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「第六話 里美秘抄 ~野望の影~」

12章

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 オレンジ色の陽光が、緑の傾斜を走っていく。
 朝靄に包まれた山間。樹々が吐き出した生命の息吹が、朝の低温に結晶化し、白いヴェールとなって雑木林を縫っている。樹木の緑と、朝日の橙色と、靄の白色と。絵画のような景色が、伊賀の山里に出現する。
 
 地元の者も来ることがない山奥。
 けもの道すら絶えた自然の秘境に、切り立った崖がある。茶色の地肌を現した崖の上には、背の高い樹木がこぞって生えている。
 爽やかなはずの朝を、暗く翳らせる要因がそこにはあった。
 緑のキャンバスに、染みのように黒色が張りついている。
 崖の先端、惨めな姿を満天下に晒すように、五十嵐里美の肉体は漆黒の鎖で縛りつけられていた。
 
 十数本の鎖が、四肢はもちろん全身に巻きついて、周囲の樹から伸びている。空中に十字架に架けられたように固定された里美の姿は、暗黒の蜘蛛の巣にかかった、美しき蝶さながらであった。
 
 「証文があるとはいえ、実際に目に焼き付かせる方が効果的だろう。宗家が惨敗した姿を、じっくりと伊賀の里の奴らに見せてやるんだな」
 
 ひとりに戻った伊達宗元が、垂れ下がった瞳に笑みを刻んで、目の前の囚われの美少女に語りかける。その手には黄色の巻紙。次期御庭番頭領の座を、自分ではなく伊達に引き渡すよう、記された巻紙の最後には、里美自身の血による拇印がしっかりと刻み込まれていた。鎖に緊縛され、うつ伏せのまま、半濁した視線を地に落とし続ける敗北のくノ一は、ピクリとも動くことなく、反逆者の嘲りを甘受している。
 
 「鎖に吊るされたまま、というのはなかなか効くだろう? 今の貴様の体力では2日ともつことはあるまい。2日間たっぷりと、五十嵐の娘が死んでいくところを、身を隠して覗き見している伊賀者どもに見せつけるがいい」
 
 エビ反りのまま、激しい拷問を受けた苦い記憶が、里美の中に蘇る。まだ完治していない肉体が、再度の緊縛吊りに崩壊の悲鳴をあげていることは、誰よりも里美自身が理解していた。
 
 「忍耐力は素晴らしかったが、所詮オレの敵ではなかった。もはや貴様に用はない。せいぜい惨めに死んで、オレの恐ろしさを知らしめることだな」
 
 首にかかった鎖のひとつを持ち、里美の肢体を引っ張りあげる。
 全身の緊縛がさらに締めつけを増し、無数の裂傷と火傷を刻んだ令嬢くノ一を、バラバラにせんばかりに捻りあげていく。
 紫に変色した唇がパクパクと開閉し、声にならない苦悶の響きを、囚われの天使から搾り取る。
 
 「さらばだ、五十嵐里美。オレは現頭領である貴様の父を追わせてもらう。貴様の名は、永遠にオレの胸に残しておこう」
 
 漆黒の鎖に絡まれた美少女を残し、黒づくめの男はその場を去った。
 ギシギシと鎖が食い込む痛撃に悶えながら、暗黒の蜘蛛の巣にかかったくノ一は、もはや涙も枯れ果てた濁った視線を虚空に漂わせる。
 ボサボサになった長い髪が、風に吹かれて舞う。
 完膚なきまでに敗れ去った、守護天使を哀悼するかのように。
 
 
 
 真夏の太陽が、ジリジリと処刑者を照りつける。
 高い日光が、午後を迎えたことを知らせていた。緊縛処刑に架せられてから、数時間、里美の意識は蘇生と失神を繰り返しながら、着実な死へと向かっていた。
 熱を吸収した黒い鎖が、巻きついた里美の白い肌を焼く。火傷の跡が鎖状に刻まれていくが、激しいダメージを抱えた令嬢は、ただ黙って新たな苦痛を受け入れていくしかない。里美には、叫ぶ力さえ残されていなかった。深刻な死への歩みが、幾多の死地を乗り越えてきた彼女にはよくわかっていた。
 
 “・・・あの時・・・・・・亜梨沙の言葉を聞いていれば・・・・・・・こんな目に遭わずにすんだのに・・・・・・・・”
 
 伊達は里美の手に負える相手ではなかった。分身の術を披露された時点で、里美は己の敗北を悟ってしまった。
 仲間に助けに来てもらえれば、こんな無惨な姿を晒さずにすんだだろう。同じ忍者である小柄な少女の言葉が、正統性をもって里美の脳裏に蘇る。
 
 “・・・でも・・・これでいい・・・・・・あの男をナナちゃんたちに会わすわけには・・・いかない・・・・・・・・”
 
 霞む意識の中で、ぐるぐると思考が巡る。青い夏空が痛いほど眩しい。
 
 “・・・悪いのは・・・・・・・弱かった私・・・・・・・・・・全ては・・・・そのせい・・・・・・”
 
 ぐらりと大地が反転する。青空が黒い靄に包まれていき、視界が閉ざされていく。苦しい、という以外、感覚はなにもなかった。
 
 どうやら、終わりが近付いているようね。
 差し迫ってきた死神に対し、不思議なほど透明な気持ちを持った己がいることを、里美は知った。
 
 “・・・・・・・亜梨沙・・・・・最期に・・・・・・・謝りたか・・・・・・”
 
 「里美ッッ!! 勝手に死なせたりしないんだからねッ!!」
 
 あどけなさを残した少女の顔が、白い意識を打ち破って、眼前に現れる。
 四肢を千切りとらんばかりに緊縛していた鎖の力が消失している。
 自らを苦しめていた50キロに満たない体重が、今は背中側に感じられる。
 ジリジリと柔肌を焼いていた灼熱の絡みが解け、染み入るような温かさが華奢な身体を包んでいる。
 
 「・・・あ・・・・・りさ・・・・?・・・・・」
 
 気絶から覚醒した里美は漆黒の緊縛をほどかれ、横たえた肢体を小柄な少女にしっかりと抱きかかえられていた。
 死を覚悟しながら失神していった瀕死の美少女を、一晩中山林を探し歩いていた四方堂亜梨沙は、すんでのところで救出することに成功したのだ。
 
 「里美のバカぁ、だから言ったでしょッ、そんな身体で勝てるわけないって! なのに無茶して・・・バカ! バカバカ!」
 
 鼻先で見詰める小生意気そうな瞳が揺れている。溢れ出した雫が、ボトボトとダメージの深い白磁の美貌に雨を降らす。惨敗を喫した女神にとって、その雨は震えるほどに熱かった。
 
 「・・・・・・どう・・・して・・・・・・ここ・・・・・・・に・・・?・・・・・・」
 
 「当たり前でしょッ、アリサは里美の護衛だもん! 勝手にうろちょろするから、探すのに疲れたじゃんか!」
 
 吊り気味の瞳が赤いのは、涙のせいだけではないことを里美は知る。
 よく見れば、亜梨沙自慢のセーラー服は、あちこちがほつれ、破けていた。星の光のみを頼りに、徹夜で道のない樹海を走り回るのは、くノ一として鍛えられた亜梨沙とて、骨の折れる作業であったことだろう。
 
 初めて里美は、ひとりで伊達との闘いを選んだことを悔いた。
 周りに迷惑をかけないはずの闘いが、こんなにもこの小さな少女を苦しめてしまっていたのだ。
 理屈では理解していた事実を、実感として悟った里美の心には、恥ずかしさよりも、詫びの気持ちよりも、胸につまるような温かいものが流れこんできていた。
 
 「亜梨・・・沙・・・・・・ごめ・・・」
 
 「いい。謝んなくていい。そんなことする余裕があったら、里美は自分が生き残ることを考えて」
 
 ビリビリに破けた忍び衣装を着、腕や太股から白い肌を露出させた聖少女を、四方堂亜梨沙は背負う。小さな身体のどこにそんな力があるのか、自分より大きな里美を担いでいながら、亜梨沙の動きに重さはない。
 
 「かなり体力を削られちゃってる・・・早く治療しないと」
 
 「オレの獲物を断りもなく、どこに連れて行く気だ?」
 
 突然湧いた声に振り返るより早く、里美を背負ったセーラー服は跳躍していた。
 残像をすり抜けた鋼の手裏剣が、潅木の幹に刺さって乾いた音をたてる。
 
 「伊達宗元ッ!!」
 
 「待っていたぞ、小娘! 必ず救出に来ると思っていた!」
 
 笑いを含んだ雄叫びをあげるその者の名は、伊達宗元。
 黒の長袖シャツに黒のスラックス。手袋から靴に至るまで、黒で統一された漆黒の暗殺者が、薄い笑みを刻みこんだまま、一気に重なり合った美少女に襲いかかる。
 場を去ったはずの伊達の唯一の気掛かり、それが四方堂亜梨沙の存在だった。敢えて里美を目につく場所に晒したのは、見せしめのためだけではない。待ち伏せの罠に、見事に少女忍者は引っ掛かってくれたのだ。
 
 刃渡り60cmほどの忍刀が、重荷を背負った少女に踊りかかる。煌く斬撃を、太股から抜き出した苦無で防ぎきっただけでも、亜梨沙の戦闘力は賞賛されるべきだろう。
 不意を突いて放った少女の蹴りが、伊達の腹に吸い込まれる。
 “打つ”というより“押す”打撃により、2組の忍者の間には、距離ができた。
 すかさずポケットから取り出した、うずらの卵のような球体をふたつ、亜梨沙は地面に叩きつける。
 
 「む?! 煙玉かッ」
 
 もうもうと立ち込める黒煙が、風に吹き消された時、獲物である少女忍者たちの姿は、煙と同様掻き消えていた。
 
 「くくく・・・味なマネを・・・だが、逃がしはせんぞ。ふたりとも血の海に沈めてくれよう」
 
 反逆の影が霞む。深緑の山奥に一陣の風が舞った。
 
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