aranea

千日紅

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本編

不幸

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 一年生と三年生で、同じ高校に在籍すれば、校内ですれ違うこともある。克彦は決まって、私を「織愛お姉さん」と呼び、姉に対する思慕を隠さなかった。取り巻きの女の子達や、目立つ男の子達――克彦の友人だ。私と違って、彼には友人が多い――を放り出して、私の元に駆けてくる。 
 大きな体を躍動させて、私の元にくると、私に目線を合わせるために、克彦は少し腰を屈める。 
 私は、克彦をつっけんどんにあしらう。校内では、男にルーズで性格の悪い顔だけの波多野姉、姉思いで人気者で男女ともにモテモテの波多野弟、という風に認知された。私のガリ勉体質だけは変わることなく、家では勉強を欠かさなかったし、授業態度も良かったのだが、ひとは本当に見たいようにしかものごとを見ない。 
 克彦は、シスコンだとからかわれても、「織愛お姉さん」に対する態度を一貫して変えなかった。中学からの同級生は「克彦はずっとあんなんだよ」と言い、克彦のガールフレンド達は、私に対しての悋気を、マウンティングの原動力にした。 



 親はこどもが何をしているか知らない。子供はやがて大人になるが、それまでの間、大人が嫌う悪さをするものだから、きっと、見たくないのだろう。 
 両親は、あの人達は、私と克彦が、彼らのいない家で、何をしているのか知らない。私の高校での評判も、克彦のことも、自分たちの耳に心地よいものしか聞こうとしない。 
 私はそう思っていた。 
 三年生の担任であった田島も、そんな大人のひとりだと思っていたが、彼は少し奇妙な教師であった。 
 小柄で華奢な体つきは、中学生みたいだった。他の教師が白衣を着たり、ジャージを着たり、スーツを着たりしている中、彼だけはいつも細身のジーンズを履いていた。 
 田島はわかりやすく面白い授業を行った。彼は生物を教えていた。授業を通して、私達は彼のひととなりを知っていく。偉ぶったところのひとつもない、少年のまま大人になったみたいな田島。 
 田島は、生徒ひとりひとりの顔をしっかりと見て話す。愛妻家で、ぽろりと妻とのエピソードを漏らすのだが、突っ込まれると誤魔化す代わりに、「それ以上はプライベートなので話しません!」と顔を赤くして言った。 
 クラスにはひとりふたり、教師をからかうようなやんちゃな生徒がいるもので、そういった輩に対しても彼は平等だった。成績のよい生徒や、教師に従順な生徒と、反抗的であったり成績のふるわない生徒を、同じように扱った。 
 私達のやることに、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、恥ずかしがったり、一緒に笑ったりした。 
 田島は、私達生徒を、ひとりの人間として扱った。 私も彼を好ましく感じていた。



 その田島が、私を放課後の生物室に呼び出したものだから、訝しく思いつつも、私は素直に生物室に向かった。 
 心当たりは幾つかあった。進路を決めていないこと。異性との交友関係が派手なこと、あまりクラスメート達の輪に入らないこと。どれにしても、それなりにやり過ごそうと思っていた。 
 秋の日差しが、長く生物室の、つるつるした机に窓の影を落としていた。 
 田島は窓側に座り、私は眩しさに目を細めた。 
「波多野、お前の進路のことですが」 
 田島は眼鏡をかけていた。眼鏡の枠に比べ、顔は小さくて、田島を年齢よりも若く見せる。 
「すいません、決めるのが遅くて」 
「ご両親は何て言っていますか?」 
 私は、田島を気安い相手に思っていた。ひょっとしたら、見下していたかも知れない。大人のくせに、大人らしくない田島を、私は困惑させたかったのだ。そして、子供らしい満足を得ようとしていた。 
「何も言いません、だって、お父さんもお母さんも、私のことには興味がないから」 
 一息に言って、私はにっこりと微笑んで田島を見返した。 
 田島の輪郭が、光にぼやけている。その時、すっと光が陰って、田島の表情が判然とした。 
 彼は恐ろしく真剣な顔をして、私を見ていた。 
「それは、どういうことですか?」 
「どういうって、言ったとおりです」 
「何をされてる? 暴力?」 
「やだ、そんなことないですよ」 
 私は田島に説明してやった。カナちゃんにも話したことがないくらい、詳しく田島に話して聞かせた。 
「ただ、私はいてもいなくてもいいってことです。暴力なんてふるわれないですよ。だって、その辺の置物とか壁に、暴力ふるってたらおかしいひとじゃないですか」 
「でも、お前は人間でしょう、その人達の娘でしょう」 
「んー。そうですね、ちょっと……うちの両親は性格が悪いのかな? でも私の方が性格悪いし」 
 この時の気持ちは、多分、復讐をしている気持ちだったのだ。 
 私は、近所の誰にも、親戚の誰にも、克彦にさえ、両親について思うことを語ったことはなかった。 
 それから、私はいつでも、自分を貶める機会を窺っていた。 
「両親は弟をとても可愛がっていて、私のことはどうでもいいんです。私は恵まれているほうだと思いますよ。それに克彦は――あの子は、本当にいい子なの」 
「悲しいことを言うね」 
「先生は克彦のこと知らないの?」 
「知ってるよ。大変な人気者の一年生だ。勉強も運動もできる」 
「そうなのよ、だからみんな克彦を好きになるの。だからいいんです。それだけ克彦がいい子だってことなんだから。だから私は放っておかれて当然だし、むしろ幸せだってくらいじゃないかな」 
 私は田島に首をすくめた。愉快な気持ちだった。自分の醜さをひけらかせることで、この善良な担任教師を驚かせたのだと思った。 
 それに、この時の私は本当に思っていた。私は幸せだと。私は弟を虐げる醜い人間であるが、五体満足であったし、飢えることもなかった。成績もそれなりに――勉強はしたが――平均より上の方ではあったし、見た目も男達の関心を集めるほどには良かった。 
「いや」 
 田島はかぶりを振った。そして、ぴしりと姿勢を正した。もとからいつも小気味動く田島であった。彼の所作には、彼の心がよくあらわれていると感じられた。 
 だから、田島のその改まった様子に、私はたじろいだ。 
 田島は、しっかりと私の目を見て言った。 
「お前は不幸です」 
 不幸――不幸――それは、新聞の社会面に時々載っているものであって、私から遠くにあるもののはずであった。 
 私は笑おうとした。 
「やだ、田島先生、そんなこと言って、それは私のことをよく知らないから思うんです」 
「何を知ればいいですか? お前の男関係が派手なことですか」 
 知られていてもおかしくはなかったが、面と向かって言われると胸が疼いた。 
「先生達の間でも噂になってるの?」 
「波多野の話を聞くまでは、僕はいいもわるいもないことだと思っていましたが、それもお前にとってはわるいことです」 
「どうして? なんでそんなこと田島先生が言うの?」 
「お前は、異性を道具にして自傷しているだけだからです」 
「……面白いこと言うのね、先生」 
 私は段々腹が立ってきた。私は、両親のことを話して、田島が驚くのが見たかった。田島が両親を見下すところが見たかった。でも、田島は、ただ私を見ていた。 
 私を憐れんでいた。 
「先生、いいこと教えてあげようか」 
 私は再び笑おうとした。田島は目を細めて、それでも私から目を逸らさなかった。 
「私が弟と何をしているか」 
「いや」 
 田島は目を伏せた。私は、その瞬間、田島に勝ったと思った。 
 しかしそれは違った。田島は顔を両手で覆った。 
 それから、しばらく彼は黙っていて、私も黙ったままでいた。 
 田島はゆるゆると顔を上げると、また私を真っ直ぐに見た。 
「波多野、お前はいい子です」 
 田島の輪郭が、また光にぼやけていく。 
「もし、お前が誰かを殺したりしても、僕がお前はいい子だって、証言してあげますから」 
 田島は、この上なく真剣な口調で言った。 
「……何言ってんの、先生」 
「それから、やっぱり、お前は不幸です」 
 面接はそれでお開きになった。




 いつもの教室の、いつもの休み時間で、ひっそりと机を挟んで、私はカナちゃんに田島との面接について内容をぼかして伝えた。克彦とのことは、カナちゃんには言えなかった。 
 カナちゃんは、私が彼氏に簡単に体を許すことに対して、「確かに田島先生が言うとおり相手がいる自傷行為だね」と言ってのけた。「だって、織愛は彼氏と別れても、新しい彼氏ができても、つまらなさそうにしてる」 
 炯眼のカナちゃんは、土屋に思いを告げぬまま、その恋を閉じていた。彼女は自分のセクシャリティに悩んでいた。目下、カナちゃんがときめく相手は、同じクラスのユウナちゃんなのだった。 
「田島先生はさ、すごく鋭いよ。多分、私がユウナちゃんを好きなのも知ってる。でも、それで気持ち悪そうにもしないもん」 
 カナちゃんが田島先生の味方をするとは思わなかった。彼女は、放課後こっそりユウナちゃんの席に座っているところを、偶然田島に見られていた。田島は、カナちゃんに「暗くなる前に帰りなさい」とだけ言ったそうだ。 
「カナちゃんは、ユウナちゃんに告白しないの?」 
「どうせうまく行きっこないよ」 
 カナちゃんはユウナちゃんのどこを好きになったのだろう。私は聞かなかった。ひとを好きになる理由を突き詰めるより、恋愛の苦く甘美な味を楽しんでいたかった。 
 私が弟と寝ていると、カナちゃんに言えたら、彼女はユウナちゃんに告白しただろうか。相変わらず香港マダムみたいな顔のカナちゃんは、絵のモデルか何かをしたら映えそうな独特の魅力があった。骨太で、長いがっしりとした体つきも、エキゾチックで、一部の生徒にとても人気があった。 
 波多野姉とカナちゃんはセットで、少し集団から外れたところで、でも集団に許容されていた。高校生活とは、個性を見つけ、個性を認め合う課程だった。三年生にもなれば、私達はそれぞれが見えないフラフープの輪みたいなものを装着しあっていて、それをみだりに侵害しないことを覚えていた。私の輪は、カナちゃんと、克彦にだけ開かれていた。 
「織愛、あたしは織愛のこと好きだよ」 
「私もカナちゃんのこと好きよ」 
「……こんな風に、特別じゃない好きは、簡単に言えるんだよな」 
「そうだね、カナちゃん」 
 簡単に言えるってことは、それまでってことなんだよね。 
「特別な好きって、どんな気持ちなんだろうね、織愛」 
「そうだね、カナちゃん」 
 カナちゃんがユウナちゃんに向ける思い。カナちゃんはそれを明確な言葉で表現できない。 
「……でも、好きなんだよね。同じ教室にいるってだけで、同じシャーペン持っているってだけで、苦しいな。ずっと見ていたい」 
「そうだね、カナちゃん」 
「織愛は、彼氏のことちゃんと好きだった?」 
「好きだったよ」 
「じゃあ、波多野弟よりも、好きだった?」 
「どうして?」 
 カナちゃんは、ユウナちゃんとおそろいの、教室の半数くらいが持っているシャーペンをくるりと手の中で回した。 
「織愛は、弟くんがいると、ずっと弟くんを見ているから」 



 不自由ない生活と、親友に恵まれた私。 
 克彦の姉である私。私は自分を幸福だと信じようとしていた。 
 けれども、田島の言葉が、喉に引っかかった小骨みたいに私をいらつかせた。 
 田島は、私が弟と何をしているかちゃんと悟っていた。 
 私と田島の進路面接は、それから数週間をおいて、また行われた。 


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