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2巻
2-1
しおりを挟む聖なる日和
なぜか異世界に来てしまった、二十二歳の日本のOL――私こと御厨ナノハには悩み事がある。
「お肉ばっかり食べてたから口内炎できた! もっとたくさん野菜が食べたいよ……」
私が出現した土地は、とても貧しいところだったのだ。親切で出してもらったご飯がすごくまずかった。我慢しても食べられないレベル、吐くくらいに。
仕方なく私は飢え死にの危機を乗り越えるため、必死になって試行錯誤した。結果、この世界では誰も食べたがらない魔物という生き物の肉を美味しく食べる方法を発見したのだ。
どうして私が発見できたかというと、私の目がこの世界では特別だからのようだ。
そう、私には、この世界の人には見えないものが見える。
たとえば魔物の体内には一ヶ所光っているところが必ずあった。弱い魔物の光は微かだけれど、大怪我を負うと、その部分がピカリと光るのだ。実はその部分には魔核と呼ばれる石があり、魔物を傷つけると、その魔核から黒いモヤが溢れ出る。どうやら魔核パワーで傷を治そうとしているらしい。大抵の小さい魔物は治癒に失敗して死んでしまうのだが、その際、黒いモヤが広がってしまった部位の肉はとてもまずくなる。その部分を避ければ魔物を美味しく食べることができるのだ。
この世界の人たちはそれを知らなかった。なぜなら光も黒いモヤも見えないから。魔核の光も、黒いモヤが見えるのも私だけなのだ。
この特別な目を持っていたことで、私は聖女と名乗らされている。これは、神族の血を引いているために、普通とは違う力を持った人間の女性に与えられる呼び名だ。
この年齢で自称聖女とか痛すぎる……けど異世界人だとバレて解剖されたり、魔族と呼ばれる人たちの仲間だと誤解され攻撃を受けるよりはいいかなって思っていた。
「ぶうぶう」
ふいに近くで動物の鳴き声がした。
「いいよね、ウリボンヌは……お肉があるだけで大満足だもんね」
取り分けてあげたお皿に鼻先を突っ込んでいるこの仔は、ビッグボアというイノシシ似の魔物の仔だ。
赤い毛並みにアメジストのような瞳、黒い小さな爪が可愛い仔イノシシはなぜか私に懐いてしまった。私はウリボンヌと名を付け、ペット兼非常食として騎士団で一緒に暮らしている。
恐ろしい害獣と認定されている魔物だけれど、従魔として登録すれば飼うことができるのだ。
――それにしても、と私は魔物肉のステーキがのった皿を悲しく見下ろした。そこに野菜はない。
なぜなら野菜がとても高価だからだ!
私は野草だって構わないのだが、まわりの人みんなに止められている。
野生の草木は穢れているから、食べると身体が穢れてしまうというのだ。
一度こっそり肉と一緒に炒めていたら、大目玉を食らってしまった。
「おーやーさーいー!」
「野菜が食いたいなら買って食え」
今日も今日とて文句を言う私に、一緒にご飯を食べていたユージンは、呆れたように繰り返した。
彼は二十六歳の男性で、青と緑の瞳が特徴的な金髪のファンタジーイケメンだ。私がわけあって身を寄せている黒魔騎士団の副団長であり、私の護衛もしてくれていた。
優男に見えるが結構大食いで、他の団員と朝ご飯を食べた後なのに、自分の朝食を作る私に彼の分も作るようにと要求してくる。
もっとも失敗作を作った時でもきれいに完食してくれるため、作らされているという不快感はない。
そんな彼だからこそ、美味しいものを食べさせてあげたいと思っている。
じっとユージンを見つめていると、彼はうむと頷いてみせた。
「今日も美味かったぞ、ナノハ」
「ありがとう、ユージン!」
やっぱり優しい。
「だがおまえには肉が固いんじゃないか? オレは食えるがな」
「あっ、わかる?」
「あと、こう塩っ辛いとパンが食いたくなるな」
「それじゃ、私が買ってきたのでよければ、分けてあげようか?」
「いや、ナノハの料理じゃないならやめておく」
騎士団の人たちは嫌われているので、安易に買い物もできないという。
嫌われている理由が魔法使いなのでっていうんだから、異世界人の私には信じられない。
魔法使い! 羨ましい。私はなりたいと思っているくらいなのに。
けれど、この世界で魔法使いというのは、穢れてしまった存在になるらしい。
穢れって何? って感じなんだけれど、偏見とか思い込みとかではなかった。
私にだけ見える黒いモヤこそが穢れと呼ばれるものの正体みたいなのだ。この黒いモヤに染まると、魔物の肉がまずくなるだけでなく、人間は魔法使いになってしまうようだった。
ユージンは、自分が食べたらパン屋の人が嫌な気持ちになるという意味で遠慮したのだと思う。
……その事実を悲しく感じるものの、私の料理なら食べたいと言ってもらえるのが嬉しい。
「野菜って、わざわざ買うには高すぎるんだよねえ……美味しいんだけど」
気を取り直して話題を変えた。
この世界の物価を鑑みるに、日本の高級フルーツ並みのお値段で、しなびた野菜が売られている。
タダ同然の野草が、町を出たすぐそこにぼうぼうと生えているのにだ! それを見た時の私の気持ちを想像してほしい。
「ユージン……お庭のすみっこで家庭菜園しちゃ駄目?」
「駄目だと何度も言ってるだろう。土地が穢れているんだ。そこで育てられたものも穢れる」
「美味しいお料理の幅が広がるよ?」
「うっ。だが、駄目だ」
「ユージンに食べさせてあげたいものがもっとたくさんあるんだけどなぁ……!」
「うぐぅっ!」
美味しい食事に目がないユージンは心が揺れたようだったけれど、やがて持ち直して言った。
「駄目、だ……! ナノハ、穢れた者の末路は悲惨なんだ……! おまえにオレたちと同じ苦しみを味わわせたくはない」
最終的に私のために駄目だと言い張るユージンに、私はつい抵抗を諦めてしまう。
「はぁい……」
「よし、いい子だな」
ユージンは笑って私の頭にポンと手を置いた。子ども扱いにムッとするべきか、若く見られていることを喜ぶべきか。ユージンは私のことを十六歳だと思い込んでいる。
「口に肉の切れ端がくっついてるぞ、ナノハ」
「えーっ! どこ?」
「はは、冗談だ」
私は笑うユージンの足を机の下で蹴ってやった。頑丈なブーツを履いている彼は、ビクともせずに笑い続ける。ブーツがなくても微動だにしないだろうが。
そんなユージンの笑顔を見ていたら、私も笑ってしまった。
突然飛ばされた異世界で穏やかな日々を過ごせている。私は毎日笑って生きていた。
元の世界のことを思うと、不思議な気持ちになる。
前は考えないようにしていた、と思う。考えても仕方のないことだから、目の前のことに集中して、楽しい気持ちでいられるように頑張っていた。そうしないと、ものすごく悲しい気持ちになってしまいそうだったのだ。しんみりジメジメは私のキャラじゃない。
でも今は、冷静に元の世界のことを考えられるし、悲しい気持ちも抱いていない。そんな自分に驚いている。その変化の理由はよくわからない。
「――気晴らしに神殿にでも行くか、ナノハ?」
ふいに声をかけられ、私はびっくりしつつ顔を上げた。ユージンが気遣うように私を見ている。
暗い顔でもしていたのだろうか。自分の顔を触ってみるけど、よくわからない。悲しくなることを考えていたわけじゃないのに。
でもユージンが心配してくれたというのが嬉しくて、どうでもよくなった。
「うん。外庭歩きたい!」
神殿は白い大理石でできた、神聖さの象徴みたいな建物のことだ。その建物を囲うように広がる外庭には、いつも清々しい空気が漂う。
ユージンら黒魔騎士団の団員たち――この世界で“穢れている”と言われ差別されている状態にある人たちには、その“清められた”空間はとても息苦しいらしい。
それでも、私があの場所が好きだと知っているユージンは、度々連れて行ってくれるのだ。ユージンにとっては居心地のいい場所じゃないのにね。
……ユージンが嫌なら、行かなくてもいいんだけどな。
でもユージンはあの場所に入れる私を眩しいものを見るような目で、嬉しそうに見てくるから。
ユージンだけじゃなくて、黒魔騎士団の人たちはみんな嬉しそうな顔をする。私が穢れていないと確認できて安心した顔をしてくれる。
そんな彼らを見るとちょっと泣きそうになった。
だから私はユージンが行けない場所に入ってみせて、それでもユージンたちと一緒にいるよと示すのだ。
「ありがとう、ユージン」
私がしおらしくお礼を言ったことの何がおかしかったのか、ユージンは笑いながら私の頭をクシャクシャと撫でる。そして、精霊の御守と呼ばれるカラフルな大判の布を被せてきた。
「わ、せっかく髪の毛整えたのに!」
「ははっ、悪い悪い。しっかり被っておくんだぞ」
精霊の御守を被っていると、穢れないよう精霊に守ってもらえると信じられている。
ユージンたちが被らないのは、もうすでに手遅れなくらい穢れてしまっているからだって……
「行くぞ、ナノハ」
「うん……ユージン」
つらい環境の中にいても、ユージンは笑顔で私に手を差し伸べてくれる。
右も左もわからない異世界だけれど、ユージンの手を握り返す瞬間、私は確かに幸せを感じていて、それが不思議で不思議でたまらなかった。
町の中心にある神殿の敷地内に入ると、途端に空気が美味しくなる。
でもこれって、穢れ云々じゃなく、ただ色んな汚物が捨てられている道から離れたせいだと思うんだよね。
神殿の中はいつもきれいに清掃されている。外庭も、建物の中も。
ちなみに神殿の中は聖なる気に満ちていて、黒魔騎士団の人のように魔法使いになってしまっていなくても、この世界の人はみんな多かれ少なかれ息苦しくなるらしい。
遠目に、神殿の中を掃除している女性を見かけたことがあったけど、彼女より神殿の奥に入っている人を見たことがないので、この町で一番聖なる気に耐性があるのは彼女じゃないかと思っている。
そして、相変わらず神殿に入っても、私は体調を崩しはしなかった。
けれどユージンは、外庭に近づくところからすでに顔を歪め始める。今日は敷地内に入ろうともしなかった。
「オレは外で待っているので、好きに散歩してくるといい。オレとクリスチャンの分も硬貨を交換してきてくれるとありがたいな」
クリスチャンさんとは黒魔騎士団の団長さんだ。
「うん、わかった!」
ユージンから渡されたのは銀貨だった。
これを神殿の中で清められた銅貨と交換して、御守にするのだ。銀貨との差分はお賽銭のようなものである。
「助かる……こいつを持っているかいないかで、オレたちの扱いが大幅に変わる場所もある」
「ちゃんともらってくるから、心配しないで」
「ああ……ナノハ、ありがとう」
神妙な顔つきをしているユージンに胸が痛くなる。こんなこと、大したことじゃないのに。
清められた硬貨は、私の目にはキラキラと白く光って見える。この世界の人にはその白い光は見えないものの、なんとなく清められているのは感覚でわかるらしい。
その硬貨を見せびらかしていいのは実際に取りに行くことができた人だけだけど、御守としてなら誰でも持っていていいそうだ。取りに行ける人が行けない人に分けてくれるのであれば、の話だけれど。
これまで、黒魔騎士団のために銅貨を取りに行ってくれる人はいなかったらしい。
取りに行けないけれど持っている、ということを一体どんな場面で確かめるのか、私には想像もつかないが、御守をわざわざ出して見せろと言うだなんて、すごく性格が悪く感じる。
「騎士団の人全員分、もらってきたほうがいい?」
「いや、そこまでは……他の団員には悪いが、それをするとナノハが顰蹙を買うだろう」
「そうかなぁ。私は別にそれでもいいけど」
「この先、オレたちでは対応できない案件をおまえに任せたいことが出てくるかもしれない。だからおまえの立場を必要以上に悪くしたくはないんだ。気持ちは嬉しいが、どうかこのままで頼む」
一緒に嫌われ者になったって私は構わないけれど、そうなったらユージンたちがしてほしい手伝いができないかもしれない。それなら、我慢しよう。
私は色んな気持ちを我慢しつつ、銀貨をギュッと握りしめて外庭の散歩を始めた。
外庭は、朝靄にも似た白いモヤが微かに漂ってキラキラとしている。
この白いモヤこそが、おそらく聖なる気と呼ばれるものだ。
「きれいな花だなぁ……あっ、ポロだ!」
ネギに似た草を見て、心が跳ねた。神殿の中なら土が穢れていないだろうし、ユージンも食べちゃ駄目とは言わないんじゃないだろうかと、一瞬思ったけれど、そもそも神殿の草花を摘んだら怒られそうだ。あの掃除をしていた女性が手入れをしているものかもしれない。
「残念……ポロ……ポロマ」
ポロをファイアーバードという鳥の魔物の肉で挟んで串焼きにしたのが、ネギマならぬポロマだ。その味を思い出しつつ、未練たっぷりに側を通り過ぎた。
シャキシャキで美味しいのにね。ユージンだって大好物だ。
「あっ、トッポさん、おはようございます!」
たまに神殿ですれ違うトッポさんが、いつものように蹲っていた。
トッポさんは商人の太ったおじさんで、私がお買い物をする時はいつもこの人を訪ねる。
嫌な顔をせず親切に商品の説明をしてくれたり相談に乗ってくれたりする、いいおじさんなのだ。
何より魔物肉を食べるのを嫌がらない! 普通の人は魔物を食べると穢れると言って、口にするのを嫌がる。どんなに穢れはとり除いたと説明してもだ。まあ、彼らに黒いモヤは見えないらしいからね。でもトッポさんは魔物肉の食事に誘っても、手を叩いて喜んでくれる。
そんなトッポさんは聖なる気に対する耐性がユージンよりも強いから、途中までは庭を歩ける。けれど、神殿の中にある神像のところまでは行けない。神殿の中心部に近づくほど、聖なる気というのは濃くなるのだ。
だが、今日トッポさんが蹲っているのは、いつもより随分手前だった。通常ならもう少し神像に近い場所にいて、昨日より一センチ近づいたとか変わらないとか、そんなことで一喜一憂しているのに。
「トッポさん、どうしましたか?」
「ナノハ様……どうか、お助けを……!」
「えっ!? もしかして具合が悪いんですか!?」
いつも地面に蹲っているのでそういうものだと思っていた。具合が悪くて膝をついているとはまったく気がついていなかったので驚く。近づく私にトッポさんは苦笑を浮かべた。
「ええまあ、気分は最悪なのですが……それは私が穢れているからなので、ご安心ください。それよりも、どうやら中で掃除婦が倒れているようなのです……」
「ええ!?」
「おそらく……いつもより聖なる気が濃いためだと思われます。彼女はぎりぎり神殿に入れる程度に清らかではありますが……これほどの清浄さの中では……」
息も絶え絶えにトッポさんは言う。どうやら中で倒れている人を助けようとして苦しいのを我慢していたみたいだ。
「わ、私が行きますから、トッポさんはここで待っていてください!」
「ナノハ様は……大丈夫なのですか……?」
「へっちゃらですよ!」
そもそも、いつもと違うだなんて気づかなかったくらいだ。けれど、普段なら敷地内のベンチに座って待つユージンが今日は中にも入らなかったし、本当に何かが変わっているのだろう。
目を凝らしてみると、確かに漂う白いモヤの量が増えている気もする。
白い大理石に似た石積みの建物の周りを、白く輝く粒子が舞う。
幻想的な光景に思わずほうっと息を吐いていると、トッポさんが呟いた。
「ナノハ様は敬虔な光の信徒ですね……」
多分褒められているのだろう。何かの宗教に帰依した覚えはないんだけどな。
ともかくトッポさんの声でハッとした私は、軽くお辞儀すると、神殿の中に入った。
「うわ、ホントに倒れてるっ」
倒れた人はすぐに見つかった。階段を上がってすぐ見える神像の裏、その少し奥に入った廊下に、三十代ぐらいの女性が倒れていたのだ。
トッポさんはよくぞこの人が倒れているのを見つけたと思う。
「大丈夫ですか? 今すぐ外に連れて行ってあげますからねー……って!」
その女性を助け起こしていると、今度はその廊下の奥にある、中庭らしきところにも倒れている人を発見してしまった。
「今日は聖なる気が濃いからなの……?」
私はひとまず、後ろから女性の脇に手をかけてずるずると引きずり、神殿の外へ出してあげた。
トッポさんは先ほどより少し離れた場所で、心配そうに両手を揉んでいる。
なんとか彼のところまで引っ張っていって、女性の介抱をお願いした。
「なんだか、まだ中に倒れている人がいるみたいなので、見てきます!」
「おお、それは大変ですな!」
トッポさんに見送られて、私はもう一度神殿の中に入る。
神像を通り過ぎ、さらに奥へ進む。すると、薄暗い廊下の向こうに明るい中庭が見えた。
外から見えていた白い円塔のようなものは、この中庭を囲う壁だったらしい。
高い壁が円形の庭を囲み、空は遠くに青く見える。
その中庭の真ん中に倒れているのは、子どもだった。
「君っ、大丈夫!?」
信じられないことに、その少年は長いピンク色の髪の毛をしていた。この世界には青い髭を持っているおじさんもいるし、ありえない色ではないんだろうけれど、目がチカチカする。
とりあえず、抱っこして外へ連れていこうと肩に触れると、少年がモゾモゾ動き出した。
「んん……なんだ?」
「具合悪いの? 自分で起きれる? 無理そうならお姉さんが抱っこしてあげようか?」
「おねえさん?」
驚いたように間の抜けた声を上げ、少年はぱちりと目を見開いて私を見た。
その目は快晴の青だ。
「……なんだ?」
彼が私の腕から逃れようと身をよじったので、離してあげる。
思っていたよりずっと機敏に動くのを見て、ホッとした。
「今日は神殿の聖なる気がいつもより濃い日らしいの。君みたいに倒れる人が続出でね。だから大丈夫かなぁって思ったんだけど……」
さっき倒れていた女性の顔色は真っ青だったけれど、この少年は顔色がいい。白い頬は薔薇色に染まり、瞳はキラキラしている。
「なんだか元気そうだね。はあ、よかったぁ」
「誰か倒れたのか」
「そう。聖なる気が濃いからじゃないかって、知り合いの人が言ってたんだけど、何があったんだろうね」
「……おまえは元気そうだな?」
「私はいつも元気だよ!」
お腹が減っている時以外はね。
少年は「それはよかった」と呟くと、ヒョイと跳ねるように起き上がった。髪の毛も一緒にピョコンと跳ねる。寝癖にしては立派な跳ね方だ。
「倒れてしまったという人間のところに連れて行ってもらえるか?」
「うん、いいけど、君は大丈夫なの?」
「俺は大丈夫だ」
ニコッと笑った少年は、足元を見下ろした。
精霊の御守と同じ模様が刺繍された帯が、少年の寝ていたあたりにクシャッと丸まっている。彼はそれを拾ってくるくると丸め、側に落ちていた鞄にしまった。代わりに、埃っぽい色をした外套を取り出して、頭から被る。少年は一気にみすぼらしい印象に変わった。
「さあ、行こうか。そういえばおまえの名前はなんだったかな?」
「自己紹介はまだだね。私はナノハだよ。君は?」
「俺の名前はオルガだ。――ん? おまえが聖女ナノハか!」
「ちょ、待ってオルガ」
その名を一体どこで聞いたの、と詰め寄ったら「今は倒れた人間のことを優先しよう」とキリリとした表情で言われたので、しぶしぶ引き下がった。そんな恥の塊みたいな呼び方、どこまで広まっているの……!
ささっと硬貨を交換しオルガと一緒に神殿の外に出ると、女性は顔色は悪いもののトッポさんに支えられれば起き上がれるくらいになっていた。
「ああ。気の毒なことをしてしまったな。だが、もう無事なようだ。よし、行くぞ、ナノハ」
「行くってどこに?」
「俺が行くと言ったら、行くのだ」
「どうして? やだよ。外にユージンを待たせてるんだから」
少年は、町の子だろうか?
彼はどことなく私が仲よくしている難民の子たちとは違う、育ちのよさを感じさせる顔立ちで、なんとなく我儘そうだ。
「君はすっごく元気なようだし、もういいね。私、お腹減ってきたから帰るね」
こういう子がユージンたちのことを偏見に満ちた目で見たりするのかなと思うと、なんだか苦しくなる。親御さんも黒魔騎士団に身を寄せている私と子どもが一緒にいるというのは嫌がりそうだし、私はその子を置いていく勢いで歩き出す。
「待て待て……これを見よ!」
オルガは何か見てほしいものがあるらしい。とりあえず、それだけ見てあげようと振り返ると、外套の帽子をまくって髪の毛をかき上げ、隠れていた耳を見せてきた。
「耳だね?」
「そうじゃない」
「あっ、そういえばとんがってる。可愛いね!」
「……おいおい、どうしてそうなる」
「じゃあね」
散歩したせいか、本当にお腹が空いてきた。
まだお昼には早い時間帯だと思うけれど、準備をするうちに時間もちょうどよくなるだろう。
私が早足で歩き出すと、オルガは外套の帽子を被り直して小走りでついてきた。私が本気で走ってもぴったり追ってくる。
神殿の敷地から走り出てきた私たちを見て、ユージンが首を傾げた。
「ナノハ、その子どもは? まさか難民のガキか?」
「ああ、そうだ」
私が息を整えていて答えられないでいる間に、オルガが答えてしまう。
「神殿に入れるとは大したものだ。そのまま新年までもたせれば、おまえは市民になれるかもな」
ユージンが優しい笑みを浮かべて言うと、オルガはニコリと微笑む。
ユージンは特に疑問を抱かなかったみたいだけど、オルガが難民だというのは、かなり怪しいと思う。だってオルガは仲のよい難民の子――マトたちとは似ても似つかない。この汚れた外套の下は、すごくきれいな格好をしているのだ。
「帰るぞ、ナノハ」
「うん……オルガはなんでついてくるの?」
「おまえに頼みがあるんだ」
オルガはそう言ってニッコリ笑った。無邪気な笑顔で、無下にもできない。
騎士団宿舎に入れていいものかと思ったけれど、最近私が難民の子たちと交流しすぎているせいか、門番の人もオルガを通してくれた。私以外の人は私の友人の子どもたちの顔をいちいち覚えているわけじゃないみたいだしね。
私を部屋まで送ると、ユージンは「訓練に参加してくる」と言ってその場を離れてしまう。
部屋に残るのは、ベッドに広げた毛皮の上でお尻フリフリダンスを踊るウリボンヌと私、謎の少年オルガだけだ。
「私、難民の子たちの顔は、見ればわかるんだよ。オルガは違うよね? 一体何者?」
黒魔騎士団のみんなに迷惑をかけようというのなら、私は全力で抗うよ!
そう思って睨みつけていると、オルガは苦笑した。
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