78 / 82
笑う門には福来る
24:時東悠 1月29日1時14分 ③
しおりを挟む
「水でも飲むか?」
「あ……」
「座ってろ。淹れてやるから」
「でも、南さん」
「いい。立つついでだ」
至って普通の足取りに見えたものの、右足に少し重心がかかっていない気がした。廊下に出て行った背中を見送り、時東はそっと表情を消した。
南食堂は、今日は春風が手伝って営業したのだと聞いた。常連客に明日は休みにする旨を伝えることができたから、明日は休業日にしたのだ、とも。
自分にできることは、本当になにもないのだな、と思い知った。けれど、毎回同じようなショックを受ける自分がおかしいのだ。
――なにしてるんだろうな、本当。
夢見に引きずられ、人肌が恋しくなって、そうして、勝手に苛立っている。
どうかしているとわかっているのに、どうにもできなくなってしまいそうだった。でも、それは、いつからなのだろう。
廊下からかすかに聞こえた咳き込む声に、そういえば、まだ冬だったのだな、と時東は思った。
今年はどうなりたいのだろう、と。年末にどこか呑気に考えていたことが、なぜかひどく遠い。
変わっていく。そのことを、たぶん、時東は望んでいなかった。戻って来る足音に、意識して表情を作り替える。いつからこれが習慣になったのかも、もうわからなかった。だが、それでいいと思っていた。
「一気に飲むなよ、腹冷えるぞ」
「うん」
子ども扱いに笑って、目の前に置かれたコップに手を伸ばす。
「ありがとう」
立ったまま、じっと見られている気がして、時東は内心で首を傾げた。また変な笑顔だと思われたのだろうか。悩んだ末、話題の矛先を変える。南が右手に持っているものに気がついたからだ。
「煙草、吸うんだ」
「たまにな」
思い出したように南の視線が手元に動き、そのまま時東の傍に腰を下ろす。
「最近は、あんまり吸わねぇけど」
一緒に持ってきたらしい灰皿を机上に置いて、煙草に火を点ける。最近は吸わないと言ったわりには使いさしなんだな、と不思議に思ったことが伝わったのか、南が口を開いた。
「あぁ、これは、春風の」
「……そうなんだ」
「あいつ、適当に物を置いてくから」
そういえば、前にも似た話を聞いた気がした。くゆる紫煙を追いながら思い出す。あの日だ。この家の縁側で、この人に「曲が創れなくなった」と、誰にも言うつもりのなかったことを告白した、あの日。
「おかげで、あいつの物ばっかりなんだよな、この家。昔からだけど」
マーキングみたいだな、と思ったものの、さすがに言葉にすることはできなかった。小さく笑う。ちらりと動いた南の視線に、また笑えていなかったのかと不安になった。だが、確認することはできなかった。代わりに「らしい」ことを口にする。
「いいの? 勝手に」
「べつに一本くらいで、どうとも言わねぇだろ。あいつの貯蓄額やべぇらしいぞ」
「……だろうね」
「使い道もないって本人は言ってたけどな」
だろうな、と思った。堅実に生きていくためだけだったらば、大金なんて必要はないからだ。時東自身、それなり以上の金額を貰うようになってからも、生活は変わらなかった。派手な生活を夢見て芸能界に入ったわけでもない。ただ。ただ、俺は。
「なぁ、時東」
「なに?」
「うまい?」
問われて首を傾げる。
「お水? ありがとう。冷たくて眼が覚める」
良いのか悪いのかはわからないけれど、どうせこのあとも眠れないだろうし、いいのかもしれない。にこ、とほほえんだ時東の顔を見つめ、南が小さく息を吐いた。吸いさしを灰皿に押し付けて、一言。
「それ、結構な量の塩、入ってたんだけど」
唐突に告げられたそれに、時東は思い切り咽た。それでか。それで、南も咳いていたのか。
「お、俺の、南さんに対する信用を利用してなにするの」
「だから一気に飲むなって言っただろうが」
そういう問題じゃないと思いたい。自覚すると、なんだか喉が塩辛い気がしてきた。気分の問題ではあるけれど。
「おまえ、また味覚死んでるのか」
淡々と事実を問いただす調子に、コップを掴んだままだった指先に力が入る。応とも否とも言えない。いつから気づかれていたのだろう。それが、答えになった。
「ここに来たら味が戻る。それも、もうないんだったら、ちゃんと病院なり行って治せ」
正論だとわかっていた。わかっていて、それでも、どうしようもなくささくれ立つ。あんな夢を見たせいだろうか。それとも、この人だからだろうか。
わからない。わからないけれど、時東の心を動かすのは、いつもこの場所だ。この場所だけだ。
「あ……」
「座ってろ。淹れてやるから」
「でも、南さん」
「いい。立つついでだ」
至って普通の足取りに見えたものの、右足に少し重心がかかっていない気がした。廊下に出て行った背中を見送り、時東はそっと表情を消した。
南食堂は、今日は春風が手伝って営業したのだと聞いた。常連客に明日は休みにする旨を伝えることができたから、明日は休業日にしたのだ、とも。
自分にできることは、本当になにもないのだな、と思い知った。けれど、毎回同じようなショックを受ける自分がおかしいのだ。
――なにしてるんだろうな、本当。
夢見に引きずられ、人肌が恋しくなって、そうして、勝手に苛立っている。
どうかしているとわかっているのに、どうにもできなくなってしまいそうだった。でも、それは、いつからなのだろう。
廊下からかすかに聞こえた咳き込む声に、そういえば、まだ冬だったのだな、と時東は思った。
今年はどうなりたいのだろう、と。年末にどこか呑気に考えていたことが、なぜかひどく遠い。
変わっていく。そのことを、たぶん、時東は望んでいなかった。戻って来る足音に、意識して表情を作り替える。いつからこれが習慣になったのかも、もうわからなかった。だが、それでいいと思っていた。
「一気に飲むなよ、腹冷えるぞ」
「うん」
子ども扱いに笑って、目の前に置かれたコップに手を伸ばす。
「ありがとう」
立ったまま、じっと見られている気がして、時東は内心で首を傾げた。また変な笑顔だと思われたのだろうか。悩んだ末、話題の矛先を変える。南が右手に持っているものに気がついたからだ。
「煙草、吸うんだ」
「たまにな」
思い出したように南の視線が手元に動き、そのまま時東の傍に腰を下ろす。
「最近は、あんまり吸わねぇけど」
一緒に持ってきたらしい灰皿を机上に置いて、煙草に火を点ける。最近は吸わないと言ったわりには使いさしなんだな、と不思議に思ったことが伝わったのか、南が口を開いた。
「あぁ、これは、春風の」
「……そうなんだ」
「あいつ、適当に物を置いてくから」
そういえば、前にも似た話を聞いた気がした。くゆる紫煙を追いながら思い出す。あの日だ。この家の縁側で、この人に「曲が創れなくなった」と、誰にも言うつもりのなかったことを告白した、あの日。
「おかげで、あいつの物ばっかりなんだよな、この家。昔からだけど」
マーキングみたいだな、と思ったものの、さすがに言葉にすることはできなかった。小さく笑う。ちらりと動いた南の視線に、また笑えていなかったのかと不安になった。だが、確認することはできなかった。代わりに「らしい」ことを口にする。
「いいの? 勝手に」
「べつに一本くらいで、どうとも言わねぇだろ。あいつの貯蓄額やべぇらしいぞ」
「……だろうね」
「使い道もないって本人は言ってたけどな」
だろうな、と思った。堅実に生きていくためだけだったらば、大金なんて必要はないからだ。時東自身、それなり以上の金額を貰うようになってからも、生活は変わらなかった。派手な生活を夢見て芸能界に入ったわけでもない。ただ。ただ、俺は。
「なぁ、時東」
「なに?」
「うまい?」
問われて首を傾げる。
「お水? ありがとう。冷たくて眼が覚める」
良いのか悪いのかはわからないけれど、どうせこのあとも眠れないだろうし、いいのかもしれない。にこ、とほほえんだ時東の顔を見つめ、南が小さく息を吐いた。吸いさしを灰皿に押し付けて、一言。
「それ、結構な量の塩、入ってたんだけど」
唐突に告げられたそれに、時東は思い切り咽た。それでか。それで、南も咳いていたのか。
「お、俺の、南さんに対する信用を利用してなにするの」
「だから一気に飲むなって言っただろうが」
そういう問題じゃないと思いたい。自覚すると、なんだか喉が塩辛い気がしてきた。気分の問題ではあるけれど。
「おまえ、また味覚死んでるのか」
淡々と事実を問いただす調子に、コップを掴んだままだった指先に力が入る。応とも否とも言えない。いつから気づかれていたのだろう。それが、答えになった。
「ここに来たら味が戻る。それも、もうないんだったら、ちゃんと病院なり行って治せ」
正論だとわかっていた。わかっていて、それでも、どうしようもなくささくれ立つ。あんな夢を見たせいだろうか。それとも、この人だからだろうか。
わからない。わからないけれど、時東の心を動かすのは、いつもこの場所だ。この場所だけだ。
13
あなたにおすすめの小説
七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす
蒼月よる
ファンタジー
七日後、この港に神罰が落ちる。
追放された元観測士イオナだけが、その事実を知っていた。
しかも災害は自然現象ではない——誰かが、意図的に引き起こそうとしている。
港の上層部はすでに手を打っていた。「下層区画を緩衝被害区として切り捨てる」秘密契約。被害を最小限に見せかけ、体制を守る冷徹な計画だ。
イオナは元護送隊長ガルム、荷運び組合長メラとともに動き出す。
犯人を暴き、証拠を公開し、住民を逃がし、工廠を止める——すべてを七日で。
被害を「選ぶ」管理か、全員を「残す」運用か。
追放観測士の、七日間の港湾カウントダウン・サスペンス。
この作品は以下の箇所にAI(Claude Code)を利用しています。
・世界観・設定の管理補助
・プロット段階の壁打ち
・作者による執筆後の校正
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
砕けた愛
篠月珪霞
恋愛
新婚初夜に男に襲われた公爵令嬢エヴリーヌは、不義密通の罪を被せられた。反逆罪に問われた彼女の一族は処刑されるが、気付くと時間が巻き戻っていた。
あなたへの愛? そんなものとうに、砕け散ってしまいました。
私は私で幸せになりますので
あんど もあ
ファンタジー
子爵家令嬢オーレリーの両親は、六歳年下の可憐で病弱なクラリスにかかりっきりだった。
ある日、クラリスが「オーレリーが池に落ちる夢を見た」と予言をした。
それから三年。今日オーレリーは、クラリスの予言に従い、北の果ての領地に住む伯爵令息と結婚する。
最後にオーレリーが皆に告げた真実とは。
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる