好きになれない

好きになれない１

１

　フリースクール「つぼみ」
　今年で創立十年目のＫ県認可の有償フリースクールです。どうぞお気軽に見学にお越しください。

　先輩に渡されたパンフレットを片手に、日和智咲ひよりちさきは寂れたアーケード商店街を自転車を押しながら歩いていた。
　日和の地元の商店街も、シャッター街と紙一重のうら寂しいところであったけれど、それに近いものがある。駅から徒歩五分。立地としてはそこまで悪くないのだろうが、客足は駅の反対側で展開している商業ビルへと流れているらしい。シャッターが下りている店が目に付く上に、開いている店舗も客の出入りはなくひっそりとした有様だ。
　耳に付くのは、自分が押す自転車の車輪が回る音ばかりである。なんでこんなことになったかなぁ、とのわだかまりを呑み込み切れないまま、日和は深々と溜息を吐き出した。


　――日和くんさぁ、あいかわらずなんのボランティア活動にも登録していないって本当？　もう三年生でしょ。だったら、今年がボランティアのできる最後のチャンスじゃない。教職を目指してるなら、経験しておいたほうが有利だと思うんだ。というわけで、どうかな、ここ。

　ことの発端は、二週間前。三年生に進級する直前の三月末の、鶴の一声だった。鶴、もとい、塩見に笑顔でパンフレットを押し付けられて、日和は困惑した。所属している高松ゼミ一番の美女と名高い、一学年上の先輩である。

　――私が一年間お世話になっていた民間のフリースクールなんだけどね。四月からは行けなくなるから。

　断る隙を与えない笑顔で、塩見が続ける。

　――良いところだから続けたかったんだけど。ほら、教育実習に採用試験にとなると、丸一日スケジュールを空けるのは難しくなっちゃうのよね。

　私と違って、あなたは暇でしょう、と。その瞳は雄弁に物語っていた。たしかに暇はある。四月からは火曜日が丸々空いている。けれど、その暇は、自堕落に過ごすために、卒業までに必要な単位と時間割とを必死に見比べて、ひねり出した休日だったのだ。
　いやいや、俺には無理です、先輩。すっきりきっぱり断ってしまいたかったが、いかんせん、場所が悪かった。塩見が声をかけてきたのは、春休みだというに、履修登録の関係で、やたらと学生が溢れているゼミ室だったのだ。背中に突き刺さる視線が痛い。
　民間のフリースクール。内心で、日和は繰り返す。どの程度の年齢層まで受け入れているかは施設によりけりだろうが、基本的には不登校の小中学生が学校の代わりに通う施設だ。癖のある子どもも多いだろうし、はじめてのボランティアとしては荷が重すぎないだろうか。
　教育学部に通っているというだけで、素晴らしい人間性ができあがるはずもなければ、難しい生徒といきなり上手に関われるわけもない。
　という理由を押し並べて、固辞したい。だがしかし。逡巡すること数十秒。日和は諦めて力なく笑った。

　――わぁ、いいの。ありがとう、日和くん。

　満面の笑みで塩見は手を叩いていたが、断られるはずはないと踏んでいたに違いない。お役に立てるかどうかはわかりませんが、と。笑顔同様の力のない声で日和は請け負った。
　なんで、こんなことになったのだろう。心の底からそう思う。してやられたとも思うが、思うだけだ。日和は顔で笑って心で泣いた。ゼミのアイドルのお願いを公衆の面前で断る度胸なんて、微塵も持ち合わせてはいなかった。


　――まぁ、いいけどさ。教員採用試験のときに有利になることは間違いないだろうし。

　とは言え、これから一年間。休むはずだった火曜日が丸々ボランティアで潰れるとなれば、気分が重くなるのは致し方ない。
　見栄えだけは極上と呼ばれる長身を猫背気味に曲げて、日和は本日二度目の溜息を零した。社交的な性質でもなんでもないので、余計に気が重い。せめて、スタッフが良い人であればいいのだが。三度目の溜息はなんとか呑み込んで、顔を上げる。
　パンフレットの地図の通りであれば、もうそろそろ見えてくるはずだった。

　――えぇ、と。時間は十時から十七時半。基本的に、「つぼみ」のなかで、子どもたちと遊んだりして過ごすのが主な活動。勉強も見てもらえるのなら助かる、だったよな。

　塩見に促されるがまま、挨拶の電話をかけた際、代表の女性からはそう説明があった。不登校児のためにフリースクールを立ち上げるだけはある、優しげな声音の人だった。人当たりの柔らかな雰囲気にほっとしたのも束の間、日和の参加する火曜日は、彼女は不在とのことだった。
　もう一人の正規スタッフがいるから、わからないことや細々としたことはその子に聞いてくれたらいいと言われたものの、つまり。
　まったくの初対面の人と丸一日かぁ。尻込みたくなるのを我慢して、もう一度、パンフレットの説明に眼を通す。
『駄菓子屋「にっこり」さんの、二軒左隣。子どもたちがつくった木製の小さな「つぼみ」の看板が目印です』
　きょろりと周囲を見渡せば、「にっこり」と白抜きされた藍色の暖簾があった。

「あった……」

　ついでに、ジーンズの後ろポケットからスマートフォンを取り出して、時間を確認。九時五十五分。いくら無給ボランティアとは言え、初日から遅刻は印象が悪いだろうと思っていたので一安心だ。
　駄菓子屋の隣は空き店舗らしくシャッターが閉まっていた。さらに、その隣。
　そこにあったのは、平屋建ての一軒家だった。本当にここなのだろうか。不安になって、遠巻きのまま日和は目を凝らした。そして、目印を発見する。呼び鈴の横の土壁に、木製の看板が引っかけられていた。「フリースクール　つぼみ」
　どうやら、間違いないようだ。邪魔にならないだろう場所に自転車を留めさせてもらって、日和は一つ深呼吸をした。呼び鈴を押す寸前で指先が宙に浮いている。

　――自己紹介。というか、まずはスタッフの人に挨拶、だよな。塩見さんの紹介できましたＫ大学教育学部三年生の日和智咲です。よろしくお願いします。

　小学生でもできそうな自己紹介を心の内で反復して、呼び鈴を押す。反応がない。日和は首を傾げて、引き戸に手をかけた。

「おはようございま……」
「ごめん、それ、捕まえて！」

　声とほぼ同時に、なにかが飛び込んできた。条件反射で受け止めたはいいものの、腹になかなかの衝撃があった。恐る恐る視線を下げれば、飛び込んできたのは小さな黒い頭。

「こら、あき」

　廊下の奥から先程の声の主が顔を出した。日和とさほど変わらない年頃の青年。日和の腕の中の少年を見とめて、硬質な雰囲気だった相貌がやわらぐ。

「中で暴れる分には多めに見るけど、外には飛び出すなっていつも言ってるだろ」
「だ、だって。凛音が」

　左手の襖越しから少女と少年の声が相次ぐ。

「まきちゃん、あたし、なにもしてないよ」
「ゴキブリがいるって言うのは凛音の嘘だから。戻っておいで」

　訳がわからないなりにゴキブリという単語にぎょっとして、青年に視線を向けた。

「いない、いない。そこまで汚くないから、ここ。というか、凛音、おまえね」
「だって、あきがゴキブリなんて怖くないって言うから。だから、あ！　あそこにって、言ってみただけだってば。そうしたら、勝手にあきが逃げ出したの」
「雪が叫ぶから！　本当にいると思ったんだも……」

　涙目で訴えていた少年が、はたと気が付いたばかりに言葉を止めた。そうしてゆっくりとこちらを見上げてくる。

「誰、この人」

　不信に満ち満ちた瞳に、ぎこちないながらも笑顔で応えようとした瞬間。思いきりよく「変質者！」と叫ばれてしまった。幼い子ども特有の高い声に、耳がキンとなる。
　まさかしょっぱなから変質者呼ばわりを食らうとは思ってもいなかった。しかも男の子から。固まった日和に、呆れ半分申し訳なさ半分のような声がかかる。

「いや、違う、違う。たぶん、その子、新しい学生ボランティアの……。ごめん、なにくんだっけ」
「……日和、智咲です」

　考えていた自己紹介なんて、木っ端みじんに吹き飛んだ。なんだ、ここは。癖のある子たちの集まるフリースクール？　朝から嵐にでも遭ったみたいな疲れがふつふつと沸き上がってくる。

　――これから一年もやっていけんのかな、俺。

　溜息を押し隠して、顔を上げた先。ふっと青年の目元が緩んだのを日和は見た。襖ががらりと開く音がして、そこから覗く顔が三つ。興味津々の子どもが、彼を「まきちゃん」と呼ぶ。信頼と甘えの入り混じった声で。

　……大丈夫かもしれない。

　先ほどとはまったく正反対の感想が、なぜか頭に浮かんだ。

「いつまでも立ってないで。入っておいで、日和くん」

　子どもに向けられていたものと同じ、柔らかな声。胸が変な感じにドキリとしたのは、きっと緊張していたからだ。予想外が過ぎたせいか、肩からも余計な力が抜けてしまったみたいだった。ほっと息を吐いて、中に入る。
　木目の床はひやりとしていて冷たいのに、日和を拒絶してはいない。はじめての場所なのに、まるで「帰ってきた」かのような気分になって、それが不思議だった。

　――フリースクール、かぁ。

　学校に居場所がない子どもたちの受け皿。だから、ここはあたたかな空気が流れているのだろうか。
　大学進学を機にこの街に引っ越してきて、三度目の春。日和が彼を知ったのは、桜のはなびらが地面に溶け始めるころだった。