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第三部
パーフェクト・ワールド・エンドⅠ ④
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「あのな、成瀬」
どこか言い聞かせるような調子で、茅野が口を開いた。
「言いたいことは、俺もわからなくはない。たしかに、三年前と今とは違う。でもな、今おまえが退いてみろ。ここは、榛名たちにとって地獄になるぞ」
わかっていたから、うん、と頷く。ここにきて、退く気はない。それも本当のつもりだった。
三年前と決定的に違うものは、もうひとつあったけれど。
「大丈夫。わかってるから」
投げ出すようなことはしないと告げて、窓に目を向ける。ちらほらと登校する生徒たちがすがたを見せ始めていた。
その彼らを見つめたまま、成瀬は言った。
「それと、もうひとつごめん」
「なんだ。まだ俺に謝ることがあるのか、おまえは」
「うん。向原、生徒会やめると思う」
「そうか」
聞きたくないと言わんばかりだった声音が、淡々とした静かなものに変わる。また気遣わせてしまった。
「まぁ、でも、もともと俺が無理に引き込んで、それで付き合ってくれてただけだったし。向原は面倒を手放せて清々してるくらいだと思うんだけど。茅野には迷惑かけるかもしれないから」
「かもしれない、じゃなくて、もう十分にかけているだろう」
「そうだな、ごめん」
昨日の夜もそうだし、今もそうだ。階下に視線を向けたまま苦笑する。櫻寮のほうから歩いてきたふたつの影が目に留まったのは、そのときだった。遠目でもわかる。行人と皓太だった。
ふらりと窓辺に寄ると、「なんだ」と言いながら茅野も近づいてくる。ほら、と成瀬は視線で後輩たちを示した。
「よかった」
選んでくれたのなら、本当によかったと思うし、勝手だとわかっているけれど安心もできた。それが勝手に言葉になった。
皓太なら、大丈夫だ。
「本当に、おまえは……」
いかにも呆れたように呟いてから、茅野はこう続けた。
「俺には簡単に謝ってみせるくせに、あいつにはできないのか」
「うん。そうかも」
これも、べつに嘘ではなかったかもしれない。にこ、とほほえんでみせると、言っても無駄だと悟ったのか、それ以上の言及はなかった。
遅刻するぞ、という一言で茅野が歩き出す。行人たちが校内に入ったことを見届けて、成瀬もその場を離れた。
三年前は、あのときは、となりに向原がいた。決定的に、今とは違っていた。でも、もう戻れない。だったら、進むしかないのだ。ここをつくったのが、自分だと言うのなら。
気がついてなかったのだと言って笑えるほどの図太さは、さすがに持ち合わせていなかった。
でも、これでよかったんだよな、と本心で思ってもいる。
そう、よかったのだ、これで。見限ってくれて、よかった。なにを与えられたところで、自分には返せるものなどないのだから。
――本当にうぬぼれてたんだなぁ、とは思い知ったけど。
行き交う生徒が増え始めた廊下を生徒会長の顔で進みながら、内心で苦笑する。
自分を見下ろしていた、いかにもアルファといった嫣然とした笑み。俺の前であんな顔はしないと思い込んでいた。俺の前でだけは、そんな仮面は被らないと、そう。
それをさせたのは、ほかの誰でもなく自分だとわかっているけれど。
はじめて目が合った瞬間に、特別だとわかった。
自分にとっての特別、ではない。世界にとっての特別。アルファ優位のこの世界においても一番に愛されている、特別なアルファ。
自分がずっと求めていて、手に入れることのできなかったすべて。
羨んだことがないと言えば嘘になる。憎いと思ったことがないと言っても、きっと嘘になってしまうのだと思う。
成瀬は、生まれる前から「特別であること」を望まれた子どもだった。
父も母も優秀なアルファで、名門と称される成瀬の血筋に誇りを持っていた。だから彼らは、従姉弟同士で婚姻関係を結ぶことを選んだのだ。より濃く優秀な血統を残すためだけに。
オメガが生まれてくるとは、想像もしていなかったに違いない。父も母も生じた間違いを認めようとしなかったから、秘密を知る人間はごくごく限られていた。父と母と主治医、今は亡き母方の祖母の四人だけ。彼ら以外の人間にとって、自分はアルファなのだ。
オメガは恥じるべき存在なのだから、隠そうとした判断は間違っていないと成瀬は思っている。
いくら平等だと声高に叫ばれようとも、建前でしかない。差別主義者だと思われたくないから、そう言っているに過ぎないとわかっているからだ。
だから、成瀬はアルファとして生きてきた。アルファの仮面を付けてさえいれば、生きていくことを許されると思えたからだ。
その意地を、あの男はいつも冷めた目で見下ろしていた。言葉よりずっと雄弁に、おまえのどこがアルファなのだと告げていた視線。大嫌いだった。あんなアクシデントさえなければ、絶対にかかわらなかった。
そのはずだった計算がおかしくなったのは、あの夜からだった。あいつにとってひとつも得にならないような約束を交わして、――そうして、それを向原は守ってくれていた。
真摯だったのは自分じゃない。向原だったのだとわかっている。
――だから、しかたないよな。
いつかこうなるのではないかと思っていたことだ。そうであるはずなのに、心は落ち着かなかった。
それとも、向原の言うように高を括っていたのだろうか。あいつは絶対に自分を見限らない、と。
だとしたら本当に最悪だな、と思う。同時に、その最悪な男に何年も付き合っていてくれたのだな、とも。
――もう、五年か。
それだけの時間が出会ってから流れている。その時間のなかでいろいろなことがあった。気づかないふりをしてきたことも含めて。
最後に名前を呼ばれたのはいつだっただろう、とそんなことをふと思ってしまった。考えなくても、すぐに答えは出た。
中等部の三年生だったときだ。皓太たちが入学してきた、春のころ。あのベッドの上で、一線を引いた。引いたのは、自分だ。
――おまえが、俺になにかするわけないだろ。
ぜんぶ理解した上で、その言葉を成瀬は選んだ。昨日と同じだ。なにも答えることができなかったことが、すべてだった。
変わることはできないし、変わるつもりもない。この先も、アルファとしてひとりで生きていく。応えられるものなど、なにもない。
つがいを見つけたほうが幸せになれる、と行人に告げた気持ちに嘘はないつもりだ。オメガが生きていく方法のひとつであることは間違いがないし、いいアルファと出会うことができたら幸運だとも思う。
幸せになってほしいと願っているし、皓太と一緒にいるところを見て本当にほっとした。よかったと素直に思った。
同じ選択を自分自身がすることは、絶対にないだろうけれど。
どこか言い聞かせるような調子で、茅野が口を開いた。
「言いたいことは、俺もわからなくはない。たしかに、三年前と今とは違う。でもな、今おまえが退いてみろ。ここは、榛名たちにとって地獄になるぞ」
わかっていたから、うん、と頷く。ここにきて、退く気はない。それも本当のつもりだった。
三年前と決定的に違うものは、もうひとつあったけれど。
「大丈夫。わかってるから」
投げ出すようなことはしないと告げて、窓に目を向ける。ちらほらと登校する生徒たちがすがたを見せ始めていた。
その彼らを見つめたまま、成瀬は言った。
「それと、もうひとつごめん」
「なんだ。まだ俺に謝ることがあるのか、おまえは」
「うん。向原、生徒会やめると思う」
「そうか」
聞きたくないと言わんばかりだった声音が、淡々とした静かなものに変わる。また気遣わせてしまった。
「まぁ、でも、もともと俺が無理に引き込んで、それで付き合ってくれてただけだったし。向原は面倒を手放せて清々してるくらいだと思うんだけど。茅野には迷惑かけるかもしれないから」
「かもしれない、じゃなくて、もう十分にかけているだろう」
「そうだな、ごめん」
昨日の夜もそうだし、今もそうだ。階下に視線を向けたまま苦笑する。櫻寮のほうから歩いてきたふたつの影が目に留まったのは、そのときだった。遠目でもわかる。行人と皓太だった。
ふらりと窓辺に寄ると、「なんだ」と言いながら茅野も近づいてくる。ほら、と成瀬は視線で後輩たちを示した。
「よかった」
選んでくれたのなら、本当によかったと思うし、勝手だとわかっているけれど安心もできた。それが勝手に言葉になった。
皓太なら、大丈夫だ。
「本当に、おまえは……」
いかにも呆れたように呟いてから、茅野はこう続けた。
「俺には簡単に謝ってみせるくせに、あいつにはできないのか」
「うん。そうかも」
これも、べつに嘘ではなかったかもしれない。にこ、とほほえんでみせると、言っても無駄だと悟ったのか、それ以上の言及はなかった。
遅刻するぞ、という一言で茅野が歩き出す。行人たちが校内に入ったことを見届けて、成瀬もその場を離れた。
三年前は、あのときは、となりに向原がいた。決定的に、今とは違っていた。でも、もう戻れない。だったら、進むしかないのだ。ここをつくったのが、自分だと言うのなら。
気がついてなかったのだと言って笑えるほどの図太さは、さすがに持ち合わせていなかった。
でも、これでよかったんだよな、と本心で思ってもいる。
そう、よかったのだ、これで。見限ってくれて、よかった。なにを与えられたところで、自分には返せるものなどないのだから。
――本当にうぬぼれてたんだなぁ、とは思い知ったけど。
行き交う生徒が増え始めた廊下を生徒会長の顔で進みながら、内心で苦笑する。
自分を見下ろしていた、いかにもアルファといった嫣然とした笑み。俺の前であんな顔はしないと思い込んでいた。俺の前でだけは、そんな仮面は被らないと、そう。
それをさせたのは、ほかの誰でもなく自分だとわかっているけれど。
はじめて目が合った瞬間に、特別だとわかった。
自分にとっての特別、ではない。世界にとっての特別。アルファ優位のこの世界においても一番に愛されている、特別なアルファ。
自分がずっと求めていて、手に入れることのできなかったすべて。
羨んだことがないと言えば嘘になる。憎いと思ったことがないと言っても、きっと嘘になってしまうのだと思う。
成瀬は、生まれる前から「特別であること」を望まれた子どもだった。
父も母も優秀なアルファで、名門と称される成瀬の血筋に誇りを持っていた。だから彼らは、従姉弟同士で婚姻関係を結ぶことを選んだのだ。より濃く優秀な血統を残すためだけに。
オメガが生まれてくるとは、想像もしていなかったに違いない。父も母も生じた間違いを認めようとしなかったから、秘密を知る人間はごくごく限られていた。父と母と主治医、今は亡き母方の祖母の四人だけ。彼ら以外の人間にとって、自分はアルファなのだ。
オメガは恥じるべき存在なのだから、隠そうとした判断は間違っていないと成瀬は思っている。
いくら平等だと声高に叫ばれようとも、建前でしかない。差別主義者だと思われたくないから、そう言っているに過ぎないとわかっているからだ。
だから、成瀬はアルファとして生きてきた。アルファの仮面を付けてさえいれば、生きていくことを許されると思えたからだ。
その意地を、あの男はいつも冷めた目で見下ろしていた。言葉よりずっと雄弁に、おまえのどこがアルファなのだと告げていた視線。大嫌いだった。あんなアクシデントさえなければ、絶対にかかわらなかった。
そのはずだった計算がおかしくなったのは、あの夜からだった。あいつにとってひとつも得にならないような約束を交わして、――そうして、それを向原は守ってくれていた。
真摯だったのは自分じゃない。向原だったのだとわかっている。
――だから、しかたないよな。
いつかこうなるのではないかと思っていたことだ。そうであるはずなのに、心は落ち着かなかった。
それとも、向原の言うように高を括っていたのだろうか。あいつは絶対に自分を見限らない、と。
だとしたら本当に最悪だな、と思う。同時に、その最悪な男に何年も付き合っていてくれたのだな、とも。
――もう、五年か。
それだけの時間が出会ってから流れている。その時間のなかでいろいろなことがあった。気づかないふりをしてきたことも含めて。
最後に名前を呼ばれたのはいつだっただろう、とそんなことをふと思ってしまった。考えなくても、すぐに答えは出た。
中等部の三年生だったときだ。皓太たちが入学してきた、春のころ。あのベッドの上で、一線を引いた。引いたのは、自分だ。
――おまえが、俺になにかするわけないだろ。
ぜんぶ理解した上で、その言葉を成瀬は選んだ。昨日と同じだ。なにも答えることができなかったことが、すべてだった。
変わることはできないし、変わるつもりもない。この先も、アルファとしてひとりで生きていく。応えられるものなど、なにもない。
つがいを見つけたほうが幸せになれる、と行人に告げた気持ちに嘘はないつもりだ。オメガが生きていく方法のひとつであることは間違いがないし、いいアルファと出会うことができたら幸運だとも思う。
幸せになってほしいと願っているし、皓太と一緒にいるところを見て本当にほっとした。よかったと素直に思った。
同じ選択を自分自身がすることは、絶対にないだろうけれど。
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