203 / 484
第三部
パーフェクト・ワールド・エンド17 ⑤
しおりを挟む
自分の中に、こんな飢餓が眠っているなんて、知らなかった。想像もしていなかった。
なにもしなくていいと言ったのも、離れていってくれたら、期待なんてもうなにもしないでくれたら、楽になる。そう思っていたはずだった。それなのに。
知らないうちに詰めていた息を吐いて、踵を返す。校舎のほうにこのまま向かうのはまずいと思ったのだ。
危機を察知した本能に押されるように、来たばかりの道を戻る。恋なんて、絶対に自分はしないと思っていた。その自信があったから、なにを言われても馬鹿みたいな説諭だとしか思わなかった。
だって、もし、それを認めたら、自分は自分でなくなってしまう。不完全だと知っているから、見せかけだけでも完璧でありたかった。みっともない自分を曝け出したりはしたくなかった。あの男にだけは、絶対に。
対等でありたいと願っていた唯一でもあった相手にだけは、絶対に。弱みを見せて甘えるようなことは、死んでもしたくなかった。
――そうだ。絶対に、そんなことは望んでなかった。
そのはずだったのに、その箍が何度か外れかけていたことを成瀬は知っている。だから、怖かった。だから、そばになんていたくなかった。
オメガとしての幸せなんてものも、考えたことはないはずだった。自分にとって、一番意味のないものだったから。
はず、はず、とみっともない言い訳を繰り返しながら、人目を避けた道を行く。全寮制の学校に通うようになってすぐ、成瀬は自分にとっての安全圏を確保しようと努めた。
あってはならないと思ってはいたけれど、それでも万が一のための保険は必要だとわかっていたからだ。ひとりになることのできる場所。なにかあったときにしばらくでもいいから、姿を隠すことのできる場所。
百パーセント安全な場所なんて存在しない。けれど、少しでも安全の確率を上げることのできる場所。
――だったら、俺のところにしたらいいだろ。
どれだけほかにアルファがいようとも、自分のそばにいるのが一番安全だろう。さも当然と言われたとき、自分はいったいどんな顔をいていただろうか。本当に、しっかりと笑って流せていたのだろうか。
考えたところでいまさらなんの意味もないことが、なぜか無性に気になってしまった。自信が揺らぎかけているのかもしれない。ポケットに入っていた薬を半ば無意識に握りしめる。
抑制剤は、お守りのようなものだった。飲み続けていたら、もしかしたら、オメガにならなくて済むかもしれない。
そんな荒唐無稽な夢に縋って、服用を続けていた。効かなくなっているかもしれないとわかっても、先生の言うところの馬鹿な過剰摂取で取り繕おうとしていた。
それも無理だと悟ったから、診療も受けに行った。たいした効果の差はないと念を押されたけれど、それでも新たな薬を手に入れることはできた。だから大丈夫だと思っていたかった。
あと半年。たった半年だ。どれだけ身体に無理が出ようとも、薬で抑え込めることができるのなら、それでかまわないと思っていた。
――そのはずだった、のに。
心臓がうるさい。零れる息が熱い。もっと早くに動きたいのに、足の進みがいやに鈍い。風邪気味だという建前は今にも外れそうになっていた。
――まずい。
自分の身体のことは、自分が一番理解している。だから、今、誰かに会うわけにいかないことは、よくよくわかっていた。当然、こんなふうになっている本当の原因も。
はずだ、はずだと繰り返すことしかできなかったのは、わかっていても認められなかったからだ。
なにがあっても動じないはずの自分。ひとりでいても平気なはずの自分。なんでもひとりでやれるはずの、強い自分。
その強固なはずの殻を破るのは、いつだって、ひとりだった。
背後で響いたチャイムの音に、強張っていた力がかすかに抜けた。
授業をさぼる生徒は決して多くはない。このまま行けば、誰にも会わずに寮に戻ることができる。パキ、と木の枝を踏む小さな音がしたのは、そう思った瞬間だった。
はっと振り向いた先にいた相手に、思わず舌打ちが漏れる。会いたくない男だったからだ。
間の悪さを恨みながらも、どうにか表情を切り替える。切り替えた、つもりだった。
「おいおい」
馬鹿にしたように本尾が笑った。
「まったく隠せてねぇぞ、会長様」
なにもしなくていいと言ったのも、離れていってくれたら、期待なんてもうなにもしないでくれたら、楽になる。そう思っていたはずだった。それなのに。
知らないうちに詰めていた息を吐いて、踵を返す。校舎のほうにこのまま向かうのはまずいと思ったのだ。
危機を察知した本能に押されるように、来たばかりの道を戻る。恋なんて、絶対に自分はしないと思っていた。その自信があったから、なにを言われても馬鹿みたいな説諭だとしか思わなかった。
だって、もし、それを認めたら、自分は自分でなくなってしまう。不完全だと知っているから、見せかけだけでも完璧でありたかった。みっともない自分を曝け出したりはしたくなかった。あの男にだけは、絶対に。
対等でありたいと願っていた唯一でもあった相手にだけは、絶対に。弱みを見せて甘えるようなことは、死んでもしたくなかった。
――そうだ。絶対に、そんなことは望んでなかった。
そのはずだったのに、その箍が何度か外れかけていたことを成瀬は知っている。だから、怖かった。だから、そばになんていたくなかった。
オメガとしての幸せなんてものも、考えたことはないはずだった。自分にとって、一番意味のないものだったから。
はず、はず、とみっともない言い訳を繰り返しながら、人目を避けた道を行く。全寮制の学校に通うようになってすぐ、成瀬は自分にとっての安全圏を確保しようと努めた。
あってはならないと思ってはいたけれど、それでも万が一のための保険は必要だとわかっていたからだ。ひとりになることのできる場所。なにかあったときにしばらくでもいいから、姿を隠すことのできる場所。
百パーセント安全な場所なんて存在しない。けれど、少しでも安全の確率を上げることのできる場所。
――だったら、俺のところにしたらいいだろ。
どれだけほかにアルファがいようとも、自分のそばにいるのが一番安全だろう。さも当然と言われたとき、自分はいったいどんな顔をいていただろうか。本当に、しっかりと笑って流せていたのだろうか。
考えたところでいまさらなんの意味もないことが、なぜか無性に気になってしまった。自信が揺らぎかけているのかもしれない。ポケットに入っていた薬を半ば無意識に握りしめる。
抑制剤は、お守りのようなものだった。飲み続けていたら、もしかしたら、オメガにならなくて済むかもしれない。
そんな荒唐無稽な夢に縋って、服用を続けていた。効かなくなっているかもしれないとわかっても、先生の言うところの馬鹿な過剰摂取で取り繕おうとしていた。
それも無理だと悟ったから、診療も受けに行った。たいした効果の差はないと念を押されたけれど、それでも新たな薬を手に入れることはできた。だから大丈夫だと思っていたかった。
あと半年。たった半年だ。どれだけ身体に無理が出ようとも、薬で抑え込めることができるのなら、それでかまわないと思っていた。
――そのはずだった、のに。
心臓がうるさい。零れる息が熱い。もっと早くに動きたいのに、足の進みがいやに鈍い。風邪気味だという建前は今にも外れそうになっていた。
――まずい。
自分の身体のことは、自分が一番理解している。だから、今、誰かに会うわけにいかないことは、よくよくわかっていた。当然、こんなふうになっている本当の原因も。
はずだ、はずだと繰り返すことしかできなかったのは、わかっていても認められなかったからだ。
なにがあっても動じないはずの自分。ひとりでいても平気なはずの自分。なんでもひとりでやれるはずの、強い自分。
その強固なはずの殻を破るのは、いつだって、ひとりだった。
背後で響いたチャイムの音に、強張っていた力がかすかに抜けた。
授業をさぼる生徒は決して多くはない。このまま行けば、誰にも会わずに寮に戻ることができる。パキ、と木の枝を踏む小さな音がしたのは、そう思った瞬間だった。
はっと振り向いた先にいた相手に、思わず舌打ちが漏れる。会いたくない男だったからだ。
間の悪さを恨みながらも、どうにか表情を切り替える。切り替えた、つもりだった。
「おいおい」
馬鹿にしたように本尾が笑った。
「まったく隠せてねぇぞ、会長様」
13
あなたにおすすめの小説
結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした
紫
BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。
実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。
オメガバースでオメガの立場が低い世界
こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです
強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です
主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です
倫理観もちょっと薄いです
というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります
※この主人公は受けです
【完結】それ以上近づかないでください。
ぽぽ
BL
「誰がお前のことなんか好きになると思うの?」
地味で冴えない小鳥遊凪は、ずっと憧れていた蓮見馨に勢いで告白してしまう。
するとまさかのOK。夢みたいな日々が始まった……はずだった。
だけど、ある出来事をきっかけに二人の関係はあっけなく終わる。
過去を忘れるために転校した凪は、もう二度と馨と会うことはないと思っていた。
ところが、ひょんなことから再会してしまう。
しかも、久しぶりに会った馨はどこか様子が違っていた。
「今度は、もう離さないから」
「お願いだから、僕にもう近づかないで…」
いい加減観念して結婚してください
彩根梨愛
BL
平凡なオメガが成り行きで決まった婚約解消予定のアルファに結婚を迫られる話
元々ショートショートでしたが、続編を書きましたので短編になりました。
2025/05/05時点でBL18位ありがとうございます。
作者自身驚いていますが、お楽しみ頂き光栄です。
もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!
めがねあざらし
BL
婚約者に見向きもされないまま誘拐され、殺されたΩ・イライアス。
目覚めた彼は、侯爵家と婚約する“あの”直前に戻っていた。
二度と同じ運命はたどりたくない。
家族のために婚約は受け入れるが、なんとか相手に嫌われて破談を狙うことに決める。
だが目の前に現れた侯爵・アルバートは、前世とはまるで別人のように優しく、異様に距離が近くて――。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
2026/02/14 累計30万P突破御礼バレンタインSS追加しました
2026/02/15 累計いいね♡7777突破御礼SS 19時に公開します。
様々な形での応援ありがとうございます!
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
普通のβだった俺は
りん
BL
普通の大学生として過ごす白瀬凪が、αの先輩に絡まれる話
凪は普通の大学生だ。βで、容姿も中身も平均値ぐらいだと認識している。ある日、大学でもよく噂されている先輩に声をかけられる。先輩の独特の雰囲気と空気に、次第に巻き込まれていく凪。
書き殴り状態なので少しずつ修正するつもりですです…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる