなく、水と一緒に手渡された薬を受け取ったところで、ふいに思考が停止した。またじわじわとおかしさが広がっていく。

「なん、で」
「そこまで副作用や効果に大きな違いはないと思う」

 この人が、問いかけの意味をわからないはずがない。だから、明確に否定されなかったことが答えだった。
 第二の性にまつわる薬は、処方箋がなければ手に入れることはできない。担当医にかかり、診断を受け、そうしてようやく服薬を許可されるのだ。例外は誰にもない。
 だから、たとえば、水城に事情を話して手持ちの薬をわけてもらった、だとか。
 たとえば、誰も知らなかったけれど、実はこの人につがいがいて、そのつがいのオメガからもらった、だとか。
 そうであれば、よかった。そうだったら、よかった。
 感情のコントロールがまったくできなくて、じわりと涙が浮かぶ。駄目だ。こんなことを言ったら、駄目だ。わかっているのに、自制の利かない唇から謝罪がこぼれ落ちていく。
 その言葉がどれほどプライドを傷つけるか、誰よりも自分が一番理解できるはずなのに。
 壊れたレコーダーのように「ごめんなさい」と繰り返す行人の頭に、そっと手が伸びてくる。しかたないなと宥めるように。撫でてくれる手の温もりは、今までとなんら変わらなくて、とうとう涙がこぼれてまった。シーツに染みをつくっていく。

「飲んで。そうしたら、きっと少しは落ち着くから」

 なんでそんなふうに優しくしてくれるのだろう、とずっと思っていた。

「大丈夫」

 なんで自分なんかを気にかけてくれるのか、ずっと不思議だった。

「行人がひとりになりたかったら、絶対に誰もここに入れない」

 すっかり聞き慣れてしまった優しい声が紡ぐのは、三年前と同じ台詞だった。三年前も、自分はこの人に救われた。

「でも、もし誰かを呼んでほしかったら、言って」

 けれど、続いた台詞は三年前とは違っていた。優しいようでいて、残酷な選択。誰かという言葉に導かれて浮かんだ顔に、疼きが走る。
 これは、オメガの本能だ。手のひらの上の薬を見つめたまま、唇を噛む。アルファに貫かれたい。アルファのものになりたいと願い誘う、本能。

「……成瀬、さん」

 やっとの思いで薬を飲み込んで、その名を呼ぶ。あとどのくらいで効くのか自分でもわからない。わからない、でも。
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