好きになれない

木原あざみ

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好きになれない3

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「そういえば、日和ってどこ受けるんだっけ。やっぱり地元?」

 大学の図書館は、試験前でもないのに学生であふれている。教員採用試験まで一月を切った今、日和と同じ学科の学生にとっては、最後の詰めの期間なのだ。
 空席を探してともに彷徨っていた水原に小声で話しかけられて、日和は曖昧に首を振った。

「地元も受けるけど。ここも受けようと思ってる」

 教員採用試験は、中学校であれば市や区の教育員会、高校であれば県や都の教育員会に願書を提出するところから始まる。自治体によって差異はあるが、六月の中旬くらいまでに締め切られるところが大多数だ。七月からいよいよ一次試験が始まるわけだが、日程さえ被っていなければ複数の都市を併願して受験することも可能だ。

「併願か。でも、本命は地元だろ? もし、こっちだけ受かっても、来年に地元を受け直すの?」
「いや、……」

 日和は言葉を濁して周囲を見渡した。「どこもいっぱいだね」

「だな。諦めて外でやるか」

 切羽詰まった時期になっても一人の家では集中し切れなくて、図書館に足を運んだのだが、考えることは皆同じらしい。
 大学を出て近くの飲食チェーン店に入ると、梅雨の湿度から解放された身体が軽くなる。幸い客の姿もまばらだ。少しの間くらい参考書を開いていても問題はなさそうだった。隅の席を確保して鞄から本を取り出す。ページをぱらぱらと捲っていると、水原が、「さっきの話だけどさ」と切り出した。

「親父さんは地元に帰って来いとか言わないの?」
「あー……、はっきりとは言わないけど、いずれは戻ってきてほしいとは思ってるかもね」
「じゃあやっぱり、こっちだけ受かったら腰かけで一年やって、地元を来年受け直す? それとも何年か年数積んでから経験者枠で受けに戻るとか」

 捲し立てる調子に、日和は黙り込んだ。気に障ったのではない。自分の中で一つずつ言葉を検討するのに時間がかかるだけだ。

「俺も地元の他にも何個か受けてるから。どうするのかなって、純粋な興味」
「うん。俺は、こっちに受かったら、ずっとこっちにいると思う」

 地元と両方受かった場合はどうするのかという疑念はさておいて、日和は答えた。はっきりとしたそれが意外だったのか、水原が瞳を瞬かせる。

「それってさ。今、付き合ってる彼女がここに住んでるから、とか?」

 再度、黙った日和に、水原は眉をひそめた。

「俺がどうこう言うのもアレだと思うし、おまえも考えて決めたとは思うけど。付き合い始めて、まだ半年も経ってない相手だろ? その相手に合わせて、一生の仕事を決めていいのかよ」
「どこでしても、一緒だろ。やることは」

 教師という仕事を選ぶことに変わりはない。それに。
 それに、と言い訳のように思う。ここの大学で四年間学んで、この地に根付いているフリースクールで、この地域の子どもたちを見た。この地を選ぶ理由に、きっとなるはずだ。

「それは、そうかもしれないけど。……もしかして、結婚の話とか出てたりすんの?」
「ないよ」
「なんだ。もしかしてできちゃったのかなって疑いそうになった」
「それは、ない」

 否定を繰り返す。いっそのこと、そうであればよかった。そんなふうに思いかけて溜息を吐く。

「そういうんじゃないんだ。これも、本当に。……その、俺が一人で勝手に思ってるだけで」
「でも、その選択に影響を与えている人なら、相談してみてもいいと思うけど」
「……」
「反対されるのが怖いの?」

 考えないようにしていたことを指摘されて、眉間の皺が深くなる。その日和に、水原が苦笑いで肩を竦めた。

「されそうなんだ。図星かよ」
「なんでそう思ったわけ」
「なんでって。おまえが言ってたんじゃん。自分は好きだし、その気持ちを受け止めてもらってるとも思うけど、相手が本当に自分のことを好きなのかどうかはわからないって」

 その話をしたのは冬だった。つまり、あれから季節が巡って夏が近付いていても、自分が抱えている問題は変わっていないということで。
 ますます不機嫌そうな顔になった自覚はあるが、水原は去年とは違い、「怖いよ」とは言わなかった。その代わり、さらりと笑うだけだ。

「重症過ぎるだろって思ってたんだけど。結構マジで悩んでたのかなとも思って」

 相談に乗ってほしいなら乗りますよ、という気遣いを含んで言葉を有り難いとは思うが、どう言えばいいのかわからなくて、日和は言葉を探した。

 ――そもそもとして、相手が真木さんだなんて、水原に言えるわけがないし。

 考えてしまってから、日和は内心で首をひねった。なんで言えるわけがないんだろう。男同士だからか。水原があの人と面識があるからか。

 ――いや、誰と付き合ってるなんて、吹聴するようなことじゃない。それだけだ。

「ちなみにさ。なんで相手が自分のことを好きかどうかわからないって思ったんだよ。告白はおまえからしたとして、オッケーもらったんだろ? 好きってことじゃないの」

 単純な話だろうと言わんばかりの声に、日和は首を振った。そして悩んだ末に吐き出す。認めたくはなかったことを。

「一度も、好きって言ってもらったことがない」
「え……」
「ないんだ、一度も」

 ずっと、ずっと、考えないようにして。今を壊したくないと思って。受け入れられているのが答えだと言い聞かせて。それでも、ふと不安になる。あの人は、なんで受け入れてくれたのだろう、と。

「俺がこの街を離れるって言ったら、あの人、その場で終わりだって言いそうで、怖いんだよ」
「一回、聞いてみろよ、それこそ」

 弱音を水原が諭す。

「聞いてみなきゃ、ずっとわからないままだぞ」
「わかってる」

 吐息と一緒に日和は吐き出した。わかっている。わかってはいる。ただ、真実を知るのは、怖い。
 また「恋」じゃないと言われたら。俺に合わせて受け止めただけだと言われたら。日和がいなくなるまでの一定の期間のことだと思っていたと言われたら。
 きっと、自分は、身動きが効かなくなってしまう。それだったら、今のままでいたいと思ってしまう。今のままがいいと願ってしまう。でも、本当にその先を求めたいのなら。甘えたことを言っているわけにはいかない。それもわかってはいるのだ。
 ぬるま湯の中は心地いい。けれど、いつかは冷めてしまう。ずっと適温を維持する為には、それ相応の労力が必要だ。

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