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6:終わりと始まり 編

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 そして、ほぼ二時間後。あたしはパソコンの前で死にかけていた。

「ほ、本当に書類って二つ名で記入するんですね…。うう…頭が混乱する…」

 楽勝かも知れない、とお気楽なことを考えていられたのは、共有フォルダからひな型をダウンロードしたところまでだった。
 併せて自分の行動を冷静に分析し時系列順に記入していくと言う作業も、心理的にかなり来るものがある。いや、……反省するには良い機会だと言うことも重々分かっているのだけれど。
 そのあたしの心情をどこまで分かっているのか、いないのか。いつも通りののんびりとした口調で桐生さんが答えてくれた。

「まぁ、迷信やけどね。鬼に本名を知られたらよろしくない、とか」
「そうなんですか?」
「そうやって。と言うか、僕はそう思ってるけど。せやなかったら、さすがに『蒼くん』って現場で連呼せぇへんよ」
「確かにそうですね」
「まなみちゃんはああ言うてたけど、実際、現場で未だに二つ名で呼び合ってるのって、年寄りか本部の人間か頭の固い旧家の人間かのどれかくらいやで」

 それって過半数なんじゃと一瞬思ったのだけれど、続いた言葉に疑念をあたしは無視することにした。

「フジコちゃんかて、現場で『おい、ラッキー』とか呼ばれたぁないやろ?」
「嫌です! 絶対に」

 嫌だ。慣れればもしかしたらどうと言うこともないのかもしれないが、やっぱりちょっと嫌だ。

「上は頭が固いと言うか、験を担ぎだがると言うか、伝統を重んじていると言うか。つまりそう言うわけで、公文書は二つ名で処理をせんとあかんわけやけど」

 どんな世界にもしがらみってあるんだろうなぁ、と思いつつ、文字を打ち込む。なんとか形になるところまでは持っていきたい。

「そう言えば、所長の二つ名って紅なんですね。屋号ですか?」
「ま、似たようなもんかな。それより僕の二つ名には興味持ってくれへんの? フジコちゃん」
「十代目桃太郎にですか?」

 自分で話を振ったくせに、その名前をあたしが口にした瞬間、桐生さんは微妙に嫌そうな顔で一瞬黙り込んだ。

「そもそも、あれやねん。確かに桐生は桃太郎の末裔やって言うヤツもおるけど。僕、三男坊やで? 桃太郎なんて御大層でダサい名前、兄貴のどっちかが貰ってくれたら良かったのに。兄貴が登録されるときは本家のじいさんがまだ生きててなぁ。桃太郎が欠番やってん」
「はぁ」
「そしたら、そのじいさんが死によってな。ちょうど僕が登録される頃に」

 つらつらと吐き出されるそれに、あたしは曖昧な相槌をもう一度打った。不貞腐れているように聞こえるのは気の所為だろうか。

「これもご縁やって親戚連中が盛り上がって、……でも、同じ名前は使われへんし、この二つ名が使われるんは十回目やってことで」
「それで十代目桃太郎ですか」

 名家は名家で大変なんだなぁ、と受け流そうとして、あたしは「ん?」と思い当たってしまった。もしかして。

「桐生さんって、もしかして、その二つ名が嫌で、所長のことも頑なに二つ名で呼ばないんですか」
「あのな、フジコちゃん」
「はい」
「世の中には勘付いても黙ってた方がえぇこともあるんやで?」

 その言い様にあたしは思わず笑って、それからエンターキーを押した。分からないことはいくつでもある。でも、少しだけ分かったこともある。
 被疑者は確保。子どもは保護。「わざわざそこまで記入せんでえぇから」と見かねられて文面からは削除したあたしの失態も含めて、これが今日の任務の成果だ。反省はもちろん大事だけれど、悪感情を引きずり続けるのとは違う。感情だけではなく、ちゃんと何故そうなったのかを振り返り、ではどうすれば良かったのかと再考する。まだ、少し難しいけれど、それでも、やっていかなければならない。
 そして、一つずつしっかりと次に活かしていきたい。「鬼狩り」の一員として。幸い、活かしていくことを許されているのだから。
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