南食堂ほっこりごはん-ここがきっと幸せの場所-

木原あざみ

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笑う門には福来る

24:時東悠 1月29日1時14分 ③

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「水でも飲むか?」
「あ……」
「座ってろ。淹れてやるから」
「でも、南さん」
「いい。立つついでだ」

 至って普通の足取りに見えたものの、右足に少し重心がかかっていない気がした。廊下に出て行った背中を見送り、時東はそっと表情を消した。
 南食堂は、今日は春風が手伝って営業したのだと聞いた。常連客に明日は休みにする旨を伝えることができたから、明日は休業日にしたのだ、とも。
 自分にできることは、本当になにもないのだな、と思い知った。けれど、毎回同じようなショックを受ける自分がおかしいのだ。

 ――なにしてるんだろうな、本当。

 夢見に引きずられ、人肌が恋しくなって、そうして、勝手に苛立っている。
 どうかしているとわかっているのに、どうにもできなくなってしまいそうだった。でも、それは、いつからなのだろう。
 廊下からかすかに聞こえた咳き込む声に、そういえば、まだ冬だったのだな、と時東は思った。
 今年はどうなりたいのだろう、と。年末にどこか呑気に考えていたことが、なぜかひどく遠い。
 変わっていく。そのことを、たぶん、時東は望んでいなかった。戻って来る足音に、意識して表情を作り替える。いつからこれが習慣になったのかも、もうわからなかった。だが、それでいいと思っていた。

「一気に飲むなよ、腹冷えるぞ」
「うん」

 子ども扱いに笑って、目の前に置かれたコップに手を伸ばす。

「ありがとう」

 立ったまま、じっと見られている気がして、時東は内心で首を傾げた。また変な笑顔だと思われたのだろうか。悩んだ末、話題の矛先を変える。南が右手に持っているものに気がついたからだ。

「煙草、吸うんだ」
「たまにな」

 思い出したように南の視線が手元に動き、そのまま時東の傍に腰を下ろす。

「最近は、あんまり吸わねぇけど」

 一緒に持ってきたらしい灰皿を机上に置いて、煙草に火を点ける。最近は吸わないと言ったわりには使いさしなんだな、と不思議に思ったことが伝わったのか、南が口を開いた。

「あぁ、これは、春風の」
「……そうなんだ」
「あいつ、適当に物を置いてくから」

 そういえば、前にも似た話を聞いた気がした。くゆる紫煙を追いながら思い出す。あの日だ。この家の縁側で、この人に「曲が創れなくなった」と、誰にも言うつもりのなかったことを告白した、あの日。

「おかげで、あいつの物ばっかりなんだよな、この家。昔からだけど」

 マーキングみたいだな、と思ったものの、さすがに言葉にすることはできなかった。小さく笑う。ちらりと動いた南の視線に、また笑えていなかったのかと不安になった。だが、確認することはできなかった。代わりに「らしい」ことを口にする。

「いいの? 勝手に」
「べつに一本くらいで、どうとも言わねぇだろ。あいつの貯蓄額やべぇらしいぞ」
「……だろうね」
「使い道もないって本人は言ってたけどな」

 だろうな、と思った。堅実に生きていくためだけだったらば、大金なんて必要はないからだ。時東自身、それなり以上の金額を貰うようになってからも、生活は変わらなかった。派手な生活を夢見て芸能界に入ったわけでもない。ただ。ただ、俺は。

「なぁ、時東」
「なに?」
「うまい?」

 問われて首を傾げる。

「お水? ありがとう。冷たくて眼が覚める」

 良いのか悪いのかはわからないけれど、どうせこのあとも眠れないだろうし、いいのかもしれない。にこ、とほほえんだ時東の顔を見つめ、南が小さく息を吐いた。吸いさしを灰皿に押し付けて、一言。

「それ、結構な量の塩、入ってたんだけど」

 唐突に告げられたそれに、時東は思い切り咽た。それでか。それで、南も咳いていたのか。

「お、俺の、南さんに対する信用を利用してなにするの」
「だから一気に飲むなって言っただろうが」

 そういう問題じゃないと思いたい。自覚すると、なんだか喉が塩辛い気がしてきた。気分の問題ではあるけれど。

「おまえ、また味覚死んでるのか」

 淡々と事実を問いただす調子に、コップを掴んだままだった指先に力が入る。応とも否とも言えない。いつから気づかれていたのだろう。それが、答えになった。

「ここに来たら味が戻る。それも、もうないんだったら、ちゃんと病院なり行って治せ」

 正論だとわかっていた。わかっていて、それでも、どうしようもなくささくれ立つ。あんな夢を見たせいだろうか。それとも、この人だからだろうか。
 わからない。わからないけれど、時東の心を動かすのは、いつもこの場所だ。この場所だけだ。
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