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番外編
真珠の話
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岸から外海に向かって、潮目が伸びている。潮目は、水平線で空とぶつかった。海面を風がそよぎ、波を遊ばせる。内海の波は穏やかだ。白い泡が踊る海面を潜ると、世界は一変する。天井のない絶対の解放から、深遠に広がる静寂へと。海の中は岩礁が広がっている。珊瑚や岩には藻がへばりついている。魚たちは、海の中をたゆたい、お互いが通り過ぎる時だけ速度を増した。
全身を包む塩辛い水、吐く息は泡となり水面を目指す。
やっと見つけた真珠貝。さあ、口をあけてごらん?
アレクの妻、マリー・ソフィーは王宮に与えられた一室で、寛いでいる。
アレクは、ノックをして返事を待たずに入っていって、妻の前に立った。マリー・ソフィーがスカートの下に、何かを隠したのは見えていない振りをした。
「……何かご用?」
マリー・ソフィーは夫と二人の時は、夫への不機嫌を隠さない。
マリー・ソフィーは、彼の息子といくらも年の変わらない、アレクの年若い妻だ。
先に亡くした妻のことは、今でもよく覚えている。あれは、繊弱だが美しい女だった。真珠貝は開けるまで中の真珠の具合がわからない。その割には、あたりの方だった。亡妻との間にもうけたヨナスは、アレクによく似た、凜々しい若者に成長した。絶世のマリー・ソフィーにはヨナスの方が似合いでは無いかなど、口さがない連中もいたくらいだ。
貴族社会は生き馬の目を抜くようにしてしか、生き残れない。ましてや、有象無象の手をかいくぐって、これぞと狙ったものを手にするためには、長い年月を掛けて、丹念周到に準備をせねばなるまい。ヨナスには、マリー・ソフィーは過ぎた獲物だ。
白いものが混じっても豊かな髪、雲脂の一つも落ちていない広い肩。背格好はヨナスには劣るが、アレクも充分威風堂々とした体格である。こうして妻の前に立ちはだかることが、彼女を少し怯えさせることも知っている。
マリー・ソフィーは緑色の目に警戒を浮かべて、アレクを見上げる。
「私の美しい奥さんに、贈り物を持ってきたんだ」
「贈り物?」
ポケットから布張りの箱を出すと、マリー・ソフィーはそれを片手で受け取った。
「開けてごらん」
低く掠れたアレクの声に促されて、マリー・ソフィーは膝の上で箱を開ける。俯いた彼女の頬に、はらりと金色の髪が一筋落ちた。
「……真珠」
「探していたんだろう? お前が娘の花嫁支度に、素敵な宝石を探していると商人から聞いた」
「宝石なら、他にも」
「真珠がいいんだろう、マリー・ソフィー」
マリー・ソフィーの高い頬骨にさっと朱がのぼる。
「いりません」
「真珠を……ロロ? ルル? そういうらしいね、現地の言葉では」
アレクは、未だマリー・ソフィーの膝の上に乗ったままの真珠を顎でしゃくった。
まだルルと同じ年頃だった娘が、年寄りどもに弄ばれ、どれ程傷ついたか、想像に難くない。アレクが調べたところによると、彼女はルルを産むまで、何度か堕胎を経験していた。よくも気位の高いままでいられたことだ、と褒めてやってもいいくらいだ。
(秘密にして)
(隠しておくの、大事なものは、ひっそりと)
彼女が、どんな思いで、娘に、真珠を意味するルルという名前を名付けたか。かつて夢見がちであった美しい少女。
マリー・ソフィーは押し黙って、下からアレクを睨み付けている。魅惑的な身体の曲線は、座っていてもありありとわかる。豊かな胸の膨らみ、手首の細さ。肌は脂粉を塗らずとも白い。マリー・ソフィーの艶美は成熟に到達しようとしていたが、彼女はまだ若かった。毒婦と呼ばれたとは言え、まだ息子と同じほどの年齢のマリー・ソフィーと、幾多の戦場を経験したアレクの差はすぐに出た。
従順であれば、秘密は保たれる。
「……私が、これをあなたに返したら、どうするの」
「捨ててしまうよ」
「じゃあ、しょうがないから、貰ってあげるわ」
そうした方がいい、とアレクは頷く。今、君の尻の下に隠した宝石箱にある真珠より、こちらの方が花嫁にふさわしい。
真珠貝は、一度傷つかなければならない。傷は真珠の元になる。傷によってできた真珠の核は、徐々に大きく丸く育っていく。そう、真珠が充分に大きくなるためには、年月が必要だ。
アレクはついと指を伸ばして、マリー・ソフィーのほつれ毛を耳に掛けてやった。
マリー・ソフィーは大きく身体を強ばらせて、目を瞠った。このマリー・ソフィーが硬い殻に閉じ込めて、そっと育ててきたもの、それは娘の面影だけではない。
真珠を取り出す時には、真珠貝の殻の間に、鋭い刃先を差し込んで、貝柱を切らねばならぬ。そこさえ切れば、貝は自ら口を開く。後は柔らかい肉をほじくって、美しく照り巻いた珠を取り出せばいい。
マリー・ソフィーの白い喉がこくりとつばを飲み下す。
アレクの手には真珠貝と、研ぎ澄ました刃がある。これはかねてより彼のものであった。狩り頃まで待つのが、紳士の嗜みであろう。
「美しいマリー・ソフィー、そろそろ君は、君の夫の有能さを認めた方がいいのじゃないかね」
「……うるさいわね」
マリー・ソフィーは夫の手を払った。そして、自分ではさりげないつもりで、スカートの下、更に奥の方に宝石箱を押しやりつつ、膝の上で真珠の箱を握りしめた。
「……にやにやして、あなたっていけ好かないわね」
「これは、手厳しい」
マリー・ソフィーの年上の夫アレクは苦笑して、ポケットに手を突っ込み、指を、小指から順に、薬指、中指、人差し指、最後に親指を添え、とうとう、見えない刃の柄を握った。
全身を包む塩辛い水、吐く息は泡となり水面を目指す。
やっと見つけた真珠貝。さあ、口をあけてごらん?
アレクの妻、マリー・ソフィーは王宮に与えられた一室で、寛いでいる。
アレクは、ノックをして返事を待たずに入っていって、妻の前に立った。マリー・ソフィーがスカートの下に、何かを隠したのは見えていない振りをした。
「……何かご用?」
マリー・ソフィーは夫と二人の時は、夫への不機嫌を隠さない。
マリー・ソフィーは、彼の息子といくらも年の変わらない、アレクの年若い妻だ。
先に亡くした妻のことは、今でもよく覚えている。あれは、繊弱だが美しい女だった。真珠貝は開けるまで中の真珠の具合がわからない。その割には、あたりの方だった。亡妻との間にもうけたヨナスは、アレクによく似た、凜々しい若者に成長した。絶世のマリー・ソフィーにはヨナスの方が似合いでは無いかなど、口さがない連中もいたくらいだ。
貴族社会は生き馬の目を抜くようにしてしか、生き残れない。ましてや、有象無象の手をかいくぐって、これぞと狙ったものを手にするためには、長い年月を掛けて、丹念周到に準備をせねばなるまい。ヨナスには、マリー・ソフィーは過ぎた獲物だ。
白いものが混じっても豊かな髪、雲脂の一つも落ちていない広い肩。背格好はヨナスには劣るが、アレクも充分威風堂々とした体格である。こうして妻の前に立ちはだかることが、彼女を少し怯えさせることも知っている。
マリー・ソフィーは緑色の目に警戒を浮かべて、アレクを見上げる。
「私の美しい奥さんに、贈り物を持ってきたんだ」
「贈り物?」
ポケットから布張りの箱を出すと、マリー・ソフィーはそれを片手で受け取った。
「開けてごらん」
低く掠れたアレクの声に促されて、マリー・ソフィーは膝の上で箱を開ける。俯いた彼女の頬に、はらりと金色の髪が一筋落ちた。
「……真珠」
「探していたんだろう? お前が娘の花嫁支度に、素敵な宝石を探していると商人から聞いた」
「宝石なら、他にも」
「真珠がいいんだろう、マリー・ソフィー」
マリー・ソフィーの高い頬骨にさっと朱がのぼる。
「いりません」
「真珠を……ロロ? ルル? そういうらしいね、現地の言葉では」
アレクは、未だマリー・ソフィーの膝の上に乗ったままの真珠を顎でしゃくった。
まだルルと同じ年頃だった娘が、年寄りどもに弄ばれ、どれ程傷ついたか、想像に難くない。アレクが調べたところによると、彼女はルルを産むまで、何度か堕胎を経験していた。よくも気位の高いままでいられたことだ、と褒めてやってもいいくらいだ。
(秘密にして)
(隠しておくの、大事なものは、ひっそりと)
彼女が、どんな思いで、娘に、真珠を意味するルルという名前を名付けたか。かつて夢見がちであった美しい少女。
マリー・ソフィーは押し黙って、下からアレクを睨み付けている。魅惑的な身体の曲線は、座っていてもありありとわかる。豊かな胸の膨らみ、手首の細さ。肌は脂粉を塗らずとも白い。マリー・ソフィーの艶美は成熟に到達しようとしていたが、彼女はまだ若かった。毒婦と呼ばれたとは言え、まだ息子と同じほどの年齢のマリー・ソフィーと、幾多の戦場を経験したアレクの差はすぐに出た。
従順であれば、秘密は保たれる。
「……私が、これをあなたに返したら、どうするの」
「捨ててしまうよ」
「じゃあ、しょうがないから、貰ってあげるわ」
そうした方がいい、とアレクは頷く。今、君の尻の下に隠した宝石箱にある真珠より、こちらの方が花嫁にふさわしい。
真珠貝は、一度傷つかなければならない。傷は真珠の元になる。傷によってできた真珠の核は、徐々に大きく丸く育っていく。そう、真珠が充分に大きくなるためには、年月が必要だ。
アレクはついと指を伸ばして、マリー・ソフィーのほつれ毛を耳に掛けてやった。
マリー・ソフィーは大きく身体を強ばらせて、目を瞠った。このマリー・ソフィーが硬い殻に閉じ込めて、そっと育ててきたもの、それは娘の面影だけではない。
真珠を取り出す時には、真珠貝の殻の間に、鋭い刃先を差し込んで、貝柱を切らねばならぬ。そこさえ切れば、貝は自ら口を開く。後は柔らかい肉をほじくって、美しく照り巻いた珠を取り出せばいい。
マリー・ソフィーの白い喉がこくりとつばを飲み下す。
アレクの手には真珠貝と、研ぎ澄ました刃がある。これはかねてより彼のものであった。狩り頃まで待つのが、紳士の嗜みであろう。
「美しいマリー・ソフィー、そろそろ君は、君の夫の有能さを認めた方がいいのじゃないかね」
「……うるさいわね」
マリー・ソフィーは夫の手を払った。そして、自分ではさりげないつもりで、スカートの下、更に奥の方に宝石箱を押しやりつつ、膝の上で真珠の箱を握りしめた。
「……にやにやして、あなたっていけ好かないわね」
「これは、手厳しい」
マリー・ソフィーの年上の夫アレクは苦笑して、ポケットに手を突っ込み、指を、小指から順に、薬指、中指、人差し指、最後に親指を添え、とうとう、見えない刃の柄を握った。
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